ブルックナー/メモランダムⅥ⑤ー ハプスブルク帝国(4)

 ブルックナーは当時、オーストリアを代表する当代随一のオルガン奏者でした。この事実なくして、彼とハプスブルク家との関係はありえなかったでしょう。

 ブルックナーは、1886年9月23日にフランツ・ヨーゼフ皇帝に謁見を許されています。彼にとって生涯最高の栄誉の場であったかも知れません。しかし、ここにいたるには、それなりの「前史」がありました。
 ブルックナーは1868年から78年まで宮廷礼拝堂のオルガニスト候補者であり、1878年から92年まで宮廷礼拝堂楽団の正式メンバーでした。すなわち、彼はフランツ・ヨーゼフ皇帝に仕える立場に44歳から24年間の長きにわたってあったことになります。
 その初期の頃、ブルックナーはオルガン奏者として「海外遠征」で大変な成功を収めています。1869年4月から5月にかけてナンシーの聖エプヴル教会とパリのノートル・ダムでの、そして、1971年7月から8月にかけてロンドンのアルバート・ホールと水晶宮でのオルガンの即興演奏によって、ブルックナーの抜群の技倆はあまねく帝都ウイーンで知られるところとなりました。
 もともとナンシー行きも気の進まなかったブルックナーですが、当時はいまだ関係の良かったハンスリックのすすめもあり挙行。海外からはたった一人の参加でしたが、ここで大成功を収め、さらに関係者からパリ行きを懇願されます。そして、パリではセザール・フランク、サン=サーンス、オーベール、グノーらの音楽家もブルックナーの演奏に接しました。2年後のロンドンでの成功はそれ以上であり、ブルックナーこそオーストリアが誇る最高のオルガニストという評価をえることになります。
 それ以前にも「ニ短調ミサ曲」の初演(1864年)にオーストリア大公が臨席していることから、宗教音楽の作曲家としてのブルックナーの名前は知られていましたが、なんといってもこの「海外遠征」の嚇々たる成果は他に代えがたいものでしょう。
 時をへますが、1886年、ヘルマン・レーヴィやオーストリア皇帝の縁者である公女アマーリエ・フォン・バイエルンらの尽力により、7月9日にブルックナーはフランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与され、金銭面での援助にくわえて第3(第3稿)および第8シンフォニーの印刷費も皇帝がだしてくれることになります。こうした経緯から1890年3月、ブルックナーは完成した第8シンフォニーをフランツ・ヨーゼフ皇帝に献呈します。
 同年7月大公女マリー・ヴァレーリエ(先のアマーリエ・フォン・バイエルン改名)の結婚式でブルックナーは新婦の希望により「皇帝讃歌」の主題を含むオルガンの即興演奏を行い、これには臨席した皇帝も心を動かされたと伝えられています。前年の1889年皇位継承者たる皇太子ルドルフは若き愛人マリー・ヴェツェラと情死しています。傷心の皇帝はブルックナーのオルガンをどのような気持ちで聴いていたことでしょう。
 一方、ブルックナーの蔵書には1867年に処刑されたメキシコ皇帝マクシミリアン(フランツ・ヨーゼフの弟、メキシコ行きはナポレオン三世にそそのかされてのことと言われる。出国に際して皇位継承権を放棄した)に関するものがあったとのことですが、皇帝に仕えるオルガニストとしては当然だったかも知れません。
 晩年の1895年に、ブルックナーはベルヴェデーレ宮の管理人住居にうつり、ここで死を迎えますが、この住居の提供も皇帝の好意によるものでした。そしてこの住居の所有者は、当時皇帝の甥で1914年サラエボで暗殺される皇位継承者フランツ・フェルディナントでした。落日のハプスブルク帝国とブルックナーの後半生は、このように浅からぬ関係にあったことがわかります。
 
(資料)土田英三郎『ブルックナー』(1988年 音楽之友社)およびデルンベルク(和田旦訳)『ブルックナー』(1967年 白水社)他を参照
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