ブルックナー ウィーン・フィルで聴く 交響曲第1番

1996年1月ウィーンでのライヴ・レコーディング。ノヴァーク1866年リンツ稿での録音。なんとも白熱の演奏である。ウィーン・フィルは実に巧い。「ブルックナーってこんなに面白かったのか」といった新たな発見があるかも知れない。
 しかし、これは何度も聴くには問題がある。フレーズの終わりに奇妙な装飾的処理があり、はじめは新鮮、驚きをもって惹きつけられるが、繰り返し聴くとこの部分の作為性がいささかならず鼻につく。

 CD付録の解説書が参考になる。ヨッフム、ノイマンそして、カラヤンらに比べて、アーティキュレーションの技法に工夫があり、「アバドはアーティキュレーションのあり方を、音楽の進行(未来)に対して千変万化させる。それによって生まれる音楽の息づき方は、かつて出会ったことのないしなやかさを獲得する」と賛美、分析される。この指摘は聴いていて得心できる。しかし、それをもって、カラヤン(でなくとも良いのだが)の手法にくらべて、ポリフォニーが個々の楽器ごとに際だつことが、ブルックナー解釈の新たな行き方だとするのはどうかなと思う。

 アバドを聴きおわったあと、比較の対象になっているカラヤンの1番を聴く。果たしてどちらが、長期、反復的なリスニングに耐えうるのか・・・。ぼくは、明らかにカラヤン盤であると思う。サラリと処理し、全集のための消化試合といった穿った見方もあるが、完璧主義者で、あれだけ音楽に拘りのあるカラヤンが、大切なブルックナーでそんな安易な対応をするはずはない。録音の計算も周到だ。カラヤン盤は、はじめ聴くとパンチ力に欠ける印象があるだろう。弦楽器のアンサンブルが前にでて、木管のメロディの浮き彫りがこれに重なり、金管は距離をおいて抑制されたバランスで響く。アバド盤のように、金管は熱く目眩るめく鳴ってくれ!というリスナーの要望は少しく裏切られるだろう。しかし、このある意味、禁欲的なブルックナーは、硬質な初期ブルックナーらしさ(といっても何度も改訂をしているのでいわゆる「初々しさ」とは別物だが)が看取できる。なるほど、楽譜に忠実とは、安易な技巧を労さず、音楽の自然の流れを尊重することなのだなと感じる。だから反復して聴くとスーッと入ってくる。カラヤン嫌いは、この処理そのものが問題だとするのだろうが、それはさておく。

 アバド盤の熱気は若きブルックナーファンには受けるかも知れない。しかし、俗に言う、おもちゃ箱をひっくりかえしたような矢継ぎ早の個々の楽器パートの次から次へとフレーズのバトンタッチの強調は、4Dオーディオといった録音技術で一層倍加され、面白いけれどもブルックナーが本来、伝えたかったであろう素朴なメッセージを背後に隠してしまうように思える。ぼくには、地味な作家の本を派手な装丁で売っているような違和感がある。

 いわゆる初期ブルックナーでも、0番のショルティ、2番のジュリーニは、流列を尊重し、一定の抑制を効かせた、したたかな巧者であると思う。また、1番ではノイマンの駘蕩とした見事な自然さはやはり心地よい。でも、アバド盤、この白熱さをかって、これもまたありかなと今日は言っておこうか。多様性の重視、あくまでも好みの問題かも知れないし・・・。

http://shokkou3.blogspot.jp/2010/10/blog-post_27.html

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