ブルックナー/メモランダムⅢ①ーR.ワーグナー(1)

 ワーグナー(Richard Wagner :1813-1883年)の伝記を読んでいると、疾風怒濤のごとき時代との「格闘」、華麗な人脈と各地へのあくなき「転戦」、何人分もの人生を一人で経験したかのような「巨大な活動エネルギー」に圧倒されます。およそブルックナーとは対極の生き方です。
 通常、ブルックナーの伝記ではワーグナーとの接触はハイライトといってもいい重要な出来事ですが、ワーグナーの伝記中でのブルックナーの登場は、厖大すぎる事象にあって、ほんの一コマを飾るにすぎません。批判者ハンスリックとの関係の方が刺激的であるゆえに、より紙面が割かれるのではないでしょうか。
 有名なエピソードですがワーグナーは1830年にベートーヴェンの第9シンフォニーをピアノ独奏用に編曲しています。また、1832年に交響曲ハ長調を作曲、これはプラハで初演されたのち、翌年にはゲヴァントハウスでも演奏されています。※1当時のワーグナーは19歳です。40歳をすぎてから交響曲の作曲に本格的に取り組みはじめるブルックナーとは大違いです。ワーグナーは、交響曲という作曲ジャンルでは自分のもつミューズを発揮できないとはやくから見切っていたのかも知れませんが、楽劇Musikdramaという独創的な総合芸術に挑戦していきます。対してブルックナーは終始一貫し交響曲に特化してその芸術の高みに登っていきます。
 ワーグナーの「お師匠筋」にあたるリストをして、既に交響曲から交響詩へと標題音楽への転換をはかっていたわけですから、野心家のワーグナーがそれをさらに踏み越えていくのは当然としても、リストともワーグナーとも親交のあったブルックナーが頑なに交響曲にこだわっていくのも、そのコントラストが面白いですが、リスト、ワーグナーとブルックナーとはリスナーとしての音楽体験でも不連続なものを多く感じます。フルトヴェングラーが、ブルックナーを「絶対音楽家」(「メモランダム⑤の4ーW.フルトヴェングラーの論考」参照)と言ったこともそうした違いを指摘していると考えます。
 さはされど、ドイツ音楽という大きな包含のなかでは、ドイツ的な(と日本人が感じる)雰囲気はいずれにも通底していると思います。ワーグナーの楽劇に関心をもった頃、かってヨッフムのライブで聴いたヴェーバー「魔弾の射手」によく似ているなと思いました。
 そのヴェーバーですが、ワーグナーの子供の頃、義父ガイアー家に親しく出入りし、ワーグナーは尊敬の念を抱き将来、ヴェーバーのようになりたいとひそかに憧れたようです。また、ワーグナーがマルデブルグ市立歌劇場の指揮者時代には、おそらくは人気メニューだったでしょうが「魔弾の射手」も演目として取り上げています。※2
  さらに、1844年、ヴェーバーはロンドンにて客死しますが、その遺骸を母国に移送し葬儀、埋葬の労もワーグナーはとっています。※3
 ブルックナーの「テ・デウム」を聴いていても、これが宗教曲だとは知りつつも、なぜかふとワーグナー以前の「魔弾の射手」を連想してしまうことがあるから不思議です。
 
※高辻知義『ワーグナー』(1986年 岩波新書)から各p.34,p.30-.38,p.71を参照。 
 
<コンサートの記録>
1970年4月28日:日生劇場:ヨッフム ベルリンドイツオペラ
◆ウェーバー/魔弾の射手、全曲
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