第1章 フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886~1954年)

時はいまから半世紀以上前にさかのぼります。映画『フルトヴェングラーと巨匠たちーベルリン・フィル物語』(原題:Botschafter der Musik)を映画館で観たのは1968年8月25日のことでした。ここでは若きチェリビダッケなども出てきますが、表題のとおりフルトヴェングラーがあくまでも主役であり、1954年、彼の没年に制作されています。フルトヴェングラーはシューベルト、ワーグナー、R.シュトラウスなどを振っています。

 この映画をみた当時、フルトヴェングラーといえば、ベートーヴェンの第3、5、7、9番(ウィーン・フィル)などが、EMIから疑似ステレオ化されて登場し圧倒的な影響力がありました。その一方、ブルックナーについて国内レーベルでは第7、8番(ベルリン・フィル)のみがリリースされていたと思います。

 フルトヴェングラーは、1886年1月25日ベルリン生まれで、二十歳にして1906年にカイム管弦楽団を指揮しデビューを飾ります。その時の演目は自作のアダージョ、ベートーヴェンの序曲、そしてブルックナーの交響曲第9番でした。その意味でも、ブルックナーは一生忘れることのできない作曲家でした。

フルトヴェングラーが、生涯の活動の友としたベルリン・フィルにおける前任者は、プロローグでふれたとおり、ブルックナー指揮者として大変重要な地位をしめるニキシュでした。

 ブルックナーとニキシュの関係は多くありますが、その最たるものは、1885年12月30日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して交響曲第7番の初演を行ったことでしょう。そして、ニキシュ以降、ドイツでブルックナー指揮者といえば、そこにフルトヴェングラーあり、ということになります。

 ニキシュはゲヴァントハウス管弦楽団の楽長を1895~1922年まで務めますが、急逝後の後任はフルトヴェングラーでした。同様に、ベルリン・フィルについては、ニキシュはハンス・フォン・ビューローの後任として常任指揮者となりますが、その地位も同時にフルトヴェングラーが継ぎます。その意味で1922年は、フルトヴェングラーが名実ともにドイツ帝国第1の指揮者となった年でした。

まず、カルラ・ヘッカー(1967)『フルトヴェングラーとの対話』薗田宗人訳,音楽之友社.からブルックナー演奏についていくつか引用します。

「彼の練習の特徴は、どんな様式の曲にもそれぞれに含まれている特殊な問題点を、彼がたちまち見てとったという所にある。たとえばブルックナーの場合。『ブルックナーでもっともむつかしいのは、なめらかな静かな楽句を拍子正しく演奏することだ。ブルックナー独特のルバートがあるので、そんな所を勝手にくずして弾くと、まるで台なしになってしまう。』

 ブルックナーの第7交響曲を練習している時、彼は『原典版はほとんど無意味だ、ほんの些細な点しか違っていないのだから』と言っていた。そして『カランド(しだいに音と速度を減じる奏法)は、まったく自然になされねばならぬ。その意図が見えてはだめだ』と注意した。

 別の練習の時、ブルックナーの第5交響曲をやりながら、彼はこんな意見を述べた。ブルックナーは強調記号を、おそろしくふんだんに使っている。だから、それをあまり正直に強く奏さないように。』曲が一つの頂点に達した所で、『金管楽器はやたらと大きなしまりのない音を出してはいけない。いつもくっきりと、上品に!』そして彼は伴奏部にあたる各パートに対して言った。『あなた方がただ旋律を聞き、それに合わせている時が一番正しく奏している時なのだ!』」(pp.121-122)

 別の部分ではこんなエピソードも紹介されています。

 「フルトヴェングラーは、今ブルックナーの第6交響曲を指揮したところだ。外ではまだ拍手が続いている。ハンカチで顔や首のあたりをふきながら、思いに沈んだ声で彼が言う。『この交響曲を演奏するまでに、私は57歳になってしまいました。しかし、この年でこんなことを体験できるとは、なんとすばらしいことではありませんか。』」(pp.135-136)

次は、ブルックナーの「総休止(ゲネラルパウゼ)」に関してのフルトヴェングラーのコメントです。

 「たしかにブルックナーは、じつにしばしば総休止を使っています。しかしよく考えてみなければならないのは、ブルックナーの音楽には、いくつかの大きなアーチがあって、それを建てるには偉大な知性が必要だということです。なるほど彼の音楽には、しばしば何か公式的なものが、しかしまた同時に、何か崇高なものが前面に現れています。」(pp.179-180)

  そうしたブルックナーの特質を引き出すのはフルトヴェングラーの指揮における左手の動きです。

 「指揮に際しては、右手が構成的な意志を表現するのに対し、左手は私たち生来の習慣どおり、より受動的に、繊細に、感情的な要素を表現した。・・・左手はなによりも、旋律の線を形作った。楽曲の魂に訴える力を受けもち、ダイナミックな力に対応する静かな炎を絶やさず保つのが旋律である。ブルックナーが管楽器のコラールと対置させた弦楽器のあの旋律、あるいはシューベルトが甘美なレントラー主題に与えた魅惑的な夢想的な旋律が、そのいい例である。」(pp.83-84)

 

彼みずからが1939年に書いた「アントン・ブルックナーについて」(フルトヴェングラー(1978)『音と言葉』芦津丈夫訳,白水社.)は、当時におけるブルックナー解釈の必読文献だと思います。いまや当たり前のように語られるブルックナー論がいくつも先駆的に繰り出される実証的分析の部分と、濃厚すぎる当時の時代精神がここでは混在しています。そして、フルトヴェングラーの演奏そのものにも通じるパッションが音楽ではなく彼の言葉によって語られます。たった一言を選ぶとすれば次の一文ではないでしょうか。

 「ブルックナーは疑いもなくブラームスにも劣らぬ絶対音楽家であったのです」(p.111)

 フルトヴェングラーはブルックナー協会の主席(会長)としてのこの講演で「絶対音楽家」という言葉を深い考察のすえに使ったと思います。

また、フルトヴェングラーのブルックナー論では、ラテン系の国々(ないし聴衆)への受容の難しさをやや慨嘆気味に語っています。しかし、戦後、パリなどでのブルックナー演奏は圧倒的な成功を収めますから、晩年での思いには多少は変化があったかも知れません。

次に、ダニエル・ギリス編『フルトヴェングラー頌』(1969)仙北谷晃一訳,音楽之友社.から、フルトヴェングラーのブルックナーの演奏についてランダムに拾遺してみます。

カール・ベーム (指揮者)

・・・彼の後、誰がブラームスの≪第4≫のパッサカリアやブルックナーあるいはベートーヴェンのアダージョを敢えて指揮しようと思うでしょう。(p.38)

■ジェフリー・シャープ (音楽評論家)

…(到達した最高峰の演奏例として、ベートーヴェンの第9番とともに)ザルツブルクで1949年に演奏された、ブルックナーの≪第8交響曲≫だった。(p.58)

■フリッツ・ゼードラク (ウィーン・フィル コンサートマスター)

…「滑らかに(グラット)」という言葉は、リハーサル中ごとに彼の口をついて出てくる言葉であった。ブルックナーの交響曲で、あれほど類希な成功を収めたのは、変化の扱い方のうまさによる。時に楽節が四角い石のように並んでいるように思われる時でも、そのしばしば扱いにくい終楽章を、一つの統合された全体へと溶接してゆくことが、彼には可能だった。(pp.77-78)

■クラウディオ・アラウ (ピアニスト)

…(フルトヴェングラーは)何を演奏しても、そのすべてを、知り尽くしておりました。(ドビュッシーを絶賛したあと)ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーは、言うまでもありますまい。(p.134)

■パウル・バドゥーラ=スコダ (ピアニスト)

・・・ルツェルンでのブルックナーの≪第7≫など、いつまでも忘れることができないでしょう。(p.22)

■エンリコ・マナルディ (チェリスト)

…死に先立つ数ヶ月前、ルツェルン音楽祭での、最後のコンサートを、思い起こしながら、この文を閉じたいと思います。プログラムには、ブルックナーの≪第7交響曲≫とありましたー純化されて、神々しいまでに天国的なあの演奏!あの作品を演奏するのは、これが最後だと、彼自身が知っていたかのようでした。(p.213)

 脇圭平・芦津丈夫(1984)『フルトヴェングラー』岩波新書.でもブルックナーについての記載(p.64など)はありますが、全体のなかでは扱いは小さく、さして紙幅はさかれていません。ブルックナー演奏について、特に近年、厳密なテキスト主義の潮流が強いですから、フルトヴェングラーのデモーニッシュな演奏は一部ではやや敬遠される傾向もありますが、小生は聴くたびにその凄さに感嘆する一人です。

では、代表的な録音を見ていきましょう(以下、VPO:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、BPO:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)。

【第4番】

 

https://cdn.tower.jp/za/l/2W/zaP2_A2045812W.JPG 第4番   VPO 1951年10月29日 ドイツ博物館コングレスザール ミュンヘン London  POCL-4302

 本盤は、バイエルン放送がラジオ放送用にライヴ録音したものです。当月のフルトヴェングラーとウィーン・フィルは5日から22日まで、18日間で16回のコンサートをこなし、27日フルトヴェングラーは単独でハンブルクに行き北ドイツ放送響を振り、翌28日はカールスルーエで再度ウィーン・フィルと合流しブラームス他を演奏しています。そして29日にミュンヘンに入るという強行軍でした。この間、第4番は主力の演目で6回取り上げられました。この録音もあくまでも放送用で、その後、長くLP、CDなどで聴きつがれることを演奏者は想像もしていなかったでしょう。

 フルトヴェングラーの足跡をたどるうえでは貴重な記録ですが、音響の悪さ、オーケストラの疲労度からみてもベストの状況の録音とは思えません。会場の雑音の多さは一切無視するとしても、第1楽章冒頭のホルンのややふらついた出だしといい、折に触れての弦のアンサンブルの微妙な乱れといい、意外にもフルトヴェングラーの演奏にしては要所要所での劇的なダイナミクスの不足といい、第4番を聴きこんだリスナーにとっては気になる点は多いと思います。

 一方でレーヴェ改訂版による演奏という点に関してはあまり気にならないかも知れません。それくらいフルトヴェングラーの演奏は「独特」です。

 にもかかわらず、本盤はブルックナー・ファンにとっては傾聴に値するものです。それは第2楽章アンダンテを中心に各楽章の弦のピアニッシモの諦観的な響きにあります。特に第2楽章の非常に遅いテンポのなかに籠められているのは、転調をしても基本的にその印象が変わらない深く、名状しがたい諦観です。しかもそれはウィーン・フィルのこよなく美しい響きとともにあります。ここに表出されている諦観が作曲者のものなのか、指揮者の時の感興か、双方かはリスナーの受け止め方如何でしょう。

[2012年9月30日]

ほかに、第4番では、10年前の録音(BPO、1941年12月14~16日)、本盤の一週間前のライヴ演奏(VPO、1951年10月22日、シュトゥットガルト)もあります。

【第5番】

https://cdn.tower.jp/za/l/10/4909346307810.jpg 第5番   VPO 1951年8月19日 ザルツブルク音楽祭ライヴ Grand Slam  GS2133

 ザルツブルク音楽祭における歴史的なライヴ演奏です。音源が荒いせいか、ザラザラした感触の不思議な「音楽空間」に、ウィーン・フィルとも思えない管の不安定さ、聴衆の咳がときたま入るといったお世辞にもけっして良いとはいえないコンディションで、録音にこだわる向きには、その点では難があります。しかし、そこを超越して、真のフルトヴェングラーを聴きたいリスナーには随喜の涙ものでしょう。ブルックナー演奏におけるいわゆるアゴーギク(テンポ、リズムの緩急の変化)の大胆すぎる適用といい、また、畳みかけるようなアッチェレランド(テンポの上げ方)といい、他では決して聴けない独自のブルックナーの世界の構築です。1回限りのライヴ感が、演奏の先鋭性をより強くしています。そして時間の経過とともに音楽の深部にどんどん引き込まれていくような非常な緊張感があります。これは神憑りの演奏とでも表現すべきものです。

[2006年6月4日]

第5番 BPO 1942年10月28日 ベルリン・ベルンブルガ・フィルハーモニー Testament  SBT1466

 前記ウィーン・フィルとの1951年盤がよく知られていますが、戦前のこの録音は意外に音がクリアで迫力に富むものです(ハース版準拠)。ライヴならではの即興性はあるものの、それ以前に強固な演奏スタイルを感じます。フレーズの処理が実に生き生きとしており、オーケストラは常時に変化するテンポ、リズムにピタッとあわせ、その一方でメロディは軽く、重く、明るく、暗く、変幻自在に波打ちます。凡庸な演奏では及びもつかない凝縮感と内容の豊穣さです。

 第1楽章、ブルックナーに特徴的な“原始霧”からはじまり、順をおって登場する各主題をフルトヴェングラーは意味深長に提示していきます。それはあたかも深い思索とともにあるといった纏(まとい)とともに音楽は進行していきます。この曲は極論すれば第1楽章で完結しているかの充足感がありますが、つづく中間2楽章では、明るく浮き立つメロディ、抒情のパートはあっさりと速く処理し感情の深入りをここでは回避しているようです。その一方、主題の重量感とダイナミックなうねりは常に意識され、金管の分厚い合奏がときに前面にでます。終楽章は、第1楽章の<対>のようにおかれ、各楽章での主題はここで走馬灯のように浮かび、かつ短く中断されます。そののち、主題は複雑なフーガ、古式を感じさせるコラール風の荘厳な響き、そしてブルックナーならでは巨大なコーダへと展開され、ながい九十九折(つづらおり)の山道を登り峻厳なる山頂に到達します。フルトヴェングラーの演奏スタイルには特異な魔術(デーモン)を感じます。

[2012年9月30日] 

【第6番】

ブルックナー:交響曲第6番 第6番(第2~4楽章) BPO 1943年11月 EMI Classics  TOCE-3807

  

フルトヴェングラーの現状知られる唯一の第6番の記録です。なによりも、この盤の面白さは(1)ブルックナー&ヴォルフ、(2)フルトヴェングラー&シュワルツコップ、(3)フルトヴェングラーの指揮&ピアノ伴奏の3つのカップリングの妙にあります。

 まず ブルックナーの第6番ですが、1943年の演奏で第1楽章は残念ながら欠落しています。また、フルトヴェングラーによるピアノ伴奏(タッチのミスなどは無視しましょう)のヴォルフの歌曲集は、10年をへた1953年のライヴですが、シュワルツコップは別に決定版のヴォルフの歌曲集を録音しています。

 小憎らしい編集です。シュワルツコップはフルトヴェングラーを深く尊敬しており、しかも、彼女は当代随一のヴォルフ歌いでした。このカップリングには歴史的な意義が大きいと思いますし、第6番のアダージョを聴いたあと、この二人の深いヴォルフの演奏に飛んで聴くのもなかなかの楽しみです。また、ヴォルフを聴きながら、ブルックナーとの関係に思いを馳せるのも一興でしょう。 

[2006年5月15日]

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番[原典版] 第7番 BPO 1949年10月18日 ゲマインデハウス ベルリン・ダーレム WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50651

 原典版による演奏です。ブルックナーの第7番は前半に頂点があり、第1楽章の終結部は強く締めくくられ、第2楽章の有名はアダージョのあと、第3楽章はワーグナー的な躍動感にあふれ、終楽章はブルックナーの他の交響曲のフィナーレに比べて軽量、快活そしてなにより短いのが特徴です。

 フルトヴェングラーの第1楽章の再現部からコーダへの盛り上げ方は圧倒的でこの楽章だけで完結感、充足感があります。アダージョの沈潜もフルトヴェングラーらしく深い味わいをたたえており、第3楽章はワーグナーのワルキューレの騎行をつよく連想させ、独特の振幅がありスケールが大きいものです。第4楽章は一転、速度を早め軽快に締めくくります。全般に堂々とした構えで、この時点での指揮者(そしてリスナー)へ強烈な示唆を与える規範的な演奏であったでしょう。

[2010年4月3日]

ほかに、第7番では、8年前の録音(BPO、1941年2月2~4日)、遠征先での2種のライヴ盤(BPO、1951年4月23日、カイロ)(1951年5月1日、ローマ)などもあります。

【第8番】

ブルックナー:交響曲第8番(原典版) 第8番 BPO 1949年3月14、15日 ゲマインデハウス ベルリン・ダーレム WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50579

 

聴く前に深呼吸がいるような演奏です。これから音楽による精神の「格闘技」に立ち会うような気分になって・・・。フルトヴェングラーの第8番は数種の入手が可能ですが、一般には本盤の評価が高いでしょう。しかし、録音には留意がいります。ライヴ音源ながら、雑音が少なく比較的柔らかな響きが採れているとはいえ、全般に音はやせており、金管も本来の咆哮ではないでしょう。緊張感をもって、無意識に補正しながら聴く必要があります。

  その前提ですが、演奏の「深度」は形容しがたいほど深く、一音一音が明確な意味付けをもっているように迫ってきます。テンポの「振幅」は、フルトヴェングラー以外の指揮者には成し得ないと思わせるほど大胆に可変的であり、強奏で最速なパートと最弱奏でこれ以上の遅さはありえないと感じるパートのコントラストは実に大きいものです。しかしそれが、恣意的、技巧的になされていると思えないのは、演奏者の音楽への没入度が深いからでしょう。これほど高き精神性を感じさせる演奏は稀有ではないでしょうか。根底に作曲家すら音楽の作り手ではなく仲介者ではないかと錯覚させる、より大きな、説明不能な音楽のエートスを表現しようとしているからかも知れません。

[2013年9月22日]

第8番では、遡って5年前のウィーンでの放送用録音(VPO、1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェラインザール)や1954年4月10日、ウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴ録音もあります。

【第9番】

ブルックナー:交響曲第9番 第9番  BPO 1944年10月7日 ベートーヴェンザール ベルリン DG Deutsche Grammophon  UCCG-3694

 ハース版による演奏です。現在知られる限りフルトヴェングラー唯一の第9番の音源です。テンポが速く全体で60分(特に第2楽章は10分)を切る快速であり、非常に凝縮感があります。

 第1楽章の導入部、慎重に手塩にかけるように曲想を提示するので、はじめは「遅い」と感じるかもしれませんが、徐々にテンポと音量を上げ第1主題主部では強烈な合奏となります。一瞬の休止ののち朗々と奏でられる第2主題は心奥に素直に響きます。以降もテンポは可変的でフルトヴェングラーの微妙なタクト裁きを連想させます。展開部、再現部を通じて、「不安」と克服する意志、「不安定」と強い構造力が対比され、前者を不協和音が表象しますが、全体の交錯のなかでは、後者の整序されたポリフォニーが前者を凌駕し終結部は、特に決然たる後者の優越を示しているかのようです。

 第2楽章は、前述のように急なテンポで思い切りのよいスケルツォ。リズムが跳躍し若々しい力動感がある一方、それを覚めた遠目で眺めている老人のごとき詠嘆的エレジーも巧みに挿入されます。しかし全般には、フルトヴェングラーお得意の鉈で薪を次々に割っていくような激しいリズムの刻み方が耳に残ります。

 第3楽章、俊足な前楽章とのコントラストで、冒頭の慎重な処理は第1楽章同様、姿勢を正すような独特の緊張感とともにあります。さて、その表情は複雑で解析しにくく、あえていえば、未完のものは、あるがまま未完で置いておこうといった即物的(ザッハリッヒ)な解釈ともいえるかも知れません。ブルックナーが「生との訣別」と言ったという荘厳なコラール風楽曲も、べたつく感情はなく、むしろ凛と美しく上質な響きを際立たせています。その一方、前後では第1楽章とは異なり不協和音も響き渡ります。音は重く、その重量感はベルリン・フィルの低弦の威力に支えられていますが、ワーグナーチューバと交感しつつ、厚みある重層的な響きに結実しています。

  フルトヴェングラーのブラームスの名演同様、その構成力からはドイツの誇る「絶対音楽」の精華、ここにありといったアプローチでしょうか。静謐なコーダの終了ののち深い感動の余韻が後に尾をひきます。

[2013年8月11日]

≪ナチズムとの関係≫

ブルックナーは、本人の思いとは一切かかわりなく、のちにナチス、ヒットラーの寵愛をうけることになります。ヒトラーがワーグナーとともにブルックナーを愛したことは有名で、リンツはブルックナーの聖地として、そのオーケストラは「帝国」の冠をかざすことになります。そうした、生臭いナチスとブルックナーの関係は、フルトヴェングラーの活動にとっても大きな影を落とすことになります。フルトヴェングラーにとって、ワーグナーやブルックナーを演奏することは、本人の思いとは全く別に、ナチスとの関係では結果的に一種の音楽によるプロパガンダ活動であったとの批判があります。

 1944年10月。すでにドイツの敗色は誰の目からみても明らかになっており、未遂に終わりましたが、ヒトラー暗殺計画があったのが7月。フルトヴェングラーはどういう気持ちで指揮台に上がり、上記ブルックナーの最後の交響曲を演奏したことでしょう。

 普通、そうしたことは音楽と関係して語るべきではないのかも知れません。しかし、フルトヴェングラーが嫌っていたカラヤンは同じベルリンでこの年の9月、交響曲第8番の史上初のステレオ録音を行っていたことも象徴的です。

 フルトヴェングラーによるブルックナー第9番を聴いていると、霞がかった録音とともに、どうしてもそうした時代性を感じてしまいます。第1楽章の乾いた無音階的な響き、続く魂を鷲づかみするような異様な深みあるフレーズ、第3楽章最後の消えゆく金管の独奏は、一呼吸の限界まで引き摺る意図的、示唆的な処理を感じさせます。演奏評以前に、これは何を意味しているのか、を否応なく考えさせられる音楽です。

さて、思想的な話は別として、ことブルックナーに関してはフルトヴェングラーがウィーン・フィル、ベルリン・フィル双方を拠点として演奏、録音を展開したこと、アメリカや欧州各地でブルックナーを積極的に取り上げていることにも注目したいと思います。もちろん、フルトヴェングラーは、ブルックナーに限らずヒンデミットなどの啓蒙普及にも尽力していますが、ブルックナー受容についてはその功績がもっとも顕著な指揮者の一人です。また、現代の多彩なブルックナー演奏の可能性を明確に示唆したという点においても、ブルックナー指揮者の系譜に大書されるべき存在でしょう。

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ブルックナー・コラム Ⅰ

<作曲家シリーズ> ブラームス   フルトヴェングラーの前述の言葉「ブルックナーは疑いもなくブラームスにも劣らぬ絶対音楽家であったのです」のとおり、この二人の作曲家の同時代性はいろいろと考えさせる素材を提供してくれます。  1833年生まれのブラームスは、ブルックナーよりも9歳年下です。そのブラームスの交響曲第1番が21年の歳月をへて完成し(それ以前の「習作」などは廃棄したともいわれます)、1876年に初演されたのは43才の時でした。  さかのぼって1868年、ブルックナーは第1シンフォニーを自らの手で初演します。時に44才でした。年齢差こそありますが、興味深いことに交響曲作曲家として遅咲きのデビューは二人ともほぼ同年代であったわけです。  北ドイツのハンブルク生まれのブラームスが活動の拠点を音楽の都ウィーンに移したのは1862年、ブルックナーは6年遅れて1868年にウィーンに入ります。ブラームスが満を持して交響曲第1番を発表する以前、彼は『ドイツ・レクイエム』を世に問い自信を深めたといわれます。ブルックナーも同様に、ミサ曲二短調(1864年)、ミサ曲ホ短調(1866年)、ミサ曲へ短調(1867年)や習作の交響曲を相次いで作曲したうえで翌年第1シンフォニーを期待とともに送り出します。  ブラームスの最後の交響曲第4番は1884年から翌年にかけて作曲されますが、この年還暦を迎えたブルックナーは第7番をライプチッヒの市立歌劇場で、ニキシュ指揮で初演し輝かしい成功を飾っています。さらにその後、ブルックナーは交響曲の作曲に10年に歳月をかけ1894年第9番のシンフォニーの第1から3楽章を完成させています。  こうして見てくると稀代の交響曲作曲家としての二人の同時代性がよくわかります。有名な二人にまとわるエピゴーネン達の論争や足の引っ張り合いなどは一切捨象して、お互いの作風の違いや共通するその高い精神性への相互の思いなどは考える素材を多くあたえてくれます。  両者の音楽理論的な異質性の論評は専門家や評論家の仕事でしょうが、両者の名演を紡ぎ出す指揮者がフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヨッフム、ベーム、カラヤン、シューリヒトはじめ多く共通しているのは興味深いと思います。これは、広義のドイツ文化圏のなかで捉えるべきものなのか、両雄の同時代性のもつ意味なのか、あるいは双方なのかも関心のそそられる問題ではあります。  さて、ブルックナーのあとでブラームスの交響曲を聴くと、ブラームスの音楽は、引き締まった筋肉質で、特有の凝縮感があるように感じます。交響曲の比較では、ブルックナーは長く、ブラームスは(その相対比較において)短く感じます。当時のオーケストラ・メンバー(ウィーン・フィルがその典型)にとって、程良い演奏時間からも、また聴衆の「受け」狙いでも、ブラームスが好かれブルックナーが当初不評だったことも理解できる気がします。もっと端的に言えば、ブラームスは当時のウィーン音楽界の諸事情をキチンと洞察し、一作品の時間管理にしても、管弦楽団のモティベーションを高めるオーケストレーションの方法論にしても、心憎いばかりに踏まえて作曲をしていたといえるかも知れません。合理的で無駄がなく、かつ、その音楽は堅牢でありながら情熱も気品もある。だからこそ、反ワーグナー派が血道をあげて熱中したのだろうと思います。  一方、ブルックナーはその点で大いに不利です。日本的な比喩では「独活(うど)の大木」という言葉が連想されますが、ブラームス愛好家からすれば、当時のウィーンではハンスリックのみならず、こうした世評があったとしても不思議ではないでしょう。ブラームスのスタイリッシュさに魅力を感じる向きには、ブルックナーの音楽は時に武骨に響くのだと思います。  蛇足ですが、ブラームスはハンサムでした。晩年の憂いを含んだ髭の重厚な面影もご婦人にはもてたでしょう。その点でもブルックナーは分が悪いです。しかし、ブルックナーの伝記を読んでいると、大家ブラームスがいたからこそ、そして、反ブラームス派≒ワーグナー派の、(いまとなっては非本質的な)「論争」があればこそ、ワーグナー派の「遅れてきた交響曲作家」として、ブルックナーも世俗的に注目されたという一面はあるでしょう。禍福はあざなえる縄の如し。  ブラームスはブルックナーをあまり歯牙にもかけたくなかったでしょうし、訳のわからない「論争」は迷惑ですらあったかも知れません。しかし、ブラームスは全般に、横綱然として大人の対応を行っているようにも見えます。対して、ブルックナーは実生活で、ハンスリックにいじめ抜かれたこともあって、周章狼狽気味です。ブルックナー被害者説もありますが、公平にみれば、超然としているかに見えるブラームスの方が割を食っていたのではないでしょうか。  ところで、ブラームス、ブルックナー双方ともに好きな小生ですが、いまはブラームスのスタイリッシュさよりも、ブルックナーの武骨さにより多く惹かれます。その交響曲の長大さや循環性が逆に魅力の源泉になっています。しかし、だからこそ、時たま聴くブラームスは「新鮮」で、その良さが際だち改めて心動かされる気もするのです。   <参考文献> ・カール・ガイリンガ―(1952)『ブラームス 生涯と作品』山根銀二訳,音楽之友社. ・三宅幸夫(1986)『ブラームス』新潮社. ・渡辺茂(1995)『ブラームス』芸術現代社
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