ブルックナー/ミニ・コラム①ー表題性

 ブルックナーの交響曲において、「何番はなんと呼ぶか」という意味での表題性、また、それが誰に献呈されたかといった歴史的な足跡は、他の作曲家に比べれば、あまり意味をもたないとは言えないでしょうか。例えば、ベートーヴェンにおける「英雄」「運命」「田園」「合唱(付)」や「舞踏の聖化」(7番、ワグナーの命名)などの表題性は、日本では特に強いイメージ形成力がありますが、これに対してブルックナーにおける「ワグナー(3番)」、「ロマンティック(4番)」などは、せいぜい<参考値>程度の受けとめ方ではないかと感じています。
 それは、ブルックナー本人がどう考えたかともあまり関係がないようにも思います。3番において、ブルックナーは細心の注意を払って、その扉のデザインに献呈する「ワグナー」の文字を金泥による装飾で入れるべく手紙で発注したと伝えられますが、現代の聴き手にとっては史実としての興味とは別に、音楽を聴くうえでは想像力を刺激されません。それは7番(ルートヴィッヒ2世)、8番(フランツ・ヨーゼフ1世皇帝)、9番(親愛なる神へ:dem lieben Gott)をブルックナーが悩んだすえ誰に捧げたかについても同様です。
 
 端的に言えば、上記のベートーヴェンのシンフォニーであれば、これは何番の何楽章ということは聴き慣れたリスナーは容易に言い当てるでしょうが、ブルックナーの場合(私の聴き方が浅いということを考慮しても)、これがブルックナーだということは直ちにわかったうえで、さてその後、番数と楽章まで瞬時に言えるとすれば音楽関係者か相当修練を積んだファンに限られているのではないでしょうか。
 
 「無窮性」とでもいうべき特徴がブルックナーの作品にはあると考えます。1曲毎の完結とは別に、1曲はまた他の曲と連続し、いつまでも続く終わりなき曲想の流れに身をまかせることの心地よさがブルックナーにはあります。したがって同じ曲をエンドレスで聴いても飽きがきません。
 ブルックナーが後期の交響曲の作曲とともに、初期の交響曲の改訂を同時期にいくども行っていることもそう考えると違和感がありませんし、チェリビダッケが言う「終わりと始まりの同時性」(映画『チェリビダッケの庭』についての石原良也氏のコメント)も理解できます。「無窮性」ーそれこそが「表題性」と対置するブルックナーらしい魅力のひとつではないかと思います。
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