ブルックナー/メモランダムⅡ⑧ーG.マーラー(1)

 ヴォルフとG.マーラー(Gustav Mahler)は、二人とも1860年の生まれ。マーラーは1875年に音楽院入学のために故郷のイーグラウからウイーンに出てきますが、ここで同期生としてヴォルフと会います。マーラー、ヴォルフおよびクルシシャノフスキー(後のヴァイマール宮廷楽長)は一時期、同じ下宿で共同生活をする仲になります。この3人は若きワグネリアンとして大いに談論風発をしたようです。また、ブルックナーのウイーン大学での和声学の講義をマーラーは聴講しています。
 マーラーはその後、指揮者として身をたて1897年にウイーン宮廷歌劇場指揮者という栄えあるポジションをえてウイーンに「凱旋」しますが、ここでヴォルフから自作のオペラの指揮を頼まれ、これを断ったことから「2人の古き友情は決裂した」※1と言われます。ヴォルフはこの後、坂道を転げ落ちるように悲劇的な人生を歩んでいきますが、マーラーは逆にウイーンで登り竜のような音楽家としての活動を展開していきます。ヴォルフの死後、かっての親友の追悼のため7年をへた1904年に、このオペラ「お代官様」をマーラーは初演します。
 ブルックナーはマーラーがウイーンに戻る前年に世を去っていますが、マーラーは1899年のマチネーのウイーンフィル定期演奏会で6番のシンフォニーを初演しています。しかし全曲演奏と言えども相当な短縮を行ったとされています。なお、マーラーは若き日に、ブルックナーの3番のシンフォニーを4手のピアノ用に編曲し、また5番のシンフォニーの短縮も行っています。※2
 そのマーラーのいわば白鳥の歌たる「大地の歌」と9番のシンフォニーをマーラーの死後初演したのは、ブルーノ・ワルターでした。ワルターはブルックナーとマーラーの違いについて次のように語っています。「マーラーは一生を通じて神を探し求めた。ブルックナーは神を見た。」※3
 マーラーの下でウイーンフィルの副指揮者を勤め、また晩年のブルックナーの地元ウイーンでの盛名を耳にしていたワルターならではの何とも含蓄のある言葉です。
 
※1、2は船山隆『マーラー(カラー版作曲家の生涯)』(1987年 新潮文庫)pp.25-27,pp.187-190、※3はヘンリー・A・リー著/渡辺裕訳『異邦人マーラー』(1987年 音楽之友社)p.87他を参照
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