ブルックナー/メモランダムⅩ④ー禅

 
 セルジュ・チェリビダッケは禅に傾倒していた。
映画『チェリビダッケの庭』について安芸光男氏は次のように書いている。安芸光男安芸光男
ーー
 『チェリビダッケの庭』は、音楽と世界についての含蓄の深いアフォリズムに満ちている。そこから彼の思想を要約することばを一つだけ取り出すなら、「始まりのなかに終わりがある」つまり「始まりと終わりの同時性」ということである。これは音楽の開始について、指揮科の学生に語ることばなのだが、それは彼の宇宙観を集約することばでもあるのだ。ーー
 ブルックナー指揮者としてのチェリビダッケが、どれほどその音楽と禅との関係を明確に自覚していたかは措くとしても、上記の言葉はブルックナーの音楽の魅力を見事に表現しているとは言えるだろう。
 掲載した5枚のジャケット(3,5,6,7番+テ・デウム他)がその音楽と妙にしっくりとくるのはおそらく自分だけではないだろう。
 「宇宙的」とか「大自然」とかの比喩もブルックナーの音楽ではよく用いられるけれど、日本人(あるいは日本通)ならではかも知れないが、枯山水、石庭のイメージも良く似合う気がする。
 同じ宗教的な感興に根差すとして、ブルックナーが信仰していたカソリックとチェリビダッケが好んだ禅宗を無理して結びつけるような愚は避けたい。そうしたセンティメントはあるのかも知れないが、どちらも半可通以下の自分が、聴いていて唯一直観する言葉は「無窮性」である。
 以前、「魅力の源泉」のカテゴリで、この「無窮性」と「非標題性」について触れたが、最近、これは同じことを違う言葉でいっているだけかも知れない、ともよく思う。標題性とは「具象的」だが、非標題性とはその反語という意味で「抽象的」とも言えようか。ブルックナーの激烈な大音響やとても優しく美しい旋律(といった「具象」さ)に親しみつつ、なんどもなんども同じ曲を聴いているのは、その背後にある解析不能の何か(言葉で表現できない「抽象的」な何か)に惹かれているからだろう。チェリビダッケは、上記でそのことをうまく言い得てくれた気がする。
枯山水や石庭もうるさい解説は聞きたくない、ぼんやりと無念の気持ちで時のたつのを忘れるのがいいように思う。ブルックナー然りである。
 
ブルックナー:交響曲第3番Bruckner: Symphony no 5 / Celibidache, Munich POブルックナー:交響曲第6番Bruckner: Symphony no 7, Te Deum / Celibidache, Munich PhilharmonicBruckner: Mass no. 3 in f / Celibidache, Munich PO, et al
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