ブルックナー 交響曲 0番

ブルックナー:交響曲0番

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 ショルティ/シカゴ響の演奏。ブルックナーの第0番のシンフォニーは、それ以降の交響曲作品に比べて、未成熟な印象は否めません。ショルティ自身、はじめは録音を考えていなかったようですが、それ以外の番数を既に取り上げてきて逆に、0番のもつ意味を考え「よし、やろう!」と思ったようです。演奏は大変立派です。 

 ショルティは一種の完璧主義者ですが、厳密なテクストの読み込みをへて、0番の未成熟さをオケの合奏力で完全カバーしてしまったような演奏です。ショルティの意図が手兵のシカゴ響にビシッと伝わっているからでしょうが、ショルティならではの類い希な「構築力」の見事さに舌を巻く演奏です。 

 ショルティのブルックナーは最近、各番毎に再リリースがでていますが、ブルックナーの交響曲の特質ー頻繁な休止の後の再開時の緊張の継続、第2楽章などの美調のメロディの見事な彫琢、リズムの切れ味などにおいて特にこの0番の演奏が素晴らしいと思います。私の座右の1枚です。

Bruckner: Symphony No.0 "Nullte"

http://www.amazon.co.jp/Bruckner-Symphony-Saarbrcken-Radio-Orchestra/dp/B00008HE50/ref=sr_1_4?s=music&ie=UTF8&qid=1367243549&sr=1-4&keywords=bruckner+symphony+0

ブルックナー:交響曲第8&0番

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  メータをはじめて聴いたのは16才の時、1969年、ロスアンジェルス・フィルとの来日演奏会だった。2夜聴いたが、9月7日に、ベートーヴェン/エグモント序曲、ストラヴィンスキー/ペトルーシュカ、ブラームス/交響曲第1番、 9月10日は、アルベニス/イベリア、セビリアの聖体祭~トリアーナ~ナバーラ、クラフト/4人の打楽器奏者と管弦楽の為の協奏曲、チャイコフスキー/交響曲第4番(いずれも東京文化会館)というラインナップであった。 その頃、「ツァラトゥストラはかく語りき」のメータのスタイリッシュな写真が話題となっていた。溌剌たる精気、猛進の迫力がくっきりとでており、若き獅子のイメージどおりであった。

  忘れられないのは9月7日の公演前で、文化会館の2階に早く食事をするために上がったら(当時は、ここでハヤシライスを食べるのが楽しみだった!) 、メータも正装した団員とともに腹ごしらえをしていたことである。そのフランクさというか、リラックスぶりに驚いた。当時メータは33才、写真のとおりの若さ、エネルギッシュという言葉そのものであったろう。 

 さて、ブルックナーである。イスラエル・フィルを振った2曲を聴く。

<DISK1>交響曲第8番ハ短調(1890年稿 ノヴァーク版)第1~3楽章

<DISK2> 同第4楽章、交響曲第0番ニ短調(1869年稿 ノヴァーク版)

  いずれも1989年の録音である。メータ53才頃の演奏である。このCD付録の解説書を読むと、評者はどうも戸惑っているようで、そのブルックナー解釈について「確たる芯の欠陥を見ることも可能」といった表現をポロッとしている。前後ではいろいろと糊塗した言い方もしているが、これはどう考えても褒めていない。珍しいことではある。メータのブルックナーは、ほかにウイーン・フィルとの9番やテデウムもあるが、こちらも一般に評価は芳しくない。 

 予断を廃して聴くが、まず感じるのはいかにも「大味」だということである。録音、あるいはオケのせいかも知れないが全体にメリハリの乏しい茫洋、淡々とした演奏。メータは、チェリビダッケを大変尊敬していて、特にその速度感について、「あそこまで遅くして崩れないのは驚異」といった発言をしていたはずだが、メータ盤のテンポはそう遅くない。

 8番については、下記のブーレーズ/ウイーン・フィルの巧みすぎるようなポリフォニー解析に感心した直後に聴いたこともあって、余計に感じたかも知れないが、よく言えば鷹揚、悪く言えば音楽の細部に神経が通っていない印象である。0番はまあ、程良くアクセントをつけて指揮者の技倆で乗り切っているが、各指揮者、渾身の8番では、切れ味のよいメータらしくない不思議な解釈である。好きな指揮者であるがゆえに誠に残念!

 あえて想像を逞しくすれば、チェリビダッケ的ではなく、晩年のカラヤン的な雰囲気を参考とした節がある。しかし、細密画をさらに入念にチェックするような晩年のカラヤン(ぼくはあまり好きではない)に対して、メータはむしろ非統制的な運行、いわば大仰さを強調したかったのかも知れないが、その試みは巧くいっていない。バレンボイム/ベルリン・フィル盤とともに再度、手に取ることに逡巡するものである。

http://shokkou3.blogspot.jp/2010/10/blog-post_22.html

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