ブルックナー/メモランダムⅥ②ー ハプスブルク帝国(1)

 最近手にとった歴史書(末尾)やネット検索からの知識で、以下、ハプスブルク帝国について簡単にメモしておきます。メッテルニヒやビスマルクが活躍し、思想史のうえでも幾多の思想家が登場する時代ですが最小限の覚え書きです。
 

1.オーストリアの歴史概観

 
 オーストリア(Republic  Östereich)は9つの自治州からなる連邦共和国です。
  歴史をたどると紀元前4世紀頃にケルト族がはじめての統一国家ノリクム王国をつくりますが、紀元1世紀にローマ帝国から攻められ、ローマからみた北方の駐屯地になります。その後6世紀にはゲルマン族の一部がバイエルンから南下してきます。8世紀にはカール大帝がオストマルク(東部辺境)と位置づけ、これが今日のÖstereichの語源です。10世紀から13世紀半ばまで、ここをバーベンベルク家が領有し、その中心都市をウイーンにおきます。帝都ウイーンの始動です。
 13世紀末にバーベンベルク家は断絶、これにかわって神聖ローマ帝国皇帝の子供達がオーストリアを支配し、ここからハプスブルク家の時代がはじまります。ハプスブルク家は代々の皇帝をだす一方、政略結婚戦略を展開し、近隣国と姻戚関係をむすび、フランダース、ルクセンブルク、チロルを継承するとともに、ハンガリーを征服しトルコを駆逐して中・東欧支配を確立します。さらにこれにとどまらず、スペイン継承戦争でスペインも手中におさめ、英国とフランス以外はすべてハプスブルク家の「実質」領地といった全盛期に達します。
 かってのローマ帝国同様の広大な領土展開から往時は「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたハプスブルク家ですが、18世紀、かのナポレオンの登場によって敗北し、ベネチアなどを失うとともに、神聖ローマ帝国そのものが消滅します。この段階で中・東欧からなる多民族国家の「オーストリア・ハンガリー帝国」となりますが、なおも、いまのポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴ(セルビア・モンテネグロ)などを含む欧州最大の帝国でした。
 しかし、さしもの栄華を誇ったハプスブルク帝国も、第一次世界大戦で敗れ1918年カール1世の退位で13世紀から650年の歴史に終止符をうち、領土も戦前の4分の1にまで縮小しオーストリア共和国として再出発することを余儀なくされます。その後ナチの台頭とともにドイツに併合されて第二次世界大戦へと突入。再度の決定的な敗戦により1945年には旧ソ連軍に占領されますが、1955年永世中立国として主権を回復し今日を迎えます。
 

2.19世紀から20世紀初頭の時代

 

 次ぎにブルックナーの時代の前後にフォーカスしてみましょう。

 上記のとおり、神聖ローマ帝国はナポレオン1世に席巻されて崩壊し、ハプスブルク家のフランツ2世1806年に退位しますが、その一方、このフランツ2世は1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア帝国皇帝フランツ1世を称しており、以後はオーストリアの帝室として存続します。ナポレオン1世追放後は、「神聖同盟」としてウィーン体制をたもちますが、後にクリミア戦争でロシアと敵対してこの同盟も事実上崩壊し、1859年にはサルディニアに敗北してロンバルディアを失い、1866年普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放の憂き目をみます。

 国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がります。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこれに妥協し、ドイツ人ハンガリー人を指導的地位にし、帝国をオーストリア帝国ハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐ「二重帝国」に改編し、1867年オーストリア・ハンガリー帝国として再出発します。

 それでも一端火のついた民族問題は収まらずボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合したことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化します。そして1914年皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエボセルビア人青年に銃殺されるという有名な「サラエボ事件」がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まります。先に記したとおりこの大戦でも敗北し、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世亡命し、ハプスブルク帝国1918年に崩壊します。

 

3.ブルックナーのウイーン時代(1868ー1896年)

 

 ブルックナーがウイーンに居を移した1868年の前年の3月15日、ハンガリー議会はオーストリアとの合体を定めた「アウスグライヒ(和協)法案」を可決します。 フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、両国は外交、軍事、財政は共通にするものの、憲法と議会、政府は独自のものをおくという変則的な連合体制を敷きます。 ハンガリー議会の「和協法」可決から3ケ月後の6月8日にはフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に戴冠し、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が名実ともに発足します。 この体制によって、オーストリアはなんとか面目をたもち中部ヨーロッパ大国の地位を維持します。

 帝都ウィーンには爛熟した世紀末文化の花が咲き、ハンガリーも首都ブダペストの近代化などに成功、両都は繁栄を謳歌します。しかし、この体制はドイツ系マジャール人の多数派が少数のチェコ人ポーランド人など他のスラブ系諸民族を抑圧することで維持される性格を持つゆえに、成立直後から民族主義を叫ぶ諸民族からの抵抗が根強く、大きな矛盾をかかえることになります。この結果、フランツ・ヨーゼフ1世は、安定化のためドイツ帝国とよりを戻し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の掲げた「パン=ゲルマン主義」に同調していくようになります。

 ブルックナーが生きたウイーンはこのように政治的には激動、文化的には爛熟の時代でした。

<参考文献>

▼成瀬治・黒川康・伊藤孝之『ドイツ現代史』

(1987年 山川出版社)

▼望田幸男・三宅正樹編『概説ドイツ史』

(1982年 有斐閣選書)

▼『オーストリアへの旅』[エアリアガイド140]

(1996年 昭文社)

▼『ウイーン』[全日空シティガイド]

(1994年 三推社・講談社)

▼斎藤光格『EU地誌ノート』(1996年 大明堂)

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