ブルックナー/メモランダムⅥ⑦ー 帝都ウイーン物語(1)

 ハプスブルク帝国のことを調べていて、もう少しウイーンについてメモをしておきたくなった。ブルックナーが後半生、ここに住まい、生活を糧をえ、いくたの苦労のすえ成功をおさめた都市ーウイーンである。
                                  
 しかし、この都市も歴史的には厳しい冬の時代をなんども経験している。ウイーンにはかってケルト人がいた。ローマ帝国はここに「ウインドボナ駐屯地」を設け、属州都市カルヌントゥムを監視した。5世紀初頭には戦禍のもと廃墟となった。10世紀になるとドイツのバーベンブルク家の統治下におかれ、その後、13世紀からハプスブルク家がそのあとを継承したことは既に、このシリーズでもみてきたとおりである。
 しかし、このあとも要害の地にあたるウイーンには戦争の影がたえない。16世紀にはトルコ人がウイーンを包囲し周辺地域を蹂躙する。1683年にこのトルコを撃退するも、1809年にはナポレオンが侵攻、一時ウイーンを占拠する。1848年には3月革命がおき、この後のフランツ・ヨーゼフ時代に世紀末の大繁栄を謳歌するが、第一次大戦で敗戦しハプスブルク帝国は瓦解し、「帝都」ウイーンの時代もおわる。
 その後も混乱はつづき、1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併呑され第二次大戦で敗北、戦敗国たるウイーンは連合国軍の管理下におかれ、1955年オーストリアの主権が回復されてウイーンも新たな「首都」としての顔をふたたび見せることになる。
 
 フランツ・ヨーゼフ時代は、最後の帝都ウイーンらしい繁栄の時期であった。しかし、この都市を特色づけているのは言わずと知れた「音楽の都(みやこ)」である。
 グルック(1714-87)、ハイドン(1732-1809)、モーツァルト(1756-91)、ベートーヴェン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、ヨハン・シュトラウスⅠ、Ⅱ世(1801-43,1825-99)、ブラームス(1833-97)、そして我がブルックナー(1824-96)に加えて、マーラー(1860-1911)、ヴォルフ(1860-1903)、ヴェーベルン(1883-1945)、シェーンベルク(1874-1951)、ベルク(1885-1935)とならべてみても18世紀から20世紀にいたる2世紀にわたって、かくも著名な作曲家が自らの音楽芸術を生みだしていったことは驚きである。モーツァルトは幼少期、ハプスブルク家から寵愛され、ヨハン・シュトラウスⅡ世は、ワルツやポルカで皇帝と貴族の優雅な生活を存分に活写した。
 
 ほかにもグスタフ・クリムト、ジグムント・フロイト、ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインなど各界で著名なモダニズムの旗手や思想家を輩出したが、その一方、ウイーンは若きヒトラーが「芸術」家をめざした学舎(まなびや)でもあり、この街で暗い情熱を秘かに燃やした瞬間もあったろう。
 ブルックナーが当初、その関係に苦労し辛酸をなめたウイーン・フィル、ウイーン国立歌劇場の前身も同時代に息吹をえている(ブルックナー/メモランダムⅣ①~③:ウイーン・フィルを参照)。このように、たくさんの当時の痕跡をいまにとどめるウイーンは、都市自身が歴史の証人であり、また街そのものが生きた博物館でもある。
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