ブルックナー/メモランダムⅩ⑤ーボーダレス性

ムラヴィンスキー
 
 ドイツ以外でも「ブルックナー受容」には枚挙にいとまがない。かってフルトヴェングラーが、ドイツ文化圏外でのブルックナー理解の困難さを嘆いたことが嘘のように、ブルックナーはいまや世界中で奏でられる演目である。たとえば、写真はムラヴィンスキー(7,8,9番)だが、このロシアの巨匠のブルックナー演奏への傾注はただならぬものがある。手兵レニングラード・フィルとの演奏は、このオーケストラの十八番であるチャイコフスキーやショスタコーヴィッチ流の、鋼のような強靱な音量や魂をゆさぶる抒情性との命脈も感じるけれど、それらに劣らず、とても魅力的で巨大なブルックナーの音の世界を構築している(http://shokkou3.blogspot.com/2008/01/blog-post_26.html)。そしてそのバトンはロシアでは、ロジェストヴェンスキーに渡された。
 
 チェコ・フィルでは、かのクナッパーツブッシュを尊敬していたマタチッチ(5,7,8、9番など)がいた、オランダには名匠ベイヌム(4,5,7,8,9番)あり、アメリカのオーケストラでもショルティやセルら<ハンガリアン・ファミリー>はシカゴ響やクリーヴランド響とともに水際だった素晴らしいサウンドを残してくれた(<ハンガリアン・ファミリー>については、http://freizeit-jiyuu.blogspot.com/2006_06_01_archive.htmlを参照)。
 
 そんな迂遠なことをくどくどと言わなくとも、朝比奈はじめ日本の指揮者とオーケストラこそ、ブルックナーの「ボーダレス」性を実証するもっともふさわしい好例だろう。ベートーヴェンやブラームスは、もちろん古くからの世界標準だけれど、やはりドイツ、オーストリアの地元管弦楽団には、秘かに胸を反る矜持はあるような気がする。それにくらべて、ブルックナーやマーラーは「純音響的」なアプローチがとおりやすく、なにより「管楽器のためのシンフォニー」と言ってもいいほど、ブレスの技倆や集団としての一体性が問われる。その機能にすぐれたオーケストラは腕を回している。
 
 あえて贔屓の引き倒しで言えば、より以上に、作品に内在する特有の「コスモポリタリズム」こそが、それを可能ならしめていると言えるのではないか。ドイツやオーストリアの管弦楽団の音色に酔うことも多いが、ムラヴィンスキーの熱き演奏に接していると、プロ・ドイツではないアプローチにも圧倒される心地よい快感を味わうことができる。演奏に酔いながら、この「コスモポリタリズム」とは何かを考える。浅学非才、無理は承知の助で、でも見極めてみたいなあ・・と思う。
 
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