ブルックナーの交響曲 指揮者と名盤

<目次> 

§ プロローグ / ブルックナー 指揮者の系譜

第1章 フルトヴェングラー

コラムⅠ:<作曲家シリーズ>ブラームス

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第2章 クナッパーツブッシュ

♪コラムⅡ:<作曲家シリーズ>ヨハン・シュトラウス>

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第3章 ヨッフム

♪コラムⅢ:森のなかのブルックナー

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第4章 ベームカラヤン

♪コラムⅣ:ハプスブルク帝国

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第5章 チェリビダッケ、ヴァント

♪コラム:フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph)皇帝

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第6章 ワルター、クレンペラー、シューリヒト

♪コラムⅥ:<作曲家シリーズ>マーラー

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第7章 ロスバウト、シノーポリ、インバル

♪コラムⅦ:<作曲家シリーズ>ヴォルフ

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第8章 朝比奈隆、若杉弘、ケント・ナガノ

♪コラムⅧ:ドイツ・ロマン主義

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第9章 ジュリーニ、マタチッチ、ベイヌム、テンシュテット

♪コラムⅨ:帝都ウィーン物語

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第10章 ライプチッヒ、ドレスデンらの巨匠たち 

1.ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と指揮者たち

(アーベントロート、コンヴィチュニー、ノイマン、マズア、シャイー)

♪コラムⅩ:<作曲家シリーズ>ワーグナー(1)

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2.シュターツカペレ・ドレスデンと指揮者たち

(カイルベルト、ケンペ、スウィトナー、ザンデルリング、ブロムシュテット、ハイティンク)

♪コラムⅪ:<作曲家シリーズ>ワーグナー(2)

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3.ドイツ的な響きに寄せて

(アイヒホルン、ライトナー、ケーゲル、スクロヴァチェフスキ、レーグナー、ホルスト・シュタイン、サヴァリッシュ)

♪コラムⅫ:<作曲家シリーズ>ワーグナー(3)

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第11章 多彩なるブルックナー・ワールド

1.米国での「ハンガリアン・ファミリー」

(ショルティ、ドホナーニ、セル)

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2欧州での名指揮者

(クーベリック、アーノンクール、アバド)

♪コラムⅩⅢ:ウィーン・フィル

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3.ロシアの名指揮者

(ムラヴィンスキー、ロジェストヴェンスキー)

♪コラムⅩⅣ:ハンスリック

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4.拾遺集

(ブーレーズ、メスト、ネルソンス、白神典子)

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第12章 ブルックナーの交響曲とともに

♪コラムⅩⅤ:人物像

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§ エピローグ

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§ プロローグ / ブルックナー 指揮者の系譜

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824年9月4日生まれ~1896年10月11日逝去)は、19世紀に活動したオーストリアの作曲家です。生涯に11曲の交響曲と多くの宗教音楽などを世に送りました。本書では、このうち主として第1番から第9番までの9曲の交響曲の演奏録音について取り上げます。

ブルックナーの作曲の中心は、長大な交響曲であったことから、その受容、普及にあたっては、指揮者とオーケストラの影響力が決定的に重要でした。

 ここでは、はじめに少し指揮者の系譜についてふれておきたいと思います。

以下の各章で、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、ベームやカラヤンといった指揮者の演奏について考えていきますが、では彼らの「お師匠筋」についてはどうでしょうか。

1.先駆者たち

ニキシュ(Nikisch Artúr, Arthur Nikisch, 1855~1922年)

ハンガリー生まれのニキシュは、ブルックナーが教えていたウィーン音楽院の学生でした。彼は若き日にウィーン・フィルの楽員として、ブルックナーの交響曲を演奏したこともあります。そのニキシュは、ハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow, 1830~94年)にはじまるドイツ正統派の指揮法の継承者であり、それをフルトヴェングラーにバトンタッチしました。ニキシュは1884年に第7シンフォニーを初演しブルックナーの名声を一気に高める貢献をしました。

 ニキシュは、R.シュトラウスやマーラー、チャイコフスキーなどの作品も多く紹介する一方、ベートーヴェンの第5番のシンフォニーなどをベルリン・フィルと録音(1913年)したことでも知られています。 

ハンス・リヒター(Hans Richter, 1843~1916年)

ハンス・リヒターもハンガリー出身、19世紀後半から20世紀初頭を代表する大指揮者です。リヒターはウィーンで学びウィーン・フィルでホルン奏者をへて指揮者になります。第4番(1881年)、第1番(ウィーン稿/1891年)、第8番(1892年)のウィーン・フィルとの初演指揮者で、ブルックナー自身がもっとも信頼していた指揮者でした。特に1892年、彼はハンスリックの批判も覚悟で第8シンフォニーを初演しますが、その歴史的な名演、成功によって68才のブルックナーは人生の頂点を極めます。彼はどんなにかリヒターに感謝したことでしょう。

 一方、彼は、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』もブラームスの第2、第3番のシンフォニーも初演しています。彼にとって、当時のワーグナーVSブラームス論争などは、指揮者の職業上、顧慮すべきことではあったとしても、本質的ではないと思っていたかも知れません。熱烈なるワーグナー信奉者であったリヒターは、ブルックナー交響曲の紹介も積極的に行いました。その弟子がクナッパーツブッシュです。

クナッパーツブッシュとハンス・リヒターの関係についてですが、従来はクナッパーツブッシュが1909年、バイロイトにもぐりこみ、3年ほどハンス・リヒターの助手を務めたなどといわれていました。大学時代に何度もバイロイト詣でをしていたことは確からしく、1910年1月にジークフリート・ヴァーグナーから「音楽祭の最終稽古に居合わせてください」との手紙をもらったとの話もありますが、1910年には音楽祭は開かれていません。

奥波一秀(2012)『クナッパーツブッシュ』みすず書房.によれば、ハンス・リヒターの謦咳に接したのは1911年の音楽祭だったと推察されています。彼がアルフレートではなくハンスの名を用いるようになったのはリヒターの影響だろう、と奥波氏は書かれていますが興味深い指摘です。

カール・ムック(Karl Muck,  1859~1940年)

カール・ムックは、ダルムシュタットに生まれシュトゥットガルトに没したドイツ人指揮者です。ムックのレパートリーの中心はワーグナーで、『パルシファル』のほか、『ニーベルングの指輪』を含む主要作品はすべて指揮しました。彼は、スコアに忠実な近代的な指揮者の祖ともいわれるようですが、ワーグナーのほか、ボストン交響楽団を指揮したチャイコフスキー、ベルリオーズ、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ等の小品集の録音もあるようです。

ブルックナーも積極的に取り上げました。なかでも、ウィーンに先駆けグラーツで第7番のオーストリア初演(1886年)、アメリカにおけるブルックナー作品の紹介などで貢献しました。アメリカでの初期のブルックナー受容は、アントン・ザイドル、ニキシュ、マーラー、そしてムックらによって行われました。その弟子筋がカール・ベームです。

ベームは1917年、グラーツ市立歌劇場でデビューし首席指揮者の座を約束されていました。しかしカール・ムックがベームの『ローエングリン』を聴いて感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介しました。1921年にワルターの招きにより、ベームはバイエルン国立歌劇場の指揮者に転任します。ワルターとベームとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くことになります。

このように、ベームにとってムックはワルターとともに恩師です。そして、ワルターの「先生」がグスタフ・マーラーです。

 

マーラー(Gustav Mahler,  1860~1911年)

マーラーはウィーン音楽院に在籍しブルックナーの講義を登録していました。その後、ビューローの後任としてウィーンの宮廷歌劇場、ウィーン・フィルの指揮者に就任します。1899年2月26日、ウィーン楽友協会ホールにて、マーラーはウィーン・フィルを指揮して初めて第6番の全曲演奏(但し大幅カットと改訂後)を行います。

◆ザイドル(Anton Seidl, 1850~1898年)

リヒター、ニキシュ同様、ハンガリー出身の指揮者です。1872年バイロイトでワーグナーのアシスタントとなり『ニーベルングの指輪』の初演に貢献しました。その後、渡米し1885年9月にヴァルター・ダムロシュの後任指揮者としてニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者となり、同年12月6日アメリカではじめてブルックナーの交響曲第3番を取り上げました。1891年にはニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者になりますが40才代の若さで逝去しました。

 さて、以上の5人の指揮者は、ブルックナーの交響曲を広めた功績も大きいですが、彼らのレパートリーからすれば、ブルックナーは主要演目の一部でしかありませんでした。ワーグナーを中心に、いわゆるドイツ・オーストリア系(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど)の古典はしっかり押さえていたほか、ロシアもの、イギリスものなど同時代音楽にも積極的な関心をはらっています。職業的指揮者の「はしり」として、ある意味、オールラウンダーであったというべきでしょうか。

また忘れてはならないのは、「ブルックナー3使徒」とも呼ばれたヨーゼフ・シャルク(Joseph Schalk, 1857~1911年)、フランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863~1931年)の兄弟とレーヴェ(Ferdinand Löwe, 1865~1925年:第9番の初演指揮者)です。フランツ・シャルクは、グラーツの市立歌劇場で1894年に第5番を初演しています。また、後進の指揮者育成にも尽力し、ベーム、カラヤンに強い影響をあたえたといわれます。

ブルックナーの交響曲は、このように先進的な指揮者の努力によって普及し、さらにそうした指揮者の後継者達が次の時代を築いていくことになります(ショーンバーク,H.C.(1980)『偉大な指揮者たち 指揮の歴史と系譜』中村洪介訳,音楽の友社.ほかを参照)。

2.本書の内容

多彩なブルックナー・ワールドを登山に譬えれば、10に及ぶ高山の連峰(交響曲群)があり、さまざまな登山家(指揮者)は、どの山からそれを攻略していくかの登攀戦略を練りそれに挑んでいく。その醍醐味は、これを眺めている立場(リスナー)からも格別のものがあります。

交響曲全集の完成は、いわば連峰制覇記録ですが、登攀ルートについては、概ね3通り(原典版、ハース版、ノヴァーク版)とその派生形があり、それぞれの山(交響曲各番)によって、どれを選ぶかも重要なメッセージとなっています。また、第1番から第9番までを標準とすれば、00番や0番を含むかどうか、作曲家自身が多くの改訂を行っているので、どの時点での稿を採用するか、さらに第9番については、輔筆の第4楽章を入れるかどうかといったさまざまな選択肢があります。

登攀にあたってのクルー(オーケストラ)の優秀さは重要です。3つのメジャー(ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ)のほかプロ・ドイツ系(ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、シュターツカペレ・ドレスデン、ミュンヘン・フィル、バイエルン国立歌劇場管弦楽団など)は古くからの登攀記録(スコア)をもっています。

一方で、アメリカ系(シカゴ交響楽団、クリーグランド管弦楽団など)もハンガリー出身の名人(ショルティ、セル、ドホナーニ)によって鍛えられ、3メジャーやプロ・ドイツ系に伍しています。また、ときに名アルピニストによっては専門のクルーが設けられる場合(ワルター/コロンビア交響楽団、クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団)もあり、これも一流の記録を誇ります。

名アルピニスト列伝という観点からは、まず2人の大御所がいます。❶フルトヴェングラーと❷クナッパーツブッシュです。次に、早くから2度の全集をつくった❸ヨッフムは押しも押されもしないブルックナーの大家でした。

ワーグナーとともにブルックナーでも重要な足跡を残したご当地オーストリアの巨匠、❹ベーム、❺カラヤン、さらに同時代には、❻チェリビダッケ、❼ヴァント、❽シューリヒトなどの名指揮者がひしめいていました。

また、ブルックナーの音楽価値を見抜き、それに続こうとしたマーラーの弟子筋の❾クレンペラー、❿ワルターは別格の地位をしめています。

ブルックナーもマーラーも積極的に取り上げた⓫ロスバウト、⓬シノーポリ、⓭インバルも分析的で特色ある名演を残しています。

 ブルックナー指揮者は、ドイツ、オーストリア以外にも広がりをみせています。日本人および日系人として、⓮朝比奈隆、⓯若杉弘、⓰ケント・ナガノが、イタリアでは⓱ジュリーニが、オランダでは⓲ベイヌムが、チェコではクロアチア出身の⓳マタチッチは先駆的、積極的にブルックナーを取り上げました。そしてイギリスで活躍した、旧東ドイツ出身の⓴テンシュテットも忘れられない巨匠です。

本書第1章から第9章では、以上の20人を中心に見ていきます。

第10章では旧東ドイツのオーケストラを含めて①アーベントロートから⑱サヴァリッシュまで18人の指揮者についてふれています(表4参照)。

欧州以外でも、いまやブルックナー受容には枚挙にいとまがありません。かつてフルトヴェングラーが、ドイツ文化圏外でのブルックナー理解の困難さを嘆いたことが嘘のように、ブルックナーは世界中で奏でられる演目です。

アメリカのオーケストラでは、⑲ショルティ、⑳セル、㉑ドホナーニらハンガリアン・ファミリーはシカゴ響やクリーヴランド響とともに水際だった素晴らしいサウンドを残してくれています。

ロシアといえば、㉕ムラヴィンスキーですが、このロシアの巨匠のブルックナー演奏への傾注はただならぬものがあります。手兵レニングラード・フィルとの演奏は、このオーケストラの十八番であるチャイコフスキーやショスタコーヴィッチ流の、鋼のような強靱な音と魂をゆさぶる抒情性によって、魅力的なブルックナー像を構築しています。そしてそのバトンはロシアでは、㉖ロジェストヴェンスキーに渡されました。

 第11章 多彩なるブルックナー・ワールドではこうした指揮者群像についてふれ、第12章では若干の歴史的な概観をしています。

 現代の若手、中堅指揮者もブルックナーを取り上げる際には、指揮者のヴィルトゥオーソを強く意識するでしょう。また、多くのブルックナーファンが指揮者にこだわりをもつ源流はこうした系譜とけっして無関係ではないでしょう。

次章から各指揮者によるブルックナー演奏の特色について私見を述べていきたいと思います。はじめに一覧表を掲げますが、約50名の指揮者と全集をふくめ約150枚(それ以外の全集をふくめ約200枚)のCDがその対象です。

また、その合間に15のミニコラムを入れました。それでは、気軽に、指揮者のプロフィールでも、関心のあるコラムからでもご一瞥いただけたら幸いです。 

<表1>本書で取り上げる指揮者一覧 

  取り上げた指揮者生年没年生誕地終焉地 
第1章 ➊フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler1886年 1月25日1954年 11月30日ベルリンバーデン=バーデン) 
第2章 ❷クナッパーツブッシュ Hans Knappertsbusch1888年 3月12日1965年 10月25日エルバーフェルトミュンヘン 
第3章 ❸ヨッフム Eugen Jochum1902年 11月1日1987年 3月26日バーベンハウゼントゥッツィング 
第4章 ❹ベーム       Karl Böhm1894年 8月28日1981年 8月14日グラーツザルツブルク 
 ❺カラヤン Herbert von Karajan1908年 4月5日1989年 7月16日ザルツブルクザルツブルク 
第5章 ❻チェリビダッケ Sergiu Celibidache1912年 7月11日1996年 8月14日ルーマニア ローマン ラ・ヌーヴィ・シュルエソンヌ 
 ❼ヴァント Günter Wand1912年 1月7日2002年 2月14日エルバーフェルトスイス ウルミウ 
第6章 ❽クレンペラー Otto Klemperer1885年 5月14日1973年 7月6日ポーランド ヴロツワフチューリッヒ 
 ❾ワルター Bruno Walter1876年 9月15日1962年 2月17日ベルリンビバリーヒルズ 
 ❿シューリヒト Carl Adolph Schuricht1880年 7月3日1967年 1月7日ポーランド グダニスクスイス ブベー 
第7章 ⓫ロスバウト Hans Rosbaud1895年 7月22日1962年 12月29日グラーツルガノ 
 ⓬シノーポリ Giuseppe Sinopoli1946年11月2日 2001年 4月20日)ヴェネツィアベルリン 
 ⓭インバル Eliahu Inbal1936年 2月16日 エルサレム  
第8章 ⓮朝比奈 隆1908年 7月9日2001年 12月29日東京都神戸市 
 ⓯若杉弘1935年 5月31日2009年 7月21日ニューヨーク東京都 
 ⓰ケント・ナガノ Kent George Nagano1951年 11月22日 バークリー  
第9章 ⓱ジュリーニ Carlo Maria Giulini –1914年 5月9日2005年 6月14日イタリア バルレッタイタリア ブレシア 
 ⓲ベイヌム Eduard van Beinum1901年 9月3日1959年 4月13日アルンヘムアムステルダム 
 ⓳マタチッチ Lovro von Matačić1899年 2月14日1985年 1月4日クロアチア スシャククロアチア ザグレブ 
 ⓴テンシュテット Klaus Tennstedt1926年 6月6日1998年 1月11日メルゼブルクハイケンドルフ 
第10章 ①アーベントロート Hermann Paul Maximilian Abendroth1883年 1月19日1956年 5月29日フランクフルトイェーナ 
②コンヴィチュニー Franz Konwitschny1901年 8月14日1962年 7月28日チェコ フルネクベオグラード 
③ノイマン Václav Neumann1920年 9月29日1995年 9月2日プラハウィーン 
④マズア Kurt Masur1927年 7月18日 2015年 12月19日ポーランド ブジェク米国 グリニッジ 
⑤シャイー Riccardo Chailly1953年 2月20日 – ミラノ  
 ⑥カイルベルト Joseph Keilberth1908年 4月19日1968年 7月20日カールスルーエミュンヘン 
⑦ケンペ Rudolf Kempe1910年 6月14日1976年 5月12日ドレスデンチューリッヒ 
⑧スウィトナー  Otmar Suitner1922年 5月16日2010年 1月8日インスブルックベルリン 
⑨ザンデルリング Kurt Sanderling1912年 9月19日2011年 9月18日アリス(旧)ベルリン 
⑩ブロムシュテット Herbert Blomstedt1927年 7月11日 米国スプリングフィールド  
⑪ハイティンク Bernard Johan Herman Haitink1929年 3月4日 アムステルダム  
⑫アイヒホルン Kurt Peter Eichhorn1908年 8月4日1994年 6月29日ミュンヘンムルナウ 
⑬ライトナー Ferdinand Leitner1912年 3月4日1996年 6月3日ベルリンチューリッヒ 
⑭ケーゲル Herbert Kegel1920年 7月29日1990年 11月20日ドレスデンドレスデン 
⑮スクロヴァチェフスキ Stanisław  Skrowaczewski 1923年 10月3日2017年 2月21日ポーランド ルヴフ米国 ミネアポリス 
⑯レーグナー Heinz Rögner1929年 1月16日2001年 12月10日ライプツィヒライプツィヒ 
⑰シュタイン Horst Stein1928年 5月2日2008年 7月27日エルバーフェルトスイス バンドゥーブル 
⑱サヴァリッシュ Wolfgang Sawallisch1923年 8月26日2013年 2月22日ミュンヘングラッサウ 
第11章 ⑲ショルティ Sir Georg Solti1912年 10月21日1997年 9月5日ブダペストフランス アンティーブ
⑳セル George Szell1897年 6月7日1970年 7月30日ブダペストクリーヴランド
㉑ドホナーニ Christoph von Dohnányi1929年 9月8日 ベルリン 
クーベリック Rafael Jeroným Kubelík1914年 6月29日1996年 8月11日チェコ ビーホリルツェルン
アーノンクール Nikolaus Harnoncourt1929年 12月6日 2016年 3月5日ベルリンザンクト・ゲオルゲン(アッターガウ)
㉔アバド Claudio Abbado1933年 6月26日2014年 1月20日ミラノボローニャ
㉕ムラヴィンスキー Evgeny Aleksandrovich Mravinsky1903年 6月4日1988年 1月19日ペテルブルクレニングラード
㉖ロジェストヴェンスキー Gennady Rozhdestvensky1931年 5月4日2018年 6月16日モスクワモスクワ
㉗ブーレーズ Pierre Louis Joseph Boulez1925年 3月26日2016年 1月5日モンブリゾンバーデン=バーデン
㉘メスト Franz Welser-Möst1960年 8月16日 リンツ 
㉙ネルソンス Andris Nelsons1978年 11月18日 ラトビア・リガ 
㉚白神典子1967年 7月5日2017年 1月13日東京都 

(注)㉚白神典子はピアニストだが、例外として掲げた。

<表2>本書で取り上げるCD一覧

 指揮者名番数 オーケストラ 録音時点 
1❶フルトヴェングラー第4番 VPO 1951年10月  
2 第5番 VPO 1951年8月   
3 第5番 BPO 1942年10月  
4 第6番(第2~4楽章) BPO 1943年11月 
5 第7番 BPO 1949年10月  
6 第8番 BPO 1949年3月  
7 第9番 BPO  1944年10月  
8❷クナッパーツブッシュ第3番 VPO 1954年4月  
9 第3番 バイエルン国立歌劇場管 1954年10月 
10 第4番 BPO 1944年9月8日 ベルリン 
11 第4番 VPO 1955年4月  
12 第5番 VPO 1956年6月  
13 第5番 MPO  1959年3月 
14 第7番 VPO 1949年8月  
15 第8番 MPO  1963年1月 
16 第8番 BPO 1951年1月 
17 第8番 バイエルン国立歌劇場管 1955年12月 
18 第9番 BPO 1950年1月28日  
19❸ヨッフム第1番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年12月 
20 第3番 シュターツカペレ・ドレスデン 1977年1月 
21 第4番 BPO 1965年6月  
22 第5番 バイエルン放送響 1958年2月  
23 第5番 シュターツカペレ・ドレスデン1980年3月  
24 第6番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年6月  
25 第7番 シュターツカペレ・ドレスデン1976年12月  
26 第8番 BPO 1964年1月  
27 第9番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年1月 
28 初期録音集 JOCHUM/ THE LEGENDARY EARLY RECORDINGS 
29 宗教録音集 
30❹ベーム第3番 VPO 1970年9月   
31 第4番 VPO 1973年11月  
32 第4番 ザクセン国立歌劇場管 1936年 
33 第5番 ザクセン国立歌劇場管 1937年 
34 第7番 VPO 1976年9月  
35 第7番 VPO 1943年 
36 第8番 VPO 1976年2月 
37❺カラヤン全集(第1~9番)BPO 1975~1981年  
38 第8番 プロイセン国立歌劇場管 1944年6月、9月 
39 第8番 BPO 1957年5月  
40 第8番 BPO 1975年1月、4月  
41 第8番 VPO 1988年11月  
42❻ チェリビダッケ第3番 MPO  1987年3月 
43 第4番 MPO  1988年10月  
44 第5番 MPO  1991年2月  
45 第7番 BFO 1992年3月、4月   
46 第8番 MPO  1993年9月   
47❼ヴァント全集  ケルン放送響 1974~1981年 から第1~3番  
48 第4番 ケルン放送響 1976年12月 
49 第6番 ケルン放送響 1976年8月 
50 第5番 ベルリン・ドイツ響 1991年10月 
51 第9番 シュトゥットガルト放送響 1979年6月 
52❽クレンペラー第4番 ケルン放送響 1954年4月  
53 第5番 VPO 1968年6月  
54 第6番 ニュー・フィルハーモニア管 1964年11月 
55 第8番 ケルン放送響 1957年6月  
56❾ワルター第4番 コロンビア響 1960年2月 
57 第4番 NBC響 1940年2月 
58 第7番 コロンビア響 1961年3月 
59 第9番 コロンビア響 1959年11月 
60❿シューリヒト第3番 VPO 1965年12月 
61 第7番 ハーグ管 1964年 
62 第8番 VPO 1963年  
63 第9番 VPO 1961年 
64⓫ロスバウト第2番 南西ドイツ放送響 1956年12月 
65 第5番 南西ドイツ放送響 1962年5月 
66 第7番 南西ドイツ放送響 1957年12月 
67 第8番 南西ドイツ放送響 1955年11月 
68⓬シノーポリ第3番 シュターツカペレ・ドレスデン 1990年4月 
69 第4番 シュターツカペレ・ドレスデン 1987年9月 
70 第7番 シュターツカペレ・ドレスデン 1991年9月 
71 第8番 シュターツカペレ・ドレスデン 1994年12月 
72 第9番 シュターツカペレ・ドレスデン 1997年3月 
73⓭インバル第3番 フランクフルト放送響 1982年9月 
74 第4番 フランクフルト放送響 1982年9月 
75 第8番 フランクフルト放送響 1982年8月 
76⓮朝比奈 隆第1番 大阪フィル 1994年5月 
77 第2番 大阪フィル 1994年1月 
78 第3番 大阪フィル 1993年10月 
79 第9番 テ・デウム 東京交響楽団 1991年3月 
80⓯若杉 弘第2番 ザールブリュッケン放送響 1992年4月 
81 第9番 ザールブリュッケン放送響 1994年12月 
82⓰ケント・ナガノ第3番 ベルリン・ドイツ響 2003年3月 
83 第4番 バイエルン国立管 2007年7月 
84 第7番 バイエルン国立管 2010年9月 
85 第8番 バイエルン国立管 2009年7月 
86⓱ジュリーニ第2番 ウィーン交響楽団 1974年12月 
87 第7番 VPO 1986年6月 
88 第9番 VPO 1988年6月 
89⓲ベイヌム第5番  コンセルトヘボウ管 1959年3月 
90 第7番  コンセルトヘボウ管 1953年5月 
91 第8番  コンセルトヘボウ管 1955年6月 
92 第9番  コンセルトヘボウ管 1956年6月 
93⓳マタチッチ第5番  チェコ・フィル 1970年11月 
94 第7番  チェコ・フィル 1967年3月 
95 第8番  NHK交響楽団  1984年3月 
96⓴テンシュテット第3番  バイエルン放送響 1976年11月 
97 第4番 BPO 1981年12月 
98 第8番  ロンドン・フィル 1982年9月 
99アーベントロート第4番  ライプチッヒ放送響 1949年11月 
100コンヴィチュニー第5番  ゲヴァントハウス管 1960年 
101 第7番  ゲヴァントハウス管  1961年 
102 第8番 ベルリン放送響 1959年 
103ノイマン第1番 ゲヴァントハウス管 1965年12月 
104マズア全集  ゲヴァントハウス管 1974~1978年 
105シャイー第1番 ベルリン放送響 1987年2月 
106 第6番 コンセルトヘボウ管 1997年2月 
107 第9番 コンセルトヘボウ管 1996年6月 
108カイルベルト第6番 BPO 1963年 
109ケンペ第4番 MPO   1976年1月 
110 第5番 MPO 1975年5月 
111⑧スウィトナー第4番 シュターツカペレ・ベルリン 1988年10月 
112⑨ザンデルリング第4番 バイエルン放送響 1994年11月 
113⑩ブロムシュテット第4番 シュターツカペレ・ドレスデン 1981年9月 
114 第7番 シュターツカペレ・ドレスデン 1980年6月 
115⑪ハイティンク第4番 VPO  1985年2月 
116 第6番 シュターツカペレ・ドレスデン 2003年11月 
117⑫アイヒホルン第5番 バイエルン放送響 1990年 
118⑬ライトナー第0番 バイエルン放送響  1960年6月 
119⑭ケーゲル第4番 ライプツィヒ放送響 1960年4月 
120⑮スクロヴァチェフスキ第2番 ザールブリュッケン放送響 1995年6月 
121⑯レーグナー第4番 ベルリン放送響1983年7月、1984年11月 
122 第5番 ベルリン放送響 1983年9月、1984年1月  
123 第6番 ベルリン放送響 1980年6月 
124 第7番 ベルリン放送響 1983年5月、8月  
125 第8番 ベルリン放送響 1985年5月、7月      
126 第9番 ベルリン放送響 1983年2月 
127⑰シュタイン第2番 VPO 
128⑱サヴァリッシュ第1番 バイエルン国立管 1984年10月 
129 第5番 バイエルン国立管 1990年 9月、1991年3月 
130 第9番 バイエルン国立管 1984年12月 
131⑲ショルティ第0番 シカゴ響  1995年 
132 第1番 シカゴ響  1995年 
133 第2番 シカゴ響  1991年 
134⑳セル第3番 シュターツカペレ・ドレスデン 1965年8月  
135 第7番 VPO 1968年8月 
136㉑ドホナーニ第3番 クリーヴランド管 1993年6月 
137 第4番 クリーヴランド管 1989年10月 
138 第5番 クリーヴランド管 1991年1月 
139 第6番 クリーヴランド管 1991年10月 
140 第7番 クリーヴランド管 1990年8月 
141 第8番 クリーヴランド管 1994年2月 
142 第9番 クリーヴランド管 1988年10月 
143㉒クーベリック第3番 バイエルン放送響 1980年 
144㉓アーノンクール第3番 コンセルトヘボウ管 1994年12月 
145㉔アバド第1番 VPO 1996年1月 
146㉕ムラヴィンスキー第8番 レニングラード・フィル 1959年6月 
147㉖ロジェストヴェンスキー全集  ソヴィエト国立文化省響 1983~1986年 
148㉗ブーレーズ第8番 VPO 1996年9月 
149㉘メスト第5番 ロンドン・フィル 1993年 
150㉙ネルソンス第4番 ゲヴァントハウス管 

(注)略号はVPO:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、BPO:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、MPO:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

<表3> 指揮者別、交響曲番号別の掲載分マトリックス

演奏家/番数全集1  2  3456789その他 共 計
フルトヴェングラー    ★★7 
クナッパーツブッシュ   ★★★★★★ ★★★11
❸ヨッフム ★★11※
❹ベーム   ★★ ★★ 7
❺カラヤン       ★★★★ 5
❻チェリビダッケ     5
❼ヴァント  5
❽クレンペラー      4
❾ワルター    ★★   4
❿シューリヒト      4
⓫ロスバウト      4
⓬シノーポリ     5
⓭インバル      4
⓮朝比奈 隆      4
⓯若杉 弘        2
⓰ケント・ナガノ      4
⓱ジュリーニ       3
⓲ベイヌム      4
⓳マタチッチ       3
⓴テンシュテット       3
①アーベントロート         1
コンヴィチュニー       3
ノイマン         1
マズア         1
⑤シャイー      3
⑥カイルベルト         1
⑦ケンペ        2
⑧スウィトナー         1
⑨ザンデルリング         1
⑩ブロムシュテット        2
⑪ハイティンク        2
アイヒホルン         1
ライトナー          1※
⑭ケーゲル         1
スクロヴァチェフスキ         1
レーグナー    6
⑰シュタイン         1
⑱サヴァリッシュ       3
⑲ショルティ        3※
⑳セル        2
㉑ドホナーニ   7
㉒クーベリック         1
アーノンクール         1
㉔アバド         1
㉕ムラヴィンスキー         1
㉖ロジェストヴェンスキー         1
㉗ブーレーズ         1
㉘メスト         1
㉙ネルソンス         
㉚白神典子 例外
   計881724209192515150

※第0番ショルティ、ライトナー、ヨッフムの初期録音集、宗教音楽集の4点を含むこと等から合計と内訳は一致しない。☆は文中で全集としてふれたものを示す。

<表4>ブルックナーと関連の深いドイツ5大オーケストラの指揮者

 ライプツィヒ・ ゲヴァントハウス 管弦楽団シュターツカペレ・ ドレスデンミュンヘン・フィルバイエルン国立 歌劇場管弦楽団バイエルン 放送交響楽団
1895~1922年 ニキシュ1914-1921 フリッツ・ライナー1908–1914 レーヴェ 1919–1920 プフィッツナー1904–1911 フェリックス・モットル 1913–1922 ❾ワルター 
1922~1928年 フルトヴェングラー1922-1933 フリッツ・ブッシュ1920–1938 ハウゼッガー1922–1935 ❷クナッパーツブッシュ 
1929~1933年 ワルター1934-1943  ❹ベーム 1937–1944 クレメンス・クラウス 
1934~1945年 ①アーベントロート1943-1944 エルメンドルフ1938–1944 オズヴァルト・カバスタ1945  クナッパーツブッシュ 
1946~1948年 アルベルト1945-1950 ⑥カイルベルト1945–1948 ⓫ロスバウト1946–1952 ⑲ショルティ 
1949~1962年 ②コンヴィチュニー1949-1953 ⑦ケンペ 1953-1955 ②コンヴィチュニー 1956-1958 マタチッチ 1960-1964 ⑧スウィトナー1949–1966 フリッツ・リーガー  1952–1954 ⑦ケンペ 1956–1958 フリッチャイ1949 – 1960 ヨッフム
1964~1968年 ③ノイマン1964-1967 ⑨ザンデルリング 1966-1968 トゥルノフスキー1967–1976 ⑦ケンペ1959–1968 ⑥カイルベルト1961 – 1978 クーベリック
1970~1996年 ④マズア1975-1985 ⑩ブロムシュテット 1985-1990 ハンス・フォンク 1992-2001  ⓬シノーポリ1979–1996 ❼チェリビダッケ1971–1992 ⑱サヴァリッシュ 1992–1998 ペーター・シュナイダー1982 – 1992 デイヴィス
1998~2005年 ⑩ブロムシュテット2002-2004 ⑪ハイティンク1999–2004 レヴァイン1998–2006 メータ1993 – 2002 マゼール
2005~2016年 ⑤シャイー2007-2010 ファビオ・ルイージ 2012- ティーレマン2004–2011 ティーレマン 2012-2014 マゼール 2015- ゲルギエフ2006–2013 ⓰ケント・ナガノ 2013–2020 ペトレンコ2003 – ヤンソンス
2017年~    ネルソンス  2021 ユロフスキ 

(注)ベルリン・フィルを除く。他にも多くの著名な楽団があるが、ここでは指揮者の系譜をみるうえで選択している。

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第1章 フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886~1954年)

時はいまから半世紀以上前にさかのぼります。映画『フルトヴェングラーと巨匠たちーベルリン・フィル物語』(原題:Botschafter der Musik)を映画館で観たのは1968年8月25日のことでした。ここでは若きチェリビダッケなども出てきますが、表題のとおりフルトヴェングラーがあくまでも主役であり、1954年、彼の没年に制作されています。フルトヴェングラーはシューベルト、ワーグナー、R.シュトラウスなどを振っています。

 この映画をみた当時、フルトヴェングラーといえば、ベートーヴェンの第3、5、7、9番(ウィーン・フィル)などが、EMIから疑似ステレオ化されて登場し圧倒的な影響力がありました。その一方、ブルックナーについて国内レーベルでは第7、8番(ベルリン・フィル)のみがリリースされていたと思います。

 フルトヴェングラーは、1886年1月25日ベルリン生まれで、二十歳にして1906年にカイム管弦楽団を指揮しデビューを飾ります。その時の演目は自作のアダージョ、ベートーヴェンの序曲、そしてブルックナーの交響曲第9番でした。その意味でも、ブルックナーは一生忘れることのできない作曲家でした。

フルトヴェングラーが、生涯の活動の友としたベルリン・フィルにおける前任者は、プロローグでふれたとおり、ブルックナー指揮者として大変重要な地位をしめるニキシュでした。

 ブルックナーとニキシュの関係は多くありますが、その最たるものは、1885年12月30日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して交響曲第7番の初演を行ったことでしょう。そして、ニキシュ以降、ドイツでブルックナー指揮者といえば、そこにフルトヴェングラーあり、ということになります。

 ニキシュはゲヴァントハウス管弦楽団の楽長を1895~1922年まで務めますが、急逝後の後任はフルトヴェングラーでした。同様に、ベルリン・フィルについては、ニキシュはハンス・フォン・ビューローの後任として常任指揮者となりますが、その地位も同時にフルトヴェングラーが継ぎます。その意味で1922年は、フルトヴェングラーが名実ともにドイツ帝国第1の指揮者となった年でした。

まず、カルラ・ヘッカー(1967)『フルトヴェングラーとの対話』薗田宗人訳,音楽之友社.からブルックナー演奏についていくつか引用します。

「彼の練習の特徴は、どんな様式の曲にもそれぞれに含まれている特殊な問題点を、彼がたちまち見てとったという所にある。たとえばブルックナーの場合。『ブルックナーでもっともむつかしいのは、なめらかな静かな楽句を拍子正しく演奏することだ。ブルックナー独特のルバートがあるので、そんな所を勝手にくずして弾くと、まるで台なしになってしまう。』

 ブルックナーの第7交響曲を練習している時、彼は『原典版はほとんど無意味だ、ほんの些細な点しか違っていないのだから』と言っていた。そして『カランド(しだいに音と速度を減じる奏法)は、まったく自然になされねばならぬ。その意図が見えてはだめだ』と注意した。

 別の練習の時、ブルックナーの第5交響曲をやりながら、彼はこんな意見を述べた。ブルックナーは強調記号を、おそろしくふんだんに使っている。だから、それをあまり正直に強く奏さないように。』曲が一つの頂点に達した所で、『金管楽器はやたらと大きなしまりのない音を出してはいけない。いつもくっきりと、上品に!』そして彼は伴奏部にあたる各パートに対して言った。『あなた方がただ旋律を聞き、それに合わせている時が一番正しく奏している時なのだ!』」(pp.121-122)

 別の部分ではこんなエピソードも紹介されています。

 「フルトヴェングラーは、今ブルックナーの第6交響曲を指揮したところだ。外ではまだ拍手が続いている。ハンカチで顔や首のあたりをふきながら、思いに沈んだ声で彼が言う。『この交響曲を演奏するまでに、私は57歳になってしまいました。しかし、この年でこんなことを体験できるとは、なんとすばらしいことではありませんか。』」(pp.135-136)

次は、ブルックナーの「総休止(ゲネラルパウゼ)」に関してのフルトヴェングラーのコメントです。

 「たしかにブルックナーは、じつにしばしば総休止を使っています。しかしよく考えてみなければならないのは、ブルックナーの音楽には、いくつかの大きなアーチがあって、それを建てるには偉大な知性が必要だということです。なるほど彼の音楽には、しばしば何か公式的なものが、しかしまた同時に、何か崇高なものが前面に現れています。」(pp.179-180)

  そうしたブルックナーの特質を引き出すのはフルトヴェングラーの指揮における左手の動きです。

 「指揮に際しては、右手が構成的な意志を表現するのに対し、左手は私たち生来の習慣どおり、より受動的に、繊細に、感情的な要素を表現した。・・・左手はなによりも、旋律の線を形作った。楽曲の魂に訴える力を受けもち、ダイナミックな力に対応する静かな炎を絶やさず保つのが旋律である。ブルックナーが管楽器のコラールと対置させた弦楽器のあの旋律、あるいはシューベルトが甘美なレントラー主題に与えた魅惑的な夢想的な旋律が、そのいい例である。」(pp.83-84)

 

彼みずからが1939年に書いた「アントン・ブルックナーについて」(フルトヴェングラー(1978)『音と言葉』芦津丈夫訳,白水社.)は、当時におけるブルックナー解釈の必読文献だと思います。いまや当たり前のように語られるブルックナー論がいくつも先駆的に繰り出される実証的分析の部分と、濃厚すぎる当時の時代精神がここでは混在しています。そして、フルトヴェングラーの演奏そのものにも通じるパッションが音楽ではなく彼の言葉によって語られます。たった一言を選ぶとすれば次の一文ではないでしょうか。

 「ブルックナーは疑いもなくブラームスにも劣らぬ絶対音楽家であったのです」(p.111)

 フルトヴェングラーはブルックナー協会の主席(会長)としてのこの講演で「絶対音楽家」という言葉を深い考察のすえに使ったと思います。

また、フルトヴェングラーのブルックナー論では、ラテン系の国々(ないし聴衆)への受容の難しさをやや慨嘆気味に語っています。しかし、戦後、パリなどでのブルックナー演奏は圧倒的な成功を収めますから、晩年での思いには多少は変化があったかも知れません。

次に、ダニエル・ギリス編『フルトヴェングラー頌』(1969)仙北谷晃一訳,音楽之友社.から、フルトヴェングラーのブルックナーの演奏についてランダムに拾遺してみます。

カール・ベーム (指揮者)

・・・彼の後、誰がブラームスの≪第4≫のパッサカリアやブルックナーあるいはベートーヴェンのアダージョを敢えて指揮しようと思うでしょう。(p.38)

■ジェフリー・シャープ (音楽評論家)

…(到達した最高峰の演奏例として、ベートーヴェンの第9番とともに)ザルツブルクで1949年に演奏された、ブルックナーの≪第8交響曲≫だった。(p.58)

■フリッツ・ゼードラク (ウィーン・フィル コンサートマスター)

…「滑らかに(グラット)」という言葉は、リハーサル中ごとに彼の口をついて出てくる言葉であった。ブルックナーの交響曲で、あれほど類希な成功を収めたのは、変化の扱い方のうまさによる。時に楽節が四角い石のように並んでいるように思われる時でも、そのしばしば扱いにくい終楽章を、一つの統合された全体へと溶接してゆくことが、彼には可能だった。(pp.77-78)

■クラウディオ・アラウ (ピアニスト)

…(フルトヴェングラーは)何を演奏しても、そのすべてを、知り尽くしておりました。(ドビュッシーを絶賛したあと)ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーは、言うまでもありますまい。(p.134)

■パウル・バドゥーラ=スコダ (ピアニスト)

・・・ルツェルンでのブルックナーの≪第7≫など、いつまでも忘れることができないでしょう。(p.22)

■エンリコ・マナルディ (チェリスト)

…死に先立つ数ヶ月前、ルツェルン音楽祭での、最後のコンサートを、思い起こしながら、この文を閉じたいと思います。プログラムには、ブルックナーの≪第7交響曲≫とありましたー純化されて、神々しいまでに天国的なあの演奏!あの作品を演奏するのは、これが最後だと、彼自身が知っていたかのようでした。(p.213)

 脇圭平・芦津丈夫(1984)『フルトヴェングラー』岩波新書.でもブルックナーについての記載(p.64など)はありますが、全体のなかでは扱いは小さく、さして紙幅はさかれていません。ブルックナー演奏について、特に近年、厳密なテキスト主義の潮流が強いですから、フルトヴェングラーのデモーニッシュな演奏は一部ではやや敬遠される傾向もありますが、小生は聴くたびにその凄さに感嘆する一人です。

では、代表的な録音を見ていきましょう(以下、VPO:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、BPO:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)。

【第4番】

 

https://cdn.tower.jp/za/l/2W/zaP2_A2045812W.JPG 第4番   VPO 1951年10月29日 ドイツ博物館コングレスザール ミュンヘン London  POCL-4302

 本盤は、バイエルン放送がラジオ放送用にライヴ録音したものです。当月のフルトヴェングラーとウィーン・フィルは5日から22日まで、18日間で16回のコンサートをこなし、27日フルトヴェングラーは単独でハンブルクに行き北ドイツ放送響を振り、翌28日はカールスルーエで再度ウィーン・フィルと合流しブラームス他を演奏しています。そして29日にミュンヘンに入るという強行軍でした。この間、第4番は主力の演目で6回取り上げられました。この録音もあくまでも放送用で、その後、長くLP、CDなどで聴きつがれることを演奏者は想像もしていなかったでしょう。

 フルトヴェングラーの足跡をたどるうえでは貴重な記録ですが、音響の悪さ、オーケストラの疲労度からみてもベストの状況の録音とは思えません。会場の雑音の多さは一切無視するとしても、第1楽章冒頭のホルンのややふらついた出だしといい、折に触れての弦のアンサンブルの微妙な乱れといい、意外にもフルトヴェングラーの演奏にしては要所要所での劇的なダイナミクスの不足といい、第4番を聴きこんだリスナーにとっては気になる点は多いと思います。

 一方でレーヴェ改訂版による演奏という点に関してはあまり気にならないかも知れません。それくらいフルトヴェングラーの演奏は「独特」です。

 にもかかわらず、本盤はブルックナー・ファンにとっては傾聴に値するものです。それは第2楽章アンダンテを中心に各楽章の弦のピアニッシモの諦観的な響きにあります。特に第2楽章の非常に遅いテンポのなかに籠められているのは、転調をしても基本的にその印象が変わらない深く、名状しがたい諦観です。しかもそれはウィーン・フィルのこよなく美しい響きとともにあります。ここに表出されている諦観が作曲者のものなのか、指揮者の時の感興か、双方かはリスナーの受け止め方如何でしょう。

[2012年9月30日]

ほかに、第4番では、10年前の録音(BPO、1941年12月14~16日)、本盤の一週間前のライヴ演奏(VPO、1951年10月22日、シュトゥットガルト)もあります。

【第5番】

https://cdn.tower.jp/za/l/10/4909346307810.jpg 第5番   VPO 1951年8月19日 ザルツブルク音楽祭ライヴ Grand Slam  GS2133

 ザルツブルク音楽祭における歴史的なライヴ演奏です。音源が荒いせいか、ザラザラした感触の不思議な「音楽空間」に、ウィーン・フィルとも思えない管の不安定さ、聴衆の咳がときたま入るといったお世辞にもけっして良いとはいえないコンディションで、録音にこだわる向きには、その点では難があります。しかし、そこを超越して、真のフルトヴェングラーを聴きたいリスナーには随喜の涙ものでしょう。ブルックナー演奏におけるいわゆるアゴーギク(テンポ、リズムの緩急の変化)の大胆すぎる適用といい、また、畳みかけるようなアッチェレランド(テンポの上げ方)といい、他では決して聴けない独自のブルックナーの世界の構築です。1回限りのライヴ感が、演奏の先鋭性をより強くしています。そして時間の経過とともに音楽の深部にどんどん引き込まれていくような非常な緊張感があります。これは神憑りの演奏とでも表現すべきものです。

[2006年6月4日]

第5番 BPO 1942年10月28日 ベルリン・ベルンブルガ・フィルハーモニー Testament  SBT1466

 前記ウィーン・フィルとの1951年盤がよく知られていますが、戦前のこの録音は意外に音がクリアで迫力に富むものです(ハース版準拠)。ライヴならではの即興性はあるものの、それ以前に強固な演奏スタイルを感じます。フレーズの処理が実に生き生きとしており、オーケストラは常時に変化するテンポ、リズムにピタッとあわせ、その一方でメロディは軽く、重く、明るく、暗く、変幻自在に波打ちます。凡庸な演奏では及びもつかない凝縮感と内容の豊穣さです。

 第1楽章、ブルックナーに特徴的な“原始霧”からはじまり、順をおって登場する各主題をフルトヴェングラーは意味深長に提示していきます。それはあたかも深い思索とともにあるといった纏(まとい)とともに音楽は進行していきます。この曲は極論すれば第1楽章で完結しているかの充足感がありますが、つづく中間2楽章では、明るく浮き立つメロディ、抒情のパートはあっさりと速く処理し感情の深入りをここでは回避しているようです。その一方、主題の重量感とダイナミックなうねりは常に意識され、金管の分厚い合奏がときに前面にでます。終楽章は、第1楽章の<対>のようにおかれ、各楽章での主題はここで走馬灯のように浮かび、かつ短く中断されます。そののち、主題は複雑なフーガ、古式を感じさせるコラール風の荘厳な響き、そしてブルックナーならでは巨大なコーダへと展開され、ながい九十九折(つづらおり)の山道を登り峻厳なる山頂に到達します。フルトヴェングラーの演奏スタイルには特異な魔術(デーモン)を感じます。

[2012年9月30日] 

【第6番】

ブルックナー:交響曲第6番 第6番(第2~4楽章) BPO 1943年11月 EMI Classics  TOCE-3807

  

フルトヴェングラーの現状知られる唯一の第6番の記録です。なによりも、この盤の面白さは(1)ブルックナー&ヴォルフ、(2)フルトヴェングラー&シュワルツコップ、(3)フルトヴェングラーの指揮&ピアノ伴奏の3つのカップリングの妙にあります。

 まず ブルックナーの第6番ですが、1943年の演奏で第1楽章は残念ながら欠落しています。また、フルトヴェングラーによるピアノ伴奏(タッチのミスなどは無視しましょう)のヴォルフの歌曲集は、10年をへた1953年のライヴですが、シュワルツコップは別に決定版のヴォルフの歌曲集を録音しています。

 小憎らしい編集です。シュワルツコップはフルトヴェングラーを深く尊敬しており、しかも、彼女は当代随一のヴォルフ歌いでした。このカップリングには歴史的な意義が大きいと思いますし、第6番のアダージョを聴いたあと、この二人の深いヴォルフの演奏に飛んで聴くのもなかなかの楽しみです。また、ヴォルフを聴きながら、ブルックナーとの関係に思いを馳せるのも一興でしょう。 

[2006年5月15日]

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番[原典版] 第7番 BPO 1949年10月18日 ゲマインデハウス ベルリン・ダーレム WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50651

 原典版による演奏です。ブルックナーの第7番は前半に頂点があり、第1楽章の終結部は強く締めくくられ、第2楽章の有名はアダージョのあと、第3楽章はワーグナー的な躍動感にあふれ、終楽章はブルックナーの他の交響曲のフィナーレに比べて軽量、快活そしてなにより短いのが特徴です。

 フルトヴェングラーの第1楽章の再現部からコーダへの盛り上げ方は圧倒的でこの楽章だけで完結感、充足感があります。アダージョの沈潜もフルトヴェングラーらしく深い味わいをたたえており、第3楽章はワーグナーのワルキューレの騎行をつよく連想させ、独特の振幅がありスケールが大きいものです。第4楽章は一転、速度を早め軽快に締めくくります。全般に堂々とした構えで、この時点での指揮者(そしてリスナー)へ強烈な示唆を与える規範的な演奏であったでしょう。

[2010年4月3日]

ほかに、第7番では、8年前の録音(BPO、1941年2月2~4日)、遠征先での2種のライヴ盤(BPO、1951年4月23日、カイロ)(1951年5月1日、ローマ)などもあります。

【第8番】

ブルックナー:交響曲第8番(原典版) 第8番 BPO 1949年3月14、15日 ゲマインデハウス ベルリン・ダーレム WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50579

 

聴く前に深呼吸がいるような演奏です。これから音楽による精神の「格闘技」に立ち会うような気分になって・・・。フルトヴェングラーの第8番は数種の入手が可能ですが、一般には本盤の評価が高いでしょう。しかし、録音には留意がいります。ライヴ音源ながら、雑音が少なく比較的柔らかな響きが採れているとはいえ、全般に音はやせており、金管も本来の咆哮ではないでしょう。緊張感をもって、無意識に補正しながら聴く必要があります。

  その前提ですが、演奏の「深度」は形容しがたいほど深く、一音一音が明確な意味付けをもっているように迫ってきます。テンポの「振幅」は、フルトヴェングラー以外の指揮者には成し得ないと思わせるほど大胆に可変的であり、強奏で最速なパートと最弱奏でこれ以上の遅さはありえないと感じるパートのコントラストは実に大きいものです。しかしそれが、恣意的、技巧的になされていると思えないのは、演奏者の音楽への没入度が深いからでしょう。これほど高き精神性を感じさせる演奏は稀有ではないでしょうか。根底に作曲家すら音楽の作り手ではなく仲介者ではないかと錯覚させる、より大きな、説明不能な音楽のエートスを表現しようとしているからかも知れません。

[2013年9月22日]

第8番では、遡って5年前のウィーンでの放送用録音(VPO、1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェラインザール)や1954年4月10日、ウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴ録音もあります。

【第9番】

ブルックナー:交響曲第9番 第9番  BPO 1944年10月7日 ベートーヴェンザール ベルリン DG Deutsche Grammophon  UCCG-3694

 ハース版による演奏です。現在知られる限りフルトヴェングラー唯一の第9番の音源です。テンポが速く全体で60分(特に第2楽章は10分)を切る快速であり、非常に凝縮感があります。

 第1楽章の導入部、慎重に手塩にかけるように曲想を提示するので、はじめは「遅い」と感じるかもしれませんが、徐々にテンポと音量を上げ第1主題主部では強烈な合奏となります。一瞬の休止ののち朗々と奏でられる第2主題は心奥に素直に響きます。以降もテンポは可変的でフルトヴェングラーの微妙なタクト裁きを連想させます。展開部、再現部を通じて、「不安」と克服する意志、「不安定」と強い構造力が対比され、前者を不協和音が表象しますが、全体の交錯のなかでは、後者の整序されたポリフォニーが前者を凌駕し終結部は、特に決然たる後者の優越を示しているかのようです。

 第2楽章は、前述のように急なテンポで思い切りのよいスケルツォ。リズムが跳躍し若々しい力動感がある一方、それを覚めた遠目で眺めている老人のごとき詠嘆的エレジーも巧みに挿入されます。しかし全般には、フルトヴェングラーお得意の鉈で薪を次々に割っていくような激しいリズムの刻み方が耳に残ります。

 第3楽章、俊足な前楽章とのコントラストで、冒頭の慎重な処理は第1楽章同様、姿勢を正すような独特の緊張感とともにあります。さて、その表情は複雑で解析しにくく、あえていえば、未完のものは、あるがまま未完で置いておこうといった即物的(ザッハリッヒ)な解釈ともいえるかも知れません。ブルックナーが「生との訣別」と言ったという荘厳なコラール風楽曲も、べたつく感情はなく、むしろ凛と美しく上質な響きを際立たせています。その一方、前後では第1楽章とは異なり不協和音も響き渡ります。音は重く、その重量感はベルリン・フィルの低弦の威力に支えられていますが、ワーグナーチューバと交感しつつ、厚みある重層的な響きに結実しています。

  フルトヴェングラーのブラームスの名演同様、その構成力からはドイツの誇る「絶対音楽」の精華、ここにありといったアプローチでしょうか。静謐なコーダの終了ののち深い感動の余韻が後に尾をひきます。

[2013年8月11日]

≪ナチズムとの関係≫

ブルックナーは、本人の思いとは一切かかわりなく、のちにナチス、ヒットラーの寵愛をうけることになります。ヒトラーがワーグナーとともにブルックナーを愛したことは有名で、リンツはブルックナーの聖地として、そのオーケストラは「帝国」の冠をかざすことになります。そうした、生臭いナチスとブルックナーの関係は、フルトヴェングラーの活動にとっても大きな影を落とすことになります。フルトヴェングラーにとって、ワーグナーやブルックナーを演奏することは、本人の思いとは全く別に、ナチスとの関係では結果的に一種の音楽によるプロパガンダ活動であったとの批判があります。

 1944年10月。すでにドイツの敗色は誰の目からみても明らかになっており、未遂に終わりましたが、ヒトラー暗殺計画があったのが7月。フルトヴェングラーはどういう気持ちで指揮台に上がり、上記ブルックナーの最後の交響曲を演奏したことでしょう。

 普通、そうしたことは音楽と関係して語るべきではないのかも知れません。しかし、フルトヴェングラーが嫌っていたカラヤンは同じベルリンでこの年の9月、交響曲第8番の史上初のステレオ録音を行っていたことも象徴的です。

 フルトヴェングラーによるブルックナー第9番を聴いていると、霞がかった録音とともに、どうしてもそうした時代性を感じてしまいます。第1楽章の乾いた無音階的な響き、続く魂を鷲づかみするような異様な深みあるフレーズ、第3楽章最後の消えゆく金管の独奏は、一呼吸の限界まで引き摺る意図的、示唆的な処理を感じさせます。演奏評以前に、これは何を意味しているのか、を否応なく考えさせられる音楽です。

さて、思想的な話は別として、ことブルックナーに関してはフルトヴェングラーがウィーン・フィル、ベルリン・フィル双方を拠点として演奏、録音を展開したこと、アメリカや欧州各地でブルックナーを積極的に取り上げていることにも注目したいと思います。もちろん、フルトヴェングラーは、ブルックナーに限らずヒンデミットなどの啓蒙普及にも尽力していますが、ブルックナー受容についてはその功績がもっとも顕著な指揮者の一人です。また、現代の多彩なブルックナー演奏の可能性を明確に示唆したという点においても、ブルックナー指揮者の系譜に大書されるべき存在でしょう。

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ブルックナー・コラム Ⅰ

<作曲家シリーズ> ブラームス   フルトヴェングラーの前述の言葉「ブルックナーは疑いもなくブラームスにも劣らぬ絶対音楽家であったのです」のとおり、この二人の作曲家の同時代性はいろいろと考えさせる素材を提供してくれます。  1833年生まれのブラームスは、ブルックナーよりも9歳年下です。そのブラームスの交響曲第1番が21年の歳月をへて完成し(それ以前の「習作」などは廃棄したともいわれます)、1876年に初演されたのは43才の時でした。  さかのぼって1868年、ブルックナーは第1シンフォニーを自らの手で初演します。時に44才でした。年齢差こそありますが、興味深いことに交響曲作曲家として遅咲きのデビューは二人ともほぼ同年代であったわけです。  北ドイツのハンブルク生まれのブラームスが活動の拠点を音楽の都ウィーンに移したのは1862年、ブルックナーは6年遅れて1868年にウィーンに入ります。ブラームスが満を持して交響曲第1番を発表する以前、彼は『ドイツ・レクイエム』を世に問い自信を深めたといわれます。ブルックナーも同様に、ミサ曲二短調(1864年)、ミサ曲ホ短調(1866年)、ミサ曲へ短調(1867年)や習作の交響曲を相次いで作曲したうえで翌年第1シンフォニーを期待とともに送り出します。  ブラームスの最後の交響曲第4番は1884年から翌年にかけて作曲されますが、この年還暦を迎えたブルックナーは第7番をライプチッヒの市立歌劇場で、ニキシュ指揮で初演し輝かしい成功を飾っています。さらにその後、ブルックナーは交響曲の作曲に10年に歳月をかけ1894年第9番のシンフォニーの第1から3楽章を完成させています。  こうして見てくると稀代の交響曲作曲家としての二人の同時代性がよくわかります。有名な二人にまとわるエピゴーネン達の論争や足の引っ張り合いなどは一切捨象して、お互いの作風の違いや共通するその高い精神性への相互の思いなどは考える素材を多くあたえてくれます。  両者の音楽理論的な異質性の論評は専門家や評論家の仕事でしょうが、両者の名演を紡ぎ出す指揮者がフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヨッフム、ベーム、カラヤン、シューリヒトはじめ多く共通しているのは興味深いと思います。これは、広義のドイツ文化圏のなかで捉えるべきものなのか、両雄の同時代性のもつ意味なのか、あるいは双方なのかも関心のそそられる問題ではあります。  さて、ブルックナーのあとでブラームスの交響曲を聴くと、ブラームスの音楽は、引き締まった筋肉質で、特有の凝縮感があるように感じます。交響曲の比較では、ブルックナーは長く、ブラームスは(その相対比較において)短く感じます。当時のオーケストラ・メンバー(ウィーン・フィルがその典型)にとって、程良い演奏時間からも、また聴衆の「受け」狙いでも、ブラームスが好かれブルックナーが当初不評だったことも理解できる気がします。もっと端的に言えば、ブラームスは当時のウィーン音楽界の諸事情をキチンと洞察し、一作品の時間管理にしても、管弦楽団のモティベーションを高めるオーケストレーションの方法論にしても、心憎いばかりに踏まえて作曲をしていたといえるかも知れません。合理的で無駄がなく、かつ、その音楽は堅牢でありながら情熱も気品もある。だからこそ、反ワーグナー派が血道をあげて熱中したのだろうと思います。  一方、ブルックナーはその点で大いに不利です。日本的な比喩では「独活(うど)の大木」という言葉が連想されますが、ブラームス愛好家からすれば、当時のウィーンではハンスリックのみならず、こうした世評があったとしても不思議ではないでしょう。ブラームスのスタイリッシュさに魅力を感じる向きには、ブルックナーの音楽は時に武骨に響くのだと思います。  蛇足ですが、ブラームスはハンサムでした。晩年の憂いを含んだ髭の重厚な面影もご婦人にはもてたでしょう。その点でもブルックナーは分が悪いです。しかし、ブルックナーの伝記を読んでいると、大家ブラームスがいたからこそ、そして、反ブラームス派≒ワーグナー派の、(いまとなっては非本質的な)「論争」があればこそ、ワーグナー派の「遅れてきた交響曲作家」として、ブルックナーも世俗的に注目されたという一面はあるでしょう。禍福はあざなえる縄の如し。  ブラームスはブルックナーをあまり歯牙にもかけたくなかったでしょうし、訳のわからない「論争」は迷惑ですらあったかも知れません。しかし、ブラームスは全般に、横綱然として大人の対応を行っているようにも見えます。対して、ブルックナーは実生活で、ハンスリックにいじめ抜かれたこともあって、周章狼狽気味です。ブルックナー被害者説もありますが、公平にみれば、超然としているかに見えるブラームスの方が割を食っていたのではないでしょうか。  ところで、ブラームス、ブルックナー双方ともに好きな小生ですが、いまはブラームスのスタイリッシュさよりも、ブルックナーの武骨さにより多く惹かれます。その交響曲の長大さや循環性が逆に魅力の源泉になっています。しかし、だからこそ、時たま聴くブラームスは「新鮮」で、その良さが際だち改めて心動かされる気もするのです。   <参考文献> ・カール・ガイリンガ―(1952)『ブラームス 生涯と作品』山根銀二訳,音楽之友社. ・三宅幸夫(1986)『ブラームス』新潮社. ・渡辺茂(1995)『ブラームス』芸術現代社
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第2章 クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888~1965年)

フルトヴェングラーより2才若いクナッパーツブッシュは、エピソードを読む限り、人間的な魅力に富んでいたようです。ナチスに対してはぎりぎりまで節を曲げずに一定の距離をおき戦時中は一時「干されて」苦労もしますが、戦後はそれがゆえに比較的早くから音楽活動を再開することができました。 

 練習嫌いでは「名うて」ながら、一回の演奏に燃え上がるライヴ派からは絶対の評価があります。オーケストラも練習に血道をあげて成果がいまいちのうだつの上がらない指揮者に比べ、事前に「楽して」、本番勝負で名演であれば人気があったこともわかります。

 お顔はどちらかといえば、魁偉な風貌でとっつきにくい印象ですが、茶目っ気があり気さくな人柄が愛されたとの多くの証言があります。フルトヴェングラーと同時代を生きながら、暗い苦闘の時代のマエストロといった悲愴な雰囲気とはことなり、結構、人生の楽しみ方を心得ていた達人といったイメージを醸し出してもいます。

 しかし、その音楽の構成力の「桁違い」の大きさや、ときに超スローな演奏スタイルといい、また、突然の急降下・急上昇ができる戦闘機の高度なパイロットのようなオーケストラの操縦術といい、まさに天衣無縫な偉丈夫ぶりです。

 トスカニーニが抜群の記憶力を誇り、暗譜で指揮することを旨としていたことー実は強度な近眼だった!ーを皮肉って「俺は眼が見えるからね(暗譜はしない)」と言ったとか言わなかったとか・・・。しかし、実際は譜面台の総譜を全くめくらなかったとも。面白い人です。

 その明るさがブルックナーの“善なる魂”と、もしかすると共鳴する部分があるのではないでしょうか。これこそが聴き終わったあとのスカッとした爽快感の理由かも知れません。破顔大笑したチャーミングな表情がジャケットになったり、多くのファンから「クナ」と愛称されたことなども、その吸引力のなせる技でしょうか。

【第3番】

Symphony 3 / Siegfried Idyll 第3番 VPO 1954年4月 ウィーン楽友協会大ホール Testament SBT1339

第3番がいかに類い稀なる作品であるか、これを録音芸術において世に認識させたのはクナッパーツブッシュの功労であるといっても過言ではないでしょう。同番についてステレオ録音をふくめ複数の記録がありますが、1954年盤(1890年シャルク改訂版)は珍しくスタジオ収録です。

第1楽章、主題の展開とともに金管楽器は怪鳥音のように空間を劈き、その後、全楽器が獅子吼を連想させるような思い切った強奏でリスナーを圧倒します。録音がもっと良かったら、その迫力いかばかりか、と思うような展開です。第2楽章は、ブルックナー交響曲のひとつの特色、優しさ、慈しみを包んだ牧歌的なメロディが弦と木管楽器の融合によって奏されますが、テンポは軽快です。第3楽章、鋭角的で歯切れの良いスケルツォをへて、複雑な表情をもつ第4楽章へ。第1楽章と対で、ここは大見得を切り、大向こうを唸らせるような演奏でクナッパーツブッシュ好きなら、堪らない節回しです。

 その一方、クナッパーツブッシュの演奏には一瞬、肩の力を抜いて、「ひらり」「はらり」とかわすような所作があり、これが他の指揮者にはないオーケストラの高度な操舵法ではないかと思います。クナッパーツブッシュ自身、ブルックナーが好きで、各曲の解釈に大いなる自信をもち、かつ、ある意味、こうしたトリッキーさをご本人はこよなく楽しんでいるような大家の風情があります。

 しかも、ときにパッショネイト丸出しのように全力ドライブするかと思うと、一転、沈着冷静に深い懐で構えたりと変幻自在で一筋縄ではいきません。その意外性こそ、この晦渋なる精神を吐露する第3番でのクナッパーツブッシュの面目躍如といえるでしょう。

[2013年8月10日]

SINFONIE 3 D-MOLL 第3番 バイエルン国立歌劇場管 1954年10月11日 ミュンヘン Orfeo D’Or C576021DR

第3番の初演は、悲惨な失敗でブルックナーは奈落の底におとされたような敗北感をあじわうこととなりますが、その第3番を自信をもって繰り返し取り上げたのがクナッパーツブッシュです。

本ORFEO盤はその魅力を見事に引き出してくれています。モノラルながら1954年の録音とは思えない鮮度です。同年にはウィーン・フィルを振った音源もありますが、双方ともに気力充実し、「どうだ、この曲の素晴らしさは!」といわんばかりの迫力です。

クナッパーツブッシュの第3番はすべて、1889~90年のSchalk-Loewe edition(シャルク改訂版、一部ではシャルク「改竄版」と酷評されるもの)ですが、その後の峩々たるブルックナー・ワールドへの登攀にあたって、さしたる瑕疵とは思えない魂魄の演奏です。

[2016年12月31日]

なお、第3番では、ライヴ演奏で、VPO盤(1960年2月14日、ムジークフェライン大ホール)やミュンヘン・フィル盤(1964年1月16日)もあります。

【第4番】

ブルックナー:交響曲第4番 第4番 BPO 1944年9月8日 バーデンバーデン(放送用) DLCA-7013

 蚊のなくようなか細いイントロからいかにも録音は貧しいのですが、無意識に補正して聴けば、演奏は実に立派なものです。なにより表題のとおり、全篇クナッパーツブッシュ流の「ロマンティック」な雰囲気に包まれています。

第1楽章アッチェレランドのかけ方は絶妙です。第2楽章は比較的遅いイン・テンポ気味で静謐なヴァイオリンの響きが心地よいです。主題の展開が低弦から次第に管楽器に移るにつれ音色は次第に明るくなり音量も自然に増していきます。後半の印象的なピチカート部分もキチッとした端正な処理です。このあたりの差配の上手さは格別なものです。第3楽章、冒頭の金管からリズムの振幅が増して、弦楽器の表情が豊かになります。第4楽章、冒頭からふたたびアッチェレランドを強調、弦楽器の陰影はさらに深くなりオーケストラが音楽に没入しているさまがはっきりと看取できます。微妙なニュアンス付けとともに緊張感を醸成し、極めて迫力あるエンディングを迎えます。レーヴェ改訂版(ノヴァーク版は1953年以降)であること、ライヴゆえの細かなミスも気になるかも知れませんが、全体を俯瞰すればまぎれもなく秀逸な名演です。

[2016年1月25日]

Symphony 4 Romantic: Revised Version 第4番 VPO 1955年4月 ウィーン楽友協会大ホール Testament SBT1340

前記のとおりレーヴェ改訂版というオリジナル重視派にとっては、批判すべきバージョンによる演奏でしょう。また、最近の優れた録音に慣れたリスナーにとっては、壁1枚隔てて聴いているような、いわれぬもどかしさが部分的にあるかも知れません。

しかし、以上の要素を考慮したとしても、この第4番は名演です。どの版を採用するか以前に、作曲者への共感がどれくらいあるかが根本的に重要でしょうし、レーヴェもシャルクもブルックナーの忠実な使徒でした。「師匠」の音楽をなんとか多くの聴衆にわかってもらいたいと念じて奔走しました。そうした改訂者の思いを全て「込み」で受けて、クナッパーツブッシュが指揮台に立ったとしたら・・・。

そうしたことを想起して本盤を聴かれたら、まずは素朴な演奏と思われるのではないでしょうか。テンポは遅く、メロディはとても美しく(特に弦楽器のふくよかな音の響きはウィーン・フィルならではのものです)、曲の組み立てのスケールは大きく、蕩々と音楽が奏でられます。想像の世界ですが、古き良きウィーンの息吹が底流に脈々と流れてくるような駘蕩とした感があります。多少の音の荒さは無視して、少しだけ音量を上げて補正すれば、指揮者もオーケストラもブルックナーに深く没入している様が伝わってきます。

[2012年4月30日]

第4番では、ほかにVPO盤(1964年4月12日)もあります。非常に遅い運行でいたるところにクナッパーツブッシュ流の手が入っており、ライヴならではの自由な解釈が特色です。クナッパーツブッシュのファンには晩年の姿を知ることができ興味があるでしょうが、全体としての格調からは正規盤の折り目正しさを選択すべきかと思います。

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 VPO 1956年6月 ウィーン ゾフィエンザール Decca UCCD-9634

1956年の古さながら、セッション録音でクナッパーツブッシュのライヴラリーのなかでは音質は比較的良好です。第1楽章冒頭から気力漲り、壮大な構えを誇り、第5番ではヨッフムと双璧の名演です。音楽の“うねり”の満ち引きが自然で、その反復が次第に高揚感を誘っていきます。第2楽章は録音のせいか、ピチカートがやや強調されていますが、オーボエによる印象的な主要主題の提示から、その展開にはべたつく感傷はなく、すっきりとした均整のとれた演奏です。

ブルックナーの交響曲では抑揚感というか、ダンスのステップを踏むような軽快さが心地よく気持ちを盛り上げてくれるスケルツォも楽しみの一つです。第3楽章のモルト・ヴィヴァーチェは早いテンポのなか、畳み込むようなリズム感にあふれ、かつ特有の明るい和声が身上ですが、ここでクナッパーツブッシュ/ウィーン・フィルはなんとも見事な名人芸を披露してくれます。

 第4楽章はシャルクの手が大幅に入り、原典版に比して100小節以上のカットがあるといわれますが、峨々とした峡谷をいく流量の多い大河の流れにも似たクナッパーツブッシュの運行では、そうした割愛の不自然さをあまり意識させません。あるいは、自分がこの演奏に慣れすぎているせいかも知れませんが、これはこれで納得し良いと思ってしまいます。そこも大家の腕かも知れません。

[2008年11月12日]

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 ミュンヘン・フィル 1959年3月19日  DLCA-7012

上記ウィーン・フィルとの1956年盤同様、このミュンヘン・フィルのライヴ演奏も基本線は変わりません。シャルク改訂版であることも同様ですし最近の優れた録音に慣れた耳には1959年の録音の古式蒼然さは覚悟せねばならないでしょう。

しかしながら、クナッパーツブッシュの、ときに大胆にして奔放、その反面、全体としてみれば直情的にみえて実は緻密な解釈は、聴くたびに驚きに満ちています。第5番は演奏者にとって難曲であり、弛みなく最後まで聴衆を引っ張っていくためには、並々なる技量がいると思います。

この演奏の凄さは、そんな懸念は毛ほども感じさせず、強靭なるブルックナー・ワールドを見事に描いていることです。第1、第2楽章では大翼を広げたような構え、後半にいたって第3楽章のモルト・ヴィヴァーチェは1956年盤同様のリズミックさ、そして終楽章は、一部クナッパーツブッシュ流のスパイスの利かせ方が気になるかも知れませんが、目眩くスリリングさと圧倒感があります。

[2015年12月14日]

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番 第7番  VPO 1949年8月30日 ザルツブルク音楽祭 Orfeo D’Or  C655061DR

ザルツブルク音楽祭でのライヴ録音です。雑音こそすくないものの、収録音域がせまく第4楽章のフィナーレなどもっとよい録音で聴ければなあとの感じをいだきます。しかし、演奏そのものの質は高く一聴に値するものです。

第1楽章、冒頭の短い“原始霧”から第3主題までの長い呈示部で、クナッパーツブッシュは、まるで自然にハミングするように朗々と歌っていきます。その抒情性は優しく、豊かな詠奏は、第2楽章 アダージョのいわゆる“ワーグナーのための葬送”で頂点をむかえ静かな感動を醸成します。

第3楽章のスケルツォは、力感があり明るい曲想に転じますが、この変わり舞台を見るかのような明暗のコントラストのつけ方こそクナッパーツブッシュの自在の技という気がします。第4楽章、コラールふうの旋律で、ふたたび弦のハミングは厚みをもって再開され、いっそうの感情表出ののち、速度を落としてのコーダからブルックナーにしては短い終結部までは、ある意味、すっきりとした運行です。録音の制約からあくまで直観ながら、ライヴ演奏であり、クナッパーツブッシュは、ここではウィーン・フィルらしい柔かく豊かな響きを存分に生かしているのではないかとの想像がはたらきます。

[2012年10月2日]

第7番では、ほかにケルン放送響盤(収録:1963年5月10日)もあります。 

【第8番】

ブルックナー:交響曲第8番 第8番 ミュンヘン・フィル 1963年1月 PROC-1639

 

クナッパーツブッシュのブルックナーはその種類も多く、演奏、録音ともに良いとなると慎重なチョイスが必要な場合もありますが、ミュンヘン・フィルとの第8番は素晴らしいものです(ライヴ盤もありますが本盤はスタジオ録音で音質は比較的良いと思います)。

 クナッパーツブッシュは練習嫌いで有名、逸話を読むと特に気心のしれたオーケストラではあえて斜に構えてそうしていたふしもあるようです。これはうがった見方ですが1回の演奏への集中度、燃焼度を高めるうえでの「方法論」といった視点もあるのではないでしょうか。深くえぐり取られるような音の「沈降」と一気に上昇気流に乗るような音の「飛翔」のダイナミクスの大きさは他ではなかなか聴けません。かつ、音が過度に重くならずスカッとした聴後感があります。音楽の設計スケールの大きさが「桁違い」で、こういう演奏をする人にこそ巨匠(ヴィルトゥオーソ)性があるというのでしょう。

 本曲では長大な第3楽章のアダージョ(モーツァルトの交響曲1曲分がすっぽりと入る長さ!)こそ、演奏の質を決めると思っています。この点でもベートーヴェンの第9番を連想させますが、クナッパーツブッシュの凄さは、この第3楽章を滔々と流しながら、しかし、いかに遅くとも失速感がなく、一方で過度な緊張もしいず、飽きさせずに自然に響かせることにあります。

 そこから浮かび上がるのは、なんと良き音楽なのだろうという、作品自身に対する深い満足感です。技術的には、連音符の繰り返しが慎重かつ巧みに処理され、同種テーマの再現でも、局面によって全て表情が違い、肌理の細かい配慮がなされています。その細部にいたるまでの表情の多様性が、即興的に響くからこそ、新鮮な魅力をたたえているのだと思います。桁違いの音楽スケールという点もさることながら、もう一つの隠れた技法を、この第3楽章にみる思いです。

[2006年5月14日]

Bruckner: Symphony No.8 第8番 BPO 1951年1月7~8日 イエス・キリスト教会 ベルリン Archipel ARPCD36

 

1963年のミュンヘン・フィルとのスタジオ録音およびライヴ演奏があまりにも有名で、かつ録音時点も本盤は古いことから一般にはあまり注目されませんが、ベルリン・フィルを振った本盤(1892年改訂版)も素晴らしい演奏です。 

 クナッパーツブッシュの魅力は、うまく表現できませんが、独特の「節まわし」とでもいうべきところにあるのではないかとも感じます。特に変調するときの大きなうねりに似たリズムの刻み方などに彼特有のアクセントがあるような気がします。それがいまはあまり演奏されない「改訂版」の採択と相まって、通常の演奏とかなり異なった印象をあたえる一因になっていると思います。 

 ベルリン・フィルの演奏は今日の精密機械のような機能主義的ではなく、もっとプロ・ドイツ的な古式の響きを感じさせますが、しっかりと第8番の「重さ」を受け止めて質感あるブルックナー像を浮かび上がらせています。

[2013年8月10日]

SINFONIE 8 C-MOLL 第8番 バイエルン国立歌劇場管 1955年12月5日 Orfeo D’Or C577021DR

未完に終わった第9番の演奏では終楽章をどうこなすかは至難ですが、第8番の長丁場と最後の第4楽章の大団円をどう乗り切るかも指揮者にとって大きな試金石でしょう。厳密な解釈と丁寧な処理があたりまえになっている最近の録音に接して好ましいと思う一方、いにしえの録音の強烈な感動とは違うなあと感じることも多い昨今です。

この曲はクールヘッド一辺倒な演奏だけでは不足で、一種の「天啓」が必要な気がします。それは、ブルックナーの全交響曲やミサ曲にも通じますが、音楽の神様の降臨の瞬間があるかどうか(リスナーにかかる感興を想像させうるかどうか)が決め手であると思います。

クナッパーツブッシュはフルトヴェングラーとともに、そうした降臨をしばしば呼びこむことができる法力をもった指揮者であり、第8番の第3楽章や終楽章のここぞというフレーズでそのカタルシスが出現するかどうかはリスナーの密やかな期待です。

Orfeo レーベルの本盤は、音質補正はされていますが、原盤の集音そのものに問題があり、一般には前述の1963年のミュンヘン・フィルとのスタジオ録音およびライヴ演奏を選択すべきと思います。しかし、ライヴ独特のクナッパーツブッシュ節の魅力は得がたく、「天啓」を感じる瞬間ももちろんあります。多くの音源のある彼の第8番ですが、聴き比べたい選択肢のひとつであることに変わりはありません。

[2016年1月11日]

【第9番】

Bruckner: Symphony No.9 第9番 BPO 1950年1月28日 ティタニア・パラスト ベルリン Archipel  ARPCD34

 

第1楽章“荘重かつ神秘的に”(Feierlich, misterioso)とはこうした解釈によって可能となるのか、といった逆説的な思いを抱くくらい強い説得力があります。不安定な調性、半音階の多用などの手法でリスナーに安寧をなかなか与えない原曲のもつ斬新さが、明確かつ強烈なサウンドによってより倍加されます。ベルリン・フィルの色調は暗く、重く、しかも弦楽器の音色は独特のくすみのなかに深い哀切さがあります。まさに作曲家の指示どおり一切の曖昧さなく“荘重かつ神秘的に”運行されます。

第2楽章はいかにもクナッパーツブッシュ的な、ダンスをするような軽やかなステップ感に満ち音楽がときに跳躍します。色調が明るく変化し、聴かせどころの強烈なトゥッティは迫力がありますが、むしろ全体のリズムの見事な生かし方とメロディアスな部分の豊かな表情こそ重視されているようです。

 第3楽章は、原典版にくらべてかなり改変がありますが、各種のクナッパーツブッシュ盤に親しんできたリスナーには、最後の部分を除いては突然の違和感は少ないでしょう。ワーグナーチューバを用いた荘厳なコラール風の主題の部分ではオーケストラが集中し一つになり、存分に歌っています。

クナッパーツブッシュの解釈は、全体を通して、悲壮さよりも強靭な精神を感じさせ、ブルックナーの最後の交響曲のもつ斬新さをより抽出せんとしているようです。しかも、それは作曲家への心からの共感と熱い思いからでているとリスナーに感じさせます。なればこそブルックナー好きには胸打つ演奏です。

[2018年11月24日]

なお、第9番では、本盤収録の2日後、 ティタニア・パラストのライヴのほか、1958年のバイエルン国立管とのOrfeo音源もあります。

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ブルックナー・コラム Ⅱ

<作曲家シリーズ> ヨハン・シュトラウス   クナッパーツブッシュは、ヨハン・シュトラウスも実は得意の演目で、ワルツ『バーデン娘』がいわば出囃子のようなものでした。そのヨハン・シュトラウスはブルックナーとも浅からぬ関係がありました。シュトラウス一族の音楽の魅力には、ワーグナーもブラームスも、そしてブルックナーも強い共感をもっていました。  心浮き立つとはこのことで、3人の「重い」音楽を聴いたあとで、シュトラウスの音楽に接すると、フルコースのディナーのあとのシャンパン・ベースのシャーベットを味わうような気がします。ご婦人とのダンス好きだったブルックナーは、それでなくともシュトラウスの洒脱で軽快な音楽には実生活でも随分とお世話になったのではないでしょうか。  ワルツ王ヨハン・シュトラウス(Ⅱ世)とブルックナーは同時代人であり、二人ともウィーンで活動しました。しかし、両人の人生航路は大きく異なります。  ヨハン・シュトラウスは1825年、ウィーンの下町生まれ。ブルックナー出生の翌年です。父(Ⅰ世)の影響もあってか、彼は早熟で6歳で最初のワルツを書いたといわれます。ウィーンの名門の子弟が通うショッテン・ギムナジウムで学び本格的な音楽教育を受けたのち、1845年に自らの楽団を結成してヒーツィングの「カジノ・ドムマイヤー」でダンス音楽家としてデビューします。ほぼ二十才で世にでることになりますが、ダブルスコアの40才をこえて交響曲を作曲しはじめたブルックナーとはいかにも対照的です。  1849年、父の楽団を受け継ぎ、1852年には初めて宮廷で演奏、1862年、銀行家の愛人で元歌手のイェッティ・トレフツと結婚、翌年には念願の宮廷舞踏会音楽監督の称号を与えられ、早くから社会的な成功者でした。結婚に憧れながらも失恋の連続で生涯独身のブルックナーに対して、シュトラウスは若き日から浮名を流し多くの恋と生涯数度の結婚を経験しています。  1867年、ワルツ『美しく青きドナウ』を作曲、1874年には4作目のオペレッタ『こうもり』がアン・デア・ウィーン劇場で初演され、空前の大成功を収めます。一方、ブルックナーは1868年にウィーンに移り、73年に自らの指揮、ウィーン・フィルの演奏で第2シンフォニーを初演し成功します。しかし、翌年は、ウィーン大学に求職するも失敗するなど、この年はさぞや辛い年だったことでしょう。  シュトラウスは1872年には渡米、ボストンの平和祭に出演し、モンスター・コンサートで『美しく青きドナウ』を指揮するなど活動の場を新大陸に広げます。その後、宮廷歌劇場への本格進出こそうまく行きませんでしたが、1894年には、シュトラウス2世のデビュー50周年記念イベントも大々的に行われ、ほぼ順風満帆な人生を歩みます。また、ブラームスは親しい友であったようです。1899年73歳で死去。遺体はウィーンの中央墓地に埋葬され、彼の死は世界中で報じられたとのことです。ブルックナーは生涯の活動圏が狭く、晩年は地位も得、生活は安定しますが1896年に逝去、遺体は聖フローリアンの大オルガンの下の地下納骨所に眠ります。  シュトラウスが当時ウィーンの寵児だったとすれば、ブルックナーにも熱狂的な信奉者はいたものの、こちらはなかなか理解されなかった異端児でした。しかし、ともにウィーンの同じ時代に生き共通する部分もあります。ワルツの源流は前世紀、ボヘミア、バヴァリア、チロルというウィーンを囲む3つの地方に生まれた民族舞曲にあるといわれますが、村々の宿場や酒場の楽団でも大いに演じられたようです。ブルックナーも田舎で過ごした青年期、酒場の楽士アルバイトでこうしたフォークロアと接していたでしょう。ブルックナーの交響曲の牧歌的な旋律のなかにシュトラウスと通じる親しみやすいメロディを感じることがあります。  また、CDでの長いブルックナー体験にいささか疲れたあと、シュトラウスのポルカやワルツで気分転換するのも一興ですが、それに違和感がないのはたぶん小生だけではないと思います。もしかすると、当時のウィーンの音楽通もこうした感覚をもって二人の音楽を受容していたのでは…と勝手に連想することも楽しき哉、です。   <参考文献> ・團伊玖磨(1977)『オーケストラ』朝日新聞社 ・宝木範義(1991)『ウィーン物語』新潮社 ・森本哲郎(1992)『ウィーン』文藝春秋.
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第3章 ヨッフム(Eugen Jochum、1902~1987年)

ヨッフムの偉業はなんといっても先駆的に交響曲全集や多くの宗教曲集の録音を残してくれたことでしょう。しかも、彼がブルックナーの交響曲や宗教曲を体系的、系統的に録音しはじめた頃は、一般には今日のようにはブルックナーへの熱い視線は送っていなかったと思います。

ヨッフムのブルックナー録音について、以下、3期にわけて簡単な要約をつけてみました。2度の全集録音を主軸にその執念にも近いながき「修行」には正直、頭が下がる思いであり、自然に感謝の気持ちがおこってきます。

≪1930年代から第1回全集録音まで≫

ヨッフムの初出のブルックナー音源はやはりもっとも得意とする第5番でした。Aは1938年6月、ハンブルクでのスタジオ録音盤。次はBで1944年5月、ベルリンでの第3番ライヴ盤。1945年4月30日のベルリン陥落の約1年前です。1940年代最後、Cは第8番の1949年5月30日ヘッセン(フランクフルト)放送交響楽団とのライヴ盤です。

1950年代の録音ではD1の第5番が1958年に取り上げられています。これ以降、はじめての交響曲全集が1967年までほぼ10年にわたって続行されます。この間に、有名なEの第5番があります。1964年3月 オットーボイレン(ドイツ)でコンセルトヘボウ管弦楽団とのライヴ盤で、小生はいまだ第5番ではこれをもってもっとも感動的な演奏の一つと思っています。

A交響曲第5番 ハンブルク州立フィル 1938年6月

B交響曲第3番 ハンブルク州立歌劇場管1944年5月ライヴ

C交響曲第8番(ハース版)ヘッセン放送響 1949年5月30日ライヴ

【以下のD1~D9は第1回全集所収盤です】

D1交響曲第5番(ノヴァーク版1877/78年第2稿) バイエルン放送響 1958年2月8~15日

D2交響曲第8番(1890年稿ノヴァーク版) BPO 1964年1月

D3交響曲第7番(ノヴァーク版) BPO 1964年10月10日

D4交響曲第9番(ノヴァーク版) BPO 1964年12月5日

D5交響曲第4番(ノヴァーク版1878/80年第2稿) BPO 1965年6月22日~7月5日

D6交響曲第1番(ノヴァーク版1865/66年リンツ稿) BPO 1965年10月16~19日

D7交響曲第6番(ノヴァーク版1879/81年) バイエルン放送響 1966年7月1~3日

D8交響曲第2番(ノヴァーク版1877年第3稿) バイエルン放送響 1966年12月29日

D9交響曲第3番(ノヴァーク版1888/89年第3稿) バイエルン放送響 1967年1月8日

E交響曲 第5番(ハース版):コンセルトヘボウ管 1964年3月30、31日 オットーボイレン、ベネディクト修道院ライヴ

≪1970年代の第2回全集録音まで≫

1968年にヨッフムは、アムステルダム・コンセルトヘボウと来日しました。このライヴ演奏こそ、小生がはじめて聴いた外国オーケストラであり、その印象は忘れ得ないものですが、残念ながら演目はブルックナーではありませんでした。この時期、いまだブルックナーがコンサートで取り上げられるのは稀で、ブルックナーの泰斗、ヨッフムの存在もいまよりも地味な位置づけであったように記憶しています。

ヨッフムは1970年代を通じて2回目の全集録音を行います。オーケストラは、シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立管弦楽団)でした(I1~I9)。 この間、F、Gコンセルトヘボウ管弦楽団、Hスウェーデン放送交響楽団、Jベルリン・フィル(第9番)、Kミュンヘン・フィルとのライヴ音源が登場していますが、この時期は第4番、第7番を多く取り上げています。

F交響曲第7番(ノヴァーク版):コンセルトヘボウ管 1970年3月15日

G交響曲第4番 コンセルトヘボウ管 1975年1月16日ライヴ

H交響曲第4番 スウェーデン放送響 1975年2月23日ライヴ

<以下のI1~I9は2回目の全集所収盤;シュターツカペレ・ドレスデン/ルカ教会、ドレスデンにおいて>

I1交響曲 第4番  (ノヴァーク版1878/80年稿) 1975年12月1~7日

I2交響曲 第8番  (ノヴァーク版1890年稿) 1976年11月3~7 日

I3 交響曲 第7番   (ノヴァーク版) 1976年12月11~14日

I4交響曲 第3番  (ノヴァーク版1888-89年稿) 1977年1月22~27日

I5交響曲 第9番   (ノヴァーク版) 1978年1月13~16日

I6交響曲 第6番 (原典版) 1978年6月6~13日

I7交響曲 第1番 (ノヴァーク版1877年リンツ稿) 1978年12月11~15日

I8交響曲 第5番  (ノヴァーク版1878年) 1980年2月25日~3月3日

I9交響曲 第2番 (ノヴァーク版1877年稿) 1980年3月4~7日

J交響曲第9番    (ノヴァーク版) BPO 1977年11月28日(ライヴ)

K交響曲第7番    (ノヴァーク版) ミュンヘン・フィル、1979年11月8日ライヴ

≪晩年の1980年代≫

ヨッフムの晩年は、自在の境地にあったでしょうか。Lフランス国立管弦楽団、Mバンベルク交響楽団、Nミュンヘン・フィル、O、P、Qコンセルトヘボウとライヴ録音が残されています。ベームの晩年同様、日本でも人気が発火してブルックナーの貴重なライヴ盤が残されました。白熱の演奏で、老いを感じるよりも、その熱意に心動かさます。また、カラヤンの晩年同様、ブルックナーでは後期の作品が残されています。しかし、現存盤での白鳥の歌は、48年前に初録音した同じ第5番です。第5番に始まり終わる、ヨッフムのブルックナー行脚でした。

なお、日本での第5番の初演は、1962年4月18日大阪フェスティバルホールにて、ヨッフム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管によって行われました。

L交響曲第7番 フランス国立管 1980年2月8日

M交響曲第8番 バンベルク響 1982年9月15日、NHKホール(ライヴ)

N交響曲第9番 ミュンヘン・フィル 1983年7月20日

O交響曲第8番 (ノヴァーク版1890年稿)コンセルトヘボウ管 1984年9月26日

P交響曲第7番 コンセルトヘボウ管 1986年9月17日(ライヴ)、昭和女子大人見記念講堂

Q交響曲第5番(ノヴァーク版1878年):コンセルトヘボウ管 1986年12月4日、アムステルダム、コンセルトヘボウ(ライヴ)

 以上、見てきたとおり、ヨッフムが第1回の交響曲全集を完成させたのは1966年ですが、その後に続く代表的な指揮者の全集をいくつか拾ってみると、ハイティンク/コンセルトヘボウ(63~72年)、朝比奈隆/大阪フィル(75~78年)、マズア/ゲバントハウス管(74~78年)、バレンボイム/シカゴ響(72~80年)、ヴァント/ケルン放送響(74~81年)、カラヤン/ベルリン・フィル(74~81年)となりますが、この時にはヨッフムは2度目の本全集をシュターツカペレ・ドレスデンと収録済みですから驚きです。

 後期3曲を中心にブルックナーの交響曲演奏を定着させたのは、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、ワルター、クレンペラーらの先人ですが、第1~3番や第5番、そして宗教曲集などの素晴らしさを一般に教えてくれたのはヨッフムの飽くなき挑戦あればこそと思います。

【第1番】

ブルックナー:交響曲第1番(1877年リンツ版、ノーヴァク編)  第1番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年12月11~15日 WPCS-13468

1877年リンツ稿ノヴァーク版による演奏です。第1楽章はいかにも初期らしい素朴さや生硬さもそのままに「地」を生かした演奏です。第2楽章では中間部の魅力的なメロディは抒情的に歌い込んでおり、清廉なるメロディの創造者としてのブルックナー像が浮かび上がります。後半2楽章は快速さが身上で、小刻みなアッチェレランドを使用し、九十九折りのように上昇する旋律と一転畳み込むように下方する旋律もアクセントをもって展開されます。ここでは、素朴さよりも劇的な表現の萌芽を存分に拡張してみせるような演奏です。ブルックナー楽曲のもつ特色を細部まで考えぬき、さまざまに引き出そうとするヨッフムの演奏には特有の熱っぽさがあり、それがファンにはたまらない魅力です。

[2016年12月27日]

【第3番】

ブルックナー:交響曲第3番「ワーグナー」(1889年版 ノーヴァク編)  第3番 シュターツカペレ・ドレスデン 1977年1月22~27日 WPCS-13470

1888-89年稿ノヴァーク版による演奏です。第3番は取り上げが難しい曲で、これぞ名演というのは些少です。新旧ヨッフム盤(本演奏は新盤)は、そうしたなかでクナッパーツブッシュ、ベーム盤とともに最右翼でしょう。

ブルックナーの全交響曲に共通し、特に本曲や第6番では“途切れぬ緊張感”が肝要です。強奏部は勢いで自然に乗り越えられるでしょうが、第2楽章アダージョなどを典型に、繰り返しが多く、弱音が長くつづくフレーズこそ、真価が問われるところです。固い信頼感に支えられたコンビ、ヨッフム&シュターツカペレ・ドレスデンはどこパートでも全く“ダレ”がなく筋肉質の響きを奏でています。その一方、第1楽章終結部や第3楽章スケルツォなど、ここぞという場面での歯切れが良く“メリハリ”をはっきりとつけています。終楽章の迫力も申し分ありません。本曲成功のもうひとつの隠された要因は、シュターツカペレ・ドレスデンの分厚い低弦と輝かしい木管・金管の技量の高さです。管楽器群の折々の思い切った吹奏は実に効果的です。

[2019年1月14日]

【第4番】

ブルックナー:交響曲第4番 第4番  BPO 1965年6月  UCCG-5044

ノヴァーク版1878/80年第2稿による演奏です。ヨッフムの演奏は弦楽器の音色が幾分ほの明るく、しかも透明度の高いところに特色があります。その弦の響かせ方に南ドイツ的な軽妙なニュアンスがあると評する人もいますが、水の流れにたとえると、緑陰からさす木漏れ日を少しく浴びた清流のような感じです。
 例えば第2楽章では通奏の「流れ」にブルックナーらしいピチカートがリズムを刻みますが、これは(いかにも日本的な比喩ですが)渓流で鮎が水面から水飛沫をとばしてはねているような印象を受けます。瑞々しく清潔感のある調べです。
 その一方、第3楽章のトッティではピシッと整った強奏で迫ってきます。そうした緩急のつけ方がブルックナーの音楽の呼吸と見事に合います。第4楽章のフィナーレへの道程も、反復繰り返しのなかで徐々にエネルギーが充電され、これが最後に一気に放出されるように感じます。
 こうしたヨッフムの演奏の特色はこの第4番に限らず、どのブルックナーの演奏にも共通しますが、縦横にすぐれた大家の技量だと思います。

[2006年12月17日]

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 バイエルン放送響 1958年2月8~15日  UCCG-3995

ノヴァーク版1877/78年第2稿による演奏です。ブルックナーファンの座右の本に『音楽の手帖/ブルックナー』(1981年青土社刊)があります。ここでヨッフムは第5番(ノヴァーク版)の解釈について蘊蓄をかたむけています。分析的な解釈と確固たる信念に基づく演奏―第5番は特にヨッフムが得意としていた演目です。派手さはないかも知れません。また、大向こうを唸らせるような所作とも無縁ですが、正統性(オーソドキシイ)とでもいうべき品格がこの盤にはあります。新しい演奏がどんどんリリースされるなかにあって、この1枚の歴史的な価値は決して減じることはないと思います。

[2006年5月5日]

ブルックナー:交響曲第5番(ノーヴァク編) 第5番  シュターツカペレ・ドレスデン 1980年2月25-3月3日  WPCS-13472

第5番(ノヴァーク版1878年)はヨッフムの手中の玉です。この曲は第3番ほどではありませんが聴かせどころが難しく、ブルックナー交響曲中でも他番にくらべて録音は多くありません。一方、ヨッフムには本曲について実に多彩な音源がありますが、なによりリスナーから多くの支持をえているからでしょう。

本盤は、残響豊かなドレスデン、ルカ教会での収録です。ほかにも前述の1958年のバイエルン放送響や64年Ottobreuren Abbeyでのライヴ盤(コンセルトヘボウの滋味がありながら透明度の高い弦楽器の音色が、録音会場の教会に残響豊かに満ちていく快感を味わえます)などもありますが、その基本線はまったく変わりません。

全体はがっしりとした構えながら、コラール風の安寧に満ちたメロディが随所に繰り返され、それが徐々に力を漲らせながら頂点に向かっていくこの曲を手練れの技で聴かせます。これこそブルックナーの魅力の表出といわんばかりの自信に満ちたアプローチです。

[2016年12月22日]

【第6番】

ブルックナー:交響曲第6番(ノーヴァク編) 第6番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年6月6~13日  WPCS-13473

第6番は後期3曲に比べて、演奏および録音機会が少なく、したがって代表盤の選択が難しいですが、小生は、レーグナー、カイルベルト、ヴァントなどとともに新旧ヨッフム盤を好みます。

第6番(原典版)の第2楽章アダージョは、あたかも葬送行進曲のような言いしれぬ悲しみと清浄さを求めて天空にのぼっていくような感覚をあわせもっています。至難の表現力が要求され、それがゆえに他番を取り上げる指揮者も躊躇するのかも知れません。

ヨッフム&シュターツカペレ・ドレスデンには迷いがありません。ヨッフムのブルックナー解釈は、“交響曲全曲”(あるいは宗教曲も含め)がひとつの壮大なドラマで、各曲はその構成要素であるといった位置づけにあるように思います。均一な表現であり、安定性抜群です。

第5番をもっとも得意とし、第7番も名演の誉れ高いヨッフムゆえに、その第6番が劣るわけはありません。それはバイエルン放送響を振った旧盤の全集でも、コンセルトヘボウとの1980年11月のライヴ盤でも基本は変わるところはありません。終楽章は静謐さと交錯し、終結部はテンポを上げて、激しき瀑布を連想させるような“凄演”です。

[2019年1月14日]

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番 第7番 シュターツカペレ・ドレスデン1976年12月11-14日  WPCS-13474

第1楽章冒頭の“原始霧”といわれる微かな弦のトレモロについて、第7番では他のシンフォニー以上に慎重な処理が必要なことをヨッフムは指摘していますが、その絶妙な出だしから緊張感あふれる演奏(ノヴァーク版)です。

また、この第7番は全体の「頂点」が第2楽章にあり、後半は下降線をたどるという解釈にそって、第2楽章アダージョでは特に内省的な求心力のある演奏となっており、シンバルとティンパニーの強奏による「頂点」を形成したあとは諦観的なエピローグによって締めくくられます。全般にとても端整な音楽づくりにヨッフムは心を砕いており、それがリスナーの自発的な集中力を高める結果となっていると思います。

第7番は比較的異稿問題が少なくブルックナーの「地」の姿が素直にでていると言われますが、この演奏を聴いていると、本来のオルガン演奏が管弦楽団に極力代替され、チェロなどの中声部は人声の合唱にちかい微妙な表情すらもっているようにも感じられます。特に、後半の2楽章では、金管の使い方が過不足ないようにセーブされており、またテンポも大きく動かさないことから、劇的な演出に慣れたリスナーには、物足りなさを感じるかも知れません。しかし、これが作曲家の意図をあくまでもくみとろうとする解釈なのだと思って神経をそばだてると、瑞々しい感性、静寂の深さに別の感動が湧いてくると思います。じっくりとブルックナーに親しみたいリスナー向けの1枚でしょう。

[2017年3月30日]

【第8番】

ブルックナー:交響曲第8番(紙ジャケット仕様) 第8番 BPO 1964年1月  UCGG-9097

1964年1月、ヨッフム/ベルリン・フィルによる強烈な第8番(1890年稿ノヴァーク版)です。録音もこの時代とは思えないくらいクリアです。ベルリン・フィルでは1949年3月のフルトヴェングラー盤、1951年1月のクナッパーツブッシュ盤、1957年5月のカラヤン盤といった先行録音があります。
 ヨッフムにおいても、第8番の初出としてはやくも1949年ハンブルク州立フィル盤を廉価で聴くことができます(音は悪いですが実に良き演奏です)。以上どれも感動を呼ぶ名演で、甲乙はつけがたいながら、ヨッフム盤はいまも1960年代を代表する優れた録音であることは動きません。
 ヨッフムは先行成果を十分意識してしたと思います。表情のつけ方が後年に比べて、かなり濃厚であり、遅い第3楽章では先人のアプローチとの共有点も見いだします。
 しかし、彼はすでにブルックナー指揮者として自信と使命感をもっていました。第7番とのベルリン・フィルとの共演では先行して1952年盤があり、かつ第1回全集で、ドイツ・グラモフォンは主要な交響曲第7~9番(1964年)、第1番、第4番(1965年)を、ヨッフム/ベルリン・フィルで世に送り、これはいまも広く聴かれています。
 ブルックナーの弱音部の美しきハーモニーは、この演奏ではいわば“封印”されており、諦観的な部分は宗教的なものを感じさせ、一方、炸裂する音響では、重畳的な音の迫力と、ときに強烈なパッションが剥きだしに前面に出ています。より複雑で精妙な表現を求めたいのなら後年の多くの録音に委ねるとして、当時のヨッフムの気概をこの第8番で追体験するのも悪くありません。ベルリン・フィルの全開の音、これまた圧巻です。

[2019年1月14日]


【第9番】

ブルックナー:交響曲第9番(ノーヴァク編) 第9番   シュターツカペレ・ドレスデン1978年1月13~16日  WPCS-13476

ヨッフムの第9番は、バイエルン放送響(1954年11月)、ベルリン・フィル(1964年)、ベルリン放送響(1984年3月25日)の各録音がありますが、本盤(ノヴァーク版)は、シュターツカペレ・ドレスデン(1978年)を振り「公式」録音では3度目にあたります。
 第1楽章の迫力には凄さがあります。ヨッフム75歳ながら、枯れた要素などは微塵もありません。競(せ)っているような少し前のめりの感があり、次から次に畳み込むような強奏がつづき、第1楽章に全体の頂点を形成することを明らかに意図しているような意欲的な演奏です。第2楽章のスケルツォも、これと連続し速度ははやくリズムの切れ味は鋭いです。一気に駆け抜けるような文字通りの「快走」です。
 一転、第3楽章に入ると大胆に減速し、フレーズは滔々と伸ばし、じっくりとメロディを奏でていきます。色調も明から仄かに翳りをもちブルックナー交響曲群全体の「終章」的な重みを持たせているように感じます。第3楽章も強奏は緩めませんが、ダイナミズムの振幅は次第に狭まり、その一方で音の透明度は維持されつつも感情表出の濃度がましていきます。
 この曲のもつ演奏スタイルはかくあるべしと言わんばかりの説得力です。考えぬかれ、それをあますところなく表現したヨッフムらしい名演です。

[2018年1月6日]
 

【初期録音集】

EUGEN JOCHUM/ THE LEGENDARY EARLY RECORDINGS

まず、取り上げるのは初期の録音集であるEUGEN JOCHUM/ THE LEGENDARY EARLY RECORDINGS です。これは、「ブルックナー演奏史」からみた貴重な記録です。

ヨッフムには、前述のように2つのブルックナー交響曲全集があります。ヨッフムはブルックナー演奏の押しも押されもせぬ泰斗ですが、本集はさらに遡って、1930年代から50年代の非常に古い音源を収録しています。一般には録音状態の良い上記の全集がお奨めですが、「ブルックナー演奏史」から、ヨッフムの貴重な過去の記録を聴きたい向きにはよいでしょう。

<収録情報>

・交響曲第4番 ハンブルク国立フィル(1940年)

・交響曲第5番 ハンブルク国立フィル(1938年)

・交響曲第7番 ウィーン・フィル(1939年)

・交響曲第8番(ハース版)  ハンブルク国立フィル(1949年)

・交響曲第9番(ノヴァーク版)  バイエルン放送響(1955年)

・「テ・デウム」アンネリース・クッパー(Sop)、ルート・ジーヴェルト(Alt)、ロレンツ・フェーエンベルガー(Ten)、キム・ボルイ(Br)、バイエルン放送合唱団、バイエルン放送響(1954年ライヴ)

[2018年7月1日]

  

【宗教曲集】

ブルックナー:ミサ曲第1番

次に、宗教録音集です。ここでは、ヨッフムのブルックナーへの深い共感があふれています。

 ミサ曲(第1番)ニ短調とミサ曲(第3番)ヘ短調は、いずれも≪4人の独唱と混声4部、オケとオルガン≫により、一方、ミサ曲(第2番)ホ短調は、≪混声8部と管楽≫によります。第1番の独唱では、エディット・マティス(S)、カール・リーダーブッシュ(B)、また第3番ではエルンスト・ヘフリガー(T)など当時の第一級の歌い手が登壇しており、メンバーの質の高さが第一に特筆されるでしょう。

 ヨッフムの解釈は、おそらく敬虔なミサ曲を扱う配慮は忘れないながら、むしろポリフォニックな構築力をより強く感じさせます。緊張感と迫力に富み作品に内在する熱く強いパッションを前面に押し出して聴き手を圧倒します。これが次に指摘すべき点です。

 第2番に顕著ですが、厳しい合唱の統率力ゆえか、混声が完全に融合しひとつの統一された「音の束」のように響いてきます。その統一感が規律を旨とするミサ曲の緊張感を否応なく醸成する一方、管楽器のみの伴奏が効果的にこれと掛け合い、合唱の美しさとダイナミズムに見事なアクセントを付けています。

 テ・デウムを別格とし、1864~68年にかけて集中的に作曲されたブルックナーの宗教曲の最高傑作の3曲を続けて聴くと、これらの作品の音楽的な連続性にも思いはいたります。宗教曲はいつも聴くわけではありませんが、ブルックナーを愛するリスナーにとって、ときに深夜、光も音量も落として、交響曲以外のもうひとつのブルックナーの世界に浸るもよし。ヨッフム会心のこの作品集は、その際の最高の贈り物であるといえましょう。
[2006年6月18日]

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ブルックナー・コラム Ⅲ

森のなかのブルックナー   ブルックナーはオーストリアの郡部地方の出身です。壮年から晩年までを過ごした当時の帝都ウィーンでの都市生活には馴染めなかったようです。いくども当時の固陋かつ老獪なウィーン音楽界で辛酸な苦労をなめつつ、ときに生まれ育った大自然の懐にいだかれ、心の傷やみずから制御が難しい緊張感をいやしてきました。朝比奈隆氏がブルックナーを「田舎の坊さん」と呼んだのは至言でしょう。   ディーター・ケルナー『大音楽家の病歴ー秘められた伝記 2』(音楽之友社)を読むと、彼の神経衰弱は加齢ともにひどくなっていったようですが、温泉への転地療法、自然へ接触するための山歩きや日頃の散歩は彼にとって、精神の安定をたもつうえで必須の日課でもあったともいえましょう。 彼の作品には、ときに大河の流れのような滔々たるスケール感、雷の戦慄き(わななき)にも似た切迫感、小鳥の囀り(さえずり)を連想させる心和む旋律などがありますが、これらの曲想の閃きをそうした大自然との接触からえていたとの記述は彼のエピソードのなかにもみてとれます。   メビウスの帯(Möbius strip)のように<はじめ>と<おわり>が結節し、またどこが表で裏かの区別がない特質はブルックナーの音楽に通じるものがあるように思います。この<無限循環性>からは、さまざまなことが連想されます。たとえば、有限、一個の人間にたいして、四季の移ろい、大自然のもつ包容力、さらには宇宙の神秘にいたるまで永劫なるものへの想像力をかきたてます。 はじめからこうした事象を意図的に描こうとする「標題音楽」とはことなりますが、ブルックナーの音楽そのものが、宇宙、山脈、大渓谷、大河などの大自然のなかで呼吸しているような感じをもっているのは、彼一個がいつもそうした風景のなかに溶け込んでいたいゆえではないでしょうか。ドイツ、オーストリアの人びとにとって森は特別な存在です。まずは、ブルックナーの故郷の森について見てみましょう(以下オーストリア観光局HPからの引用)。   「オーバーエステライヒ州の州都リンツは人口20万余、ウィーン、グラーツに次ぐ第三の都市で、オーストリア最大の工業都市であると同時に、古い伝統文化の遺産にも恵まれています。  ケルト人の集落、古代ローマの砦を経て、河川交易で栄え、宗教改革の時代にはケプラーがここで天文観測に従事、モーツァルトはリンツ交響曲を作曲しています。更に、ブルックナーはリンツ南部のアンスフェルデンに生まれ、オーストリアを代表する作家のひとり。アーダルベルト・シュティフターはこの街に住み、晩年の大作『晩夏』や『ヴィティコ』を執筆しました」。    ブルックナーが幼少期から青年期まで過ごしたところは、平坦な丘陵地帯であり、深い森のなかでの生活ではありませんが、近くに森を抱き、歴史的には早い時期に開墾され、11世紀以前に起源を有する聖フローリアン教会という典型的な大教区のなかでした。   以下では、ハーゼル,K.(1996)『森が語るドイツの歴史』山縣光晶訳,築地書店.(原題:Forstgeschichte:Ein Grundriß für Studium und Praxis by Karl Hasel @1985 Verlag Paul Parey)をテキストに考えてみたいと思います。   「中世の土地開拓に大きな影響を持ったのは、宗教的な土地所有者、なかでも修道院でした。修道院は、カロリンガー王朝時代は王によって、またその後は封建貴族の一族によって創設され、多くの場合、戒律などにしたがい寂しい土地や道のない山のなかの森に居を構えたのです」(p.53)     ブルックナーゆかりのアンスフェルデンは3世紀のローマ時代の道路地図にも記載があるといわれる古い村です。ブルックナーの父が亡くなり母テレージアは、生計のため長男ブルックナーを近くの聖フローリアン教会に託します。よくブルックナーのCDのジャケットの表紙を飾るこの修道院のバロック調の建物(カルロ・カルローネ建築)は壮麗なものです。   「修道院は、魂の救済や慈善活動、病院看護、学校教育を通じてその一帯の文化の中心となりました。そこには文章や、暦などの時間の知識を自由に操る学者が集まり、あらゆる種類の工芸、手工業があり、医者や薬師も活動していました」(pp.53-54)     ブルックナーは既に叔父ヴァイスから1年半に亘ってオルガン演奏、作曲理論などの専門的な教育を受けていましたが、16才になるまでの3年半を聖フローリアン教会で聖歌隊員、ヴァイオリニスト兼オルガン助手として勉強して過ごします。抜群の成績だったようです。こう見てくると、彼は恵まれた教育環境にあったことがわかります。それを支えたのは多くの土地を所有する大修道院の経済力だったわけです。   「ドイツ人には森への愛情があるといわれています。そして、それはドイツ人と南ヨーロッパの人々を区別する、といわれています。しかし、この森への愛情は、森の歴史の上では何も根拠がありません。ロマン主義は、歴史とはまったく関係なく、自らの感情をはるか昔の時代へと移し置きましたが、森への愛情という考えは、このロマン主義の思想から生まれたものでした」(p.263)    この点ではまさにロマン主義の最後の時代に生きたブルックナーの森への愛情や心情は、「ゲルマン」らしさをあらわすものだったでしょう。一方で、後世の「大ドイツ」圏のなかにあって、オーストリアの特殊性もここで指摘されています。   「ドイツとまったく反対に、オーストリアでは、地役権の重荷を負った国有林の収益の低さや国の恒常的な財政危機が原因となって、多くの国有林が私人に売却されました。国有林面積は、1855年には129万500㌶でしたが、1885年までに63万4,400㌶に落ち込んだのです。オーストリア国立銀行は、66万㌶の国有地に抵当権を設定し、その大部分を投機家たちに競売しました。オーストリアに国有林がわずかな面積割合(15%)しかないのは、ここに原因があります」(p.159)     ブルックナーが生きた時代に、オーストリアでは重大な国有林売却問題が発生していたわけです。シュタイヤーはブルックナーが愛した都市ですが、この都市が栄えたのは古くから製鉄業があったからでした。その製鉄業は、一般に燃料の薪をたくさん使うことから森林との関係が深かったとのことです。 (p.78,p.82,p.89)。    39才になったブルックナーが作曲家として生きようと決意したのは、リンツ郊外の森のはずれの料亭「キュールンベルクの狩人」でした。また、世間や仕事に疲れたブルックナーが癒しを求めて滞在したクロイツェン、カールスバート、マリーエンバートなどの温泉地も森のなかにありました。ブルックナーは大自然を愛し、登山を好んだともいわれますが、こうして見てくるとブルックナーの音楽の源泉が森にあったとも推論できそうです。   <参考文献> ・シュティフタ―(1985)『森の小径』山室静訳,沖積舎. ・平野秀樹(1996)『森林理想郷を求めて 美しく小さなまちへ』中央公論社.
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第4章 ベームとカラヤン

◆ベーム(Karl Böhm, 1894~1981年)

1970年代後半、晩年のベームの来日は大変な歓迎ぶりであり、ベームも日本公演を大いに楽しみにしていたといわれます。1975年ウィーン・フィルの来日公演では、残念ながらブルックナー以外の演目でしたが、集中的にベームのライヴを聴くことができました。3月17日はベートーヴェン:レオノーレ序曲第3番、ストラヴィンスキー:『火の鳥』組曲、ブラームス:交響曲第1番、3月20日はベートーヴェン:交響曲第4番および第7番、3月25日はモーツァルト:交響曲第41番およびJシュトラウスⅡ&ヨゼフ・シュトラウスのポルカ、ワルツ集でした。

しかし、鬼籍に入ってから、辛辣な評者は、ベームは没個性的で、歴史的に残るような指揮者ではないといったシビアな口吻も目立つようになりました。小生はそうした見方に否定的です。

 小生は、中学生の時、LPレコードでブラームスの交響曲第1番(ベルリン・フィル)を聴いて以来、かわらずその音楽の「構築力」に敬服しています。一見地味ですが実は凄い指揮者。その経歴も指揮者としての録音記録も申し分ありません。

そのレパートリーは広く、オペラを得意とし、ハイドン、モーツァルト、ワーグナー、R.シュトラウスなどでも歴史的な名盤を残し、また、ブルックナーの正規録音は彼の足跡では、多くは後期以降ですが、どれも秀抜な出来映えです。

 ベームのブルックナー演奏の特質も「構築力」という言葉に尽きます。堅牢な音楽、しかし、そこにはもちろん強い情熱も豊かな情感もあります。緩さがない、生真面目だ、面白みに乏しい、といった批判はあっても、その手堅い構築力は誰しも認めるところでしょうし、ブルックナーでは、それが大きな武器です。ベームの重心の低い安定感は、バラツキのない、失敗しない一種の模範的な演奏スタイルともいえます。それに、晩年のカラヤンのように、音を磨きすぎず、程良い無骨さも悪くはありません。

ベームもカラヤンも同じくオーストリア人(もっともカラヤンはギリシア系移民をルーツとし純粋の母国人とはいえないとの説もあり)ですが、カラヤンが最晩年までブルックナーの演奏に執着したのに対して、ベームは再録音にはあまり拘らなかったようです。トスカニーニを聴いているとどの曲も彼なりの流儀で、自信をもってスコアに接近している姿が思い浮かびますが、ベームも同様です。下記の各曲のコメントは、おそらく全てのベームの録音に共通するものであり、かつその音楽は派手な所作とは無縁ですが、ベーム流の重厚さは一貫しています。では、歴史的な音源から見ていきましょう。こうした古い記録がいまも語り継がれ広く聴かれていること自体が、ベームの実力を反映していると思います。

【第3番】

ブルックナー:交響曲第3番 第3番 VPO 1970年9月  ゾフィエンザール ウィーン Decca UCCD-4423

作曲者の最終稿をベースとしたノヴァーク版(1958年ブルックナー協会版)を使用した演奏です。アインザッツから、これは凄いぞ!と思わせます。1970年の録音ですがウィーン・フィルの瑞々しい音楽が充溢しておりこの年代の録音として不足はないと思います。

 演奏の「質量」の充実ぶりが本盤の決め手です。フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの時代のように、指揮者とオケが音楽にのめり込んでいく行き方とは異なり、クール・ヘッドな、しかもノー・ミスが前提の演奏ながら、抜群の構築力を誇ります。ベームのこの手法はかってのベルリン・フィルとのブラームスの第1番などとも共通し、テンポは一定、それを与件としてダイナミック・レンジは最大限にとります。弦と管のバランスも申し分なし。音に丹念な「入魂」を行うこともベーム流。第3番は何故か大家の名演の少ないなか、この1枚は現状まで、おそらくベスト盤といえる出来だと思います。

 ベームが実は周到に準備した演奏でしょうが、彼はこれ以降、再録音する必要がなかったと思います。そうした意味では会心の演奏と自己評価していたのではないでしょうか。ベームの代表的なメモリアルであるとともに第3番でベームが築いた金字塔とでもいえる名演です。

[2017年8月23日]

【第4番】

第4番 VPO 1973年11月 ゾフィエンザール ウィーン Decca UCCD-9520

第4番(ノヴァーク版1953年)は、その求心力ある演奏によって、この曲のスタンダード盤とでもいってよいものです。テンポのコントロールが一定でどっしりとした安定感があります。

ベームはその著『回想のロンド』(1970)高辻知義訳,白水社.のなかで、「ブルックナーのように孤独で独特な存在に対して、オーケストラ全体が目標を決めていることこそ決定的なことなのだ。もしも壇上のわれわれみなが納得してさえいれば、われわれは聴衆をも納得させずにはおかない」旨を語り、特にウィーン・フィルとの関係では、この点を強調しています。

ブルックナーにおいてウィーン・フィルとのコンビではこうした強固な意志を感じさせます。小生はベームのセッション録音について、第3番、第8番は他を圧する記録、第4番と第7番は前者との比較ではやや大人しい感もありますが、総体としては、いずれも同国オーストリア人の気概をもっての魂魄の名演であると思います。

[2017年8月25日]

【第5番】

Symphonies No. 4 & 5 第4番、第5番 ドレスデン(ザクセン)国立歌劇場管弦楽団 1936年、37年 Profil PH09025

ベームのブルックナーでは非常に古い音源です。いずれも1936年、37年の録音。当時、ベームは40才台なりたての頃、ドレスデン(ザクセン)国立歌劇場の総監督であり本盤はその時代の成果のひとつです。録音の古さは致し方なくはじめの印象は音の貧相さが気になります。しかし、演奏そのものに集中するとなかなか味のある佳演であることがわかります。

第4番(1978/80年稿 ハース版)については、テンポの安定した荘厳な装いと良く制御されたオーケストラの緊張感ある臨場を看取できます(なお、第4番では他に1943年のウィーン・フィル盤もあります)。

また、第5番については、後年の演奏や他番にくらべると、第2、3楽章などでテンポをやや可変的にとり、いつもの厳しいオーケストラ統制を緩めていると感じる部分もあります。しかし、基本はかわらず全体構成はいかにもべームらしく堅固、かつ弦と管のバランスがよく強奏でも乱れはありません。終楽章も充実しており、もしも第5番についても1970年代前後のセッション録音盤があれば、とないものねだりをしたくなります。両番とも演奏は立派ですが、録音の古さから、あくまでもブルックナー&ベーム・ファン向けの歴史的音源でしょう。

[2017年6月4日]

【第7番】

第7番 VPO 1976年9月  DG Deutsche Grammophon 4198582

原典版による演奏です。ベームはいつもながらけっしてテンポを崩しません。安定したテンポこそベームの確たる基本線です。音に重畳的な厚みがあります。しかもそれは、一曲におけるどの部分を切り取っても均一性をもっています。オーケストラは十分な質量を示しますが、その制御された質量感の背後に「冷静」さが滲みます。そのうえで、弦楽器のパートにおいては音の「明燦」と「陰影」のつけ方が絶妙で、「冷静」でありながらその表情は豊かです。管楽器はおそらく常ならぬ緊張感をもって完璧な音を吹奏し、それは情熱的というより最高度の職人芸を要求されているように感じます。

厳格なテンポを維持することは、それ自体至難でしょう。緊張感からの一瞬の開放もありません。これが、ベームの「隠された技法」ではないかとさえ思います。ベームとはメトロノームが内在されている指揮者ではないかとすら感じさせます。しかし、このメトロノームの優秀さをウィーン・フィルはよく知っており、持てる力を発揮しています。指揮者の統率力をこのように感じさせる演奏は稀でしょう。面白味に欠けるとの意見もありますが、実はそこがベームの凄さではないかと思います。

[2012年5月20日]

Bruckner: Symphony No.7 第7番 VPO 1943年 Archipel ARPCD40

本盤は1943年の古い録音です。しかしこの時代としては意外にも結構良い音が採れておりその内容を知るうえでさほど問題はないでしょう。

立派な演奏です。1976年盤ほど冷静かつテンポの厳格さにこだわらず、熱っぽさも大胆なドライブ感もあり、ウィーン・フィルを存分に集中させて、透明なるも芳醇なサウンドを十全に引き出し(特に第2、3楽章)、かつベームの信ずるブルックナー音楽を構造的に描ききっています。聴き終わってやはりベームは只者ではないとの印象をもつことでしょう。 。

[2017年6月4日]

【第8番】

ANTON BRUCKNER Symphonie No.8 第8番  VPO 1976年2月 DG Deutsche Grammophon 4630812

第8番(ノヴァーク版1889/90)の終楽章、これは実に見事な演奏です。ブルックナーは当初、この交響曲を自信をもって書きました。しかし、ブルックナーを取り巻くシンパはこの作品について厳しい評価をしました。第7番は成功しました。そのわかりやすさ、ボリューム感からみると、第8番は晦渋であり、なんとも長い。ブルックナーの使徒達は、第8番での評価の低下を懼れて、いろいろとブルックナーに意見をしました。ブルックナーは深刻に悩み自殺も考えたといわれます。悩みは続き、第9番が未完に終わったのも、この桎梏からブルックナー自身が脱けられなかったからかも知れません。

  さて、ベームの演奏が見事なのは、ブルックナーの当初の「自信」に共感し、それを最大限、表現しようとしているからではないかと感じます。もちろん第8番の名演はベームに限りません。クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、シューリヒト、クレンペラー、ヨッフム、チェリビダッケ、ヴァント、初期のカラヤンなど大家の名演が目白押しであり、どれが最も優れているかといった設問自体がナンセンスでしょう。皆、このブルックナー最後の第4楽章に重要な意味を見いだし、己の解釈をぶつけてきており火花が散るような割拠ぶりです。

 ベームの演奏は、そうしたなかにあってベームらしい「オーソドックス」さが売りです。テンポは一定、ダイナミズムの振幅は大きくとり、重厚かつ緻密さを誇ります。しかし、それゆえに、「素材」の良さをもっとも素直に表出しているようにも思います。飽きがこない、何度も聴きたくなるしっかりとした構築力ある演奏です。

[2012年5月20日]

以上で、ベームのブルックナーの精華はほぼ味わうことができますが、若干のライヴ音源についても補足します。

第7番では、バイエルン放送響盤(1977年4月5日、ミュンヘン・ヘルクレスザール)や古いVPO盤(1953年3月7日、ウィーン楽友協会大ホール)などが、また第8番では、BPO盤(1969年11月26日、フィルハーモニーザール)、バイエルン放送響盤(1971年11月16日、ミュンヘン・ヘルクレスザール)、チューリヒ・トーンハレ管盤(1978年7月4日、トーンハレ・チューリヒ)などもあります。

 

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カラヤン(Herbert von Karajan, 1908~89年)

カラヤンはウィーンでの学生時代、フランツ・シャルクの演奏をよく聴いたようですが、弟子ではありませんでした。そのブルックナー解釈は、さまざまな先人の内容を意欲的に吸収しつつも、独自に築いたものであったと思います。そして、ブルックナー改訂で名をとどめたハースは、カラヤンの演奏を聴いて、彼の校閲の見方からこれを高く評価したようです。カラヤンにとっては、泰斗ハースの援軍は大きな自信に繋がったことでしょう。

さて、『カラヤンとフルトヴェングラー』(中川右介著 幻冬舎新書 2007年)では、フルトヴェングラー、カラヤン、チェリビダッケの3人の指揮者の折りなす人生ドラマが、ナチズムという辛酸かつ強大な官僚機構とおどろおどろしい人間関係を軸に展開されますが、ここではブルックナーに関しても参考になる多くの記述があります。以下、本書から拾遺してみます。まず、敗戦直前の1944年のカラヤンの活動について、

「ベルリンに代わる新天地としてカラヤンが目をつけたのは、オーストリア第三の都市であるリンツだった。ここはブルックナーの生地で、帝国ブルックナー交響楽団があった。リンツはヒトラーが育った町でもあった。ヒトラーは、この町を音楽の町にしようと考え、1939年に、リンツ・ブルックナー管弦楽団を創設させた。ゆくゆくは、バイロイトのワーグナー協会のように、ブルックナー協会をつくり、ブルックナー音楽を聴くための音楽祭も開催したいと考えていた。管弦楽団結成はそのための第一歩だった。歌劇場のオーケストラを母体にしたもので、当初は地元の音楽家だけで構成されていた小規模なものでしかなかった。これを飛躍的にレベルアップさせたのが、音楽監督として就任したゲオルク・ルートヴィッヒ・ヨッフム(オイゲン・ヨッフムの弟)だった。1942年には、ドイツ・オーストリア全土から優秀な演奏家が集められ、放送局に所属するリンツ帝国ブルックナー管弦楽団として再結成された。

1944年7月23日、リンツ郊外のザンクトフローリアン修道院で、カラヤンはこのオーケストラを指揮してブルックナーの交響曲第8番を演奏した。彼はこのオーケストラが気にいった」(pp.109-110)。

「10月にベルリンで州立歌劇場を指揮した第8番も好評だった。カラヤンはますますブルックナーに自信を深めた。そこで、リンツを拠点に、ブルックナー指揮者として再起するという計画を立てた。

カラヤンのこの野望は、リンツのオーケストラの生みの親ともいうべき、放送局の幹部ハインリヒ・グラスマイヤーの意向とも一致した。グラスマイヤーはヨッフムの音楽家としての才能は認めながらも、もっと派手でカリスマ性のある指揮者を求めていた。そこにカラヤンが登場したのだった」(pp.110-111)。

しかしながら、このカラヤンの「野望」はフルトヴェングラーによって打ち砕かれます。同年10月、フルトヴェングラーはザンクトフローリアンでこのオーケストラとブルックナーの第9番を共演し、召集令状の来ていたヨッフムの留任をゲッペルスに頼み、その地位を保全することによって、カラヤンの芽を摘んだといわれます。カラヤンはこの時期、フルトヴェングラーの逆鱗にふれて事ごとに進路を邪魔されたと本書でも記述されています。

そのカラヤンが、戦後の1947年ウィーン・フィルと記念すべき活動再開にあたり、ウィーン楽友協会で演奏したのは、10月26、27日のブルックナーの第7番でした(p.168)。

また、バイロイトでの1951年デビューでの5月28日ウィーン交響楽団とのコンサートではローエングリン前奏曲とふたたびブルックナーの第8番を取り上げています(p.216)。

さらに、フルトヴェングラーが死の床にあった1954年11月21、22日のベルリン・フィルとの非常に重要な局面での定期コンサートで、カラヤンが演奏し大成功を収めたのはブルックナーの第9番でした(p.269)。

それから35年後、カラヤン最後のコンサートとなったウィーンでの1989年4月23日ウィーン・フィルとの共演で演奏されたのはブルックナーの第7番でした(p.302)。

カラヤン亡き後、チェリビダッケが1992年3月31日、4月1日に1954年以来、実に38年ぶりのベルリン・フィルとの演奏で取り上げたのも奇しくもこのブルックナーの第7番であったのも「ドラマの符牒」としては考えさせられます(pp.303-304)。

カラヤン晩年、ウィーン・フィルとの第7番、第8番が出ます。特に第7番は、ブルックナーの作曲時のエピソード(ワーグナーへの葬送)に加え、死の3ヶ月前の最後の録音であったことから、カラヤン自身への「白鳥の歌」と大きな話題を呼びました。オーストリア人カラヤンにとって、故国の大作曲家たるブルックナーは、むしろ特別な存在であったのかも知れません。

 以上、見てきたとおり、カラヤンは第8番を得意中の得意の演目としていました。戦前から一貫して第8番はカラヤンの金看板でした。それについで、第9番、第7番、第5番をよく取り上げましたが、録音は第9番(日本でのレコード芸術推薦盤1967年)、第4番、第7番(同1971年)がはやく世評も高かったことが思い出されます。ちなみに、本曲の日本初演を行ったのもカラヤンです(1959年10月28日日比谷公会堂、カラヤン/ウィーン・フィルにて/第8章参照)。

以下では、全集にふれたあと、集中的に第8番についてコメントします。

全集(第1番~第9番) BPO 1975~1981年 ベルリン DG Deutsche Grammophon 4777580

【全集】

1950 年代、日本でいまだブルックナー・ブームが胎動するはるか以前のこと、ブルックナーの交響曲のレコードはなかなか入手できませんでした。フルトヴェングラー、ワルター、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、ヨッフムらが先鞭をつけましたが、カラヤン/ベルリン・フィルの第8番が1959 年にお目見えし、名演の誉れ高しとの評価でした。

1930 年代から幅広い演目で多くのレコードを精力的に録音してきたカラヤンですが、ブルックナーの取り上げについては実は慎重な印象もありました。いまでは全く考えられないことですが、「カラヤンはブルックナーが実は苦手なのでは…」といった勝手な風説すら当時の日本ではありました。1970 年頃を境に、この「風説」は一蹴されます。順番は別として、第4、7、9番が相次いでリリースされ、その録音がベルリンの教会で行われたことから残響がとても豊かで美しく見事に適合しており、これを境にブルックナーはカラヤンのメインのレパートリーであると認識されることになります。その後、本全集がでて、カラヤンの評価は決定的となります。しかし、全集録音は、カラヤンの本来の意思からはけっして早くはなかったようです。なぜなら、ドイツ・グラモフォンには、ブルックナーの泰斗ヨッフムがいましたし、なによりブルックナーのレコードは当時売れなかったようです。後に、カラヤンが意欲的に全集を出した頃は、ブルックナー受容が進むとともに、カラヤンのネームヴァリューもあって拡販がすすんだようです。

第1、2、3、5、6番の正規録音(ライヴ盤を除く)は、再録の多いカラヤンにあって、この全集での記録のみですが、いずれも非常にレヴェルの高き演奏です。カラヤンはもしかすると、第3番、第5番などは別のセッション録音も考慮していたかも知れませんが、本全集は概ね「これで良し」との評価をしていたのではないかとも考えられます。第5番および第6番(第1楽章は欠落)はフルトヴェングラーの音源がありますが、第1~3番はフルトヴェングラーの記録はありません。カラヤンは密かにここはベルリン・フィルとの独壇場と思っていたのかも知れません。

カラヤンの全集は、一貫する明晰な解釈、流麗な音の奔流、なによりもその抜群の安定感からみて、小生はヨッフムとともにいまだ最右翼の選択肢であると思います。

[2010年9月5日]

【第8番】

第8番 第2~4楽章 プロイセン(ベルリン)国立歌劇場管弦楽団 1944年6月28日(第2、3楽章)、9月29日(第4楽章)ベルリン Membran  232482

この音源はカラヤンを知るうえでも意味深いものです。本44年盤と次の57年盤の録音時間を比較すると、驚くべきことに、欠落している第1楽章は不詳ながら、第2楽章は00:06差、第3楽章は00:10差、第4楽章は01:17差という「僅差」です。13年ののち、かつオーケストラも違う2つの演奏はほぼ一致した内容といってもよいように思います。カラヤンのブルックナー第8番解釈は、すでに1944年の段階でほぼ確定していたかのようです。

 この感想は同じプロイセンを振った『英雄』でも、かつて同様な印象をもちました(もっとも、注意しなければならないのは、これはセッション録音の場合で、カラヤンのライヴ演奏では、ときにテンポ設定については大きく可変的で別の顔を見せることもありますが)。

 しかし、44年盤、57年盤は、おそらく近代の指揮者として、はじめてレコードという媒体にもっとも高い感度と深い知識をもっていたカラヤン(クナッパーツブッシュやフルトヴェングラー世代との大きな違い!)にとって、特別な意味があったのでしょう。44年盤第4楽章は、世界初のステレオ録音ともいわれ、これを事後チェックしたカラヤンは、戦時中ながら新技術「ステレオ録音」の将来に秘かに思いを馳せたかも知れません。また、57年盤はベルリン・フィルを統率した本格的なステレオ録音です。どちらも、カラヤンにとって、余人が理解できないくらい重要な意味のある記録であったことでしょう。

[2013年8月4日]

Symphony 8 第8番 BPO 1957年5月23~25日 ベルリン、グリューネヴァルト教会 EMI Classics  CMS4769012

1957年盤は遅い演奏です(ハース版、[86:57])。その遅さとともに、ベルリン・フィルの音色は、重く、かつ暗い点が特徴です。運行はまことに慎重で、与えられた時間にどれだけ濃密な内容を盛り込むことができるかに腐心しているようです。よって、リスナーにとっては、集中力を要し疲れる演奏です。しかし、この1枚が日本におけるブルックナー受容の先駆けになったことは事実で、ながらく第8番といえばこのカラヤン盤ありとの盛名を馳せました。

 本盤は、かのウォルター・レッグのプロデュースによる初期ステレオ録音でこの時代のものとしては素晴らしい音色です。フルトヴェングラーと比較して、いわゆるアゴーギクやアッチェレランドは目立たせずテンポは滔々と遅くほぼ一定を保っています。

 音の「意味づけ」はスコアを厳格に読み尽くして、神経質なくらい慎重になされているような印象ですが、その背後には「冷静な処理」が滲み、フルトヴェングラー的感情の「没入」とは異質です。しかし、そこから湧出する音色は、重く、暗く、音の透明度は増していますが、なおフルトヴェングラー時代のブルックナー・サウンドの残滓を強くとどめているようにも感じます。

 象徴的にいえば、カラヤンはここでフルトヴェングラーの「亡霊」との格闘を行っているような感じすらあります。しかし、過去を払拭せんとするその強烈なモティベーションゆえか、この演奏の緊張感はすこぶる強く、ねじ伏せてでもカラヤン的な新たな音楽空間を形成しようと全力を傾けており、よってリスナーは興奮とともに聴いていて疲労を感じるのではないかと思います。

 後年のベルリン・フィルとの正規盤(1890年ノヴァーク版、[82:06]録音年月日:1975年1月20〜23日、4月22日、録音場所:フィルハーモニーザール、ベルリン)を聴くと、ここでは自信に満ち一点の曇りもないといった堂々たる風情ですが、1957年盤の歴史的な価値は、フルトヴェングラーからカラヤン時代への過渡期における緊張感あふれる記録という観点からも十分にあるのではないでしょうか。

[2008年2月24日]

第8番 BPO 1975年1月20〜23日、4月22日 フィルハーモニーザール DG Deutsche Grammophon UCCG-90666

ベルリン・フィルの全勢力を惜しみなく投入した渾身の第8番(1890年ノーヴァク版)です。全体のバランスは慎重に保ちつつもその壮麗さに特色があり、かつ弦楽、木管、金管、打楽器の実力をすべて発現させて、ときに叩きつけるような迫力も伴います。

同じ第8番、ベルリンを振ったマゼール盤のようなトリッキーな技巧は一切用いず、また、バレンボイムのようにメロディの彫琢とダイナミズムに過度に拘泥するわけでもありません。役者が違うな、といった感想をもちます。

ブルックナー特有の、音の巨大な伽藍構造は第1楽章からすでに現れ終結まで一貫して響き渡ります。それはいわば近景(強奏部)、遠景(弱音部)の違いはあっても同じ構造をしかと捉えて、持続的に表現している感覚です。しかもテンポ設定が巧みで、音は重いのに第2楽章のドライブ感などは水際だっています。第3楽章はイン・テンポで遅く、重く、それでいて美しさと逞しさを兼ね備えたカラヤン流のブルックナー・サウンドの極致といってよいでしょう。内燃するエネルギーの質量の大きさがそれを支えています。終楽章では、重畳的な音がさらに厚みを増して、美しさよりも力強さが強調されます。音を磨きすぎず、男性的な武骨さも、ここでは表現すべき範疇に入っているといわんばかりの迫力です。これをもってカラヤン/ベルリン・フィル、第8番の白眉といってよいと思います。

SYMPHONIE NR 8 C MOLL 第8番 VPO 1988年11月 ウィーン楽友協会大ホール DG Deutsche Grammophon 4790528

 テンポが遅く、細部の彫琢は線描にいたるまで周到です。しかし、このなんとも美しい第8番を聴いていて、不思議とブルックナー特有の感興が湧いてきません。チェリビダッケの第8番の「どうしようもない遅さ」には一種の「やばい」と思わせるスリリングさがあります。東京の実演でも感じましたが、もはや「失速寸前」まで厳しく追い込んでいく演奏の危険性と裏腹に獲得する、得もいわれぬライヴの緊張感といった要素がありました。

 一方、カラヤンの第8番にはそうした失速懸念があるわけではありません。磨きに磨きあげる音の表現のためには、このテンポが必要なのかも知れません。しかし、クナッパーツブッシュを、シューリヒトを、ヨッフムを、あるいはヴァントを聴いてきたリスナーにとって、この演奏の「到達点」はどこにあるのだろう。遅くて、こよなく美しいブルックナー。

 カラヤンは20世紀の生んだ天才的な指揮者です。世界政治の坩堝としてのベルリンで、その「孤塁」の安全保障を、結果的にたった一人、1本のタクトで保ってきたような稀有な才能の持ち主でもあります。時代の先端を疾駆し、常にセンセーショナルに、旧習にとらわれ変化の乏しいクラシック界に新たな「音楽事象」を自ら作り出してきました。

 初期には、トスカニーニ張りといわれたその素晴らしいスピード感、常任就任以降の精密機械のようなベルリン・フィルの合奏力の構築、また、瞑目の指揮ぶりは聴衆を惹きつけずにはおかず、そのタクト・コントロールのまろやかな巧みさには世界中の多くの音楽ファンが魅了されました。

 エンジニアとしての知識と直観に裏付けられたCDからビデオに、そしてデジタル化にまでいたる映像美学へのあくなき関心。いくつも並べられるこうしたエピソードとは別に、レパートリーの広さと純音楽的で類い希なる名演の数々、その厖大なライヴラリー。スタジオ録音でもライヴでもけっしてリスナーを裏切らない均一な演奏水準…。

 カラヤンの演奏にある意味で育てられてきたような世代の小生にとって、また、大阪で、東京で、そして忘れえないザルツブルク音楽祭でそのライヴに感動した過去の体験に思いを馳せつつ、カラヤンの「凄さ」にはいつも圧倒されてきました。

 さて、そんなことを考えながらこの第8番を聴きます。一般に大変高い評価のこの最晩年の演奏は、もちろんカラヤンらしい完璧志向は保たれていますが、格闘技的な本曲において、演奏の「エモーション」が物足りない気がします。かつてのカラヤンの演奏では感じなかった落ち着きとも諦観ともいえる心象が随所にでていると思う一方、フル回転の内燃機関のような白熱のパッションは遠い残り火のように時たま瞼に映るのみです。

 その意味で本盤は自分にとって、なくてはならない1枚ではないようです。ここ一番、第4楽章の見事なフィナーレには往時の感動を追体験しつつも、壮年期の覇気が懐かしい。自らの加齢の影響もあるかも知れませんが、悲しみとともに、老いたりカラヤン!との感情を隠しがたく持ちました。

 なお、カラヤンの第8番には、ベルリン・フィルとの1966年5月2日/東京文化会館(ライヴ)、1966年6月16日アムステルダム・ライヴ(オランダ音楽祭におけるステレオ録音)、ウィーン・フィルを振った1957年7月28日 ウィーン祝祭大劇場(ライヴ)などもあります。根強い人気から、今後も壮年期の他音源がリリースされるかも知れません。

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ブルックナー・コラム Ⅳ

ハプスブルク帝国   ブルックナーが生きた時代を知るために、ハプスブルク帝国について見てみましょう(参考文献後掲)。メッテルニヒやビスマルクが活躍し、文化的にも幾多の芸術家が登場する時代ですが以下はその覚え書きです。   ≪オーストリアの歴史概観≫    オーストリア(Republic  Östereich)は9つの自治州からなる連邦共和国です。歴史をたどると紀元前4世紀頃にケルト族がはじめての統一国家ノリクム王国をつくりますが、紀元1世紀にローマ帝国から攻められ、ローマからみた北方の駐屯地になります。その後6世紀にはゲルマン族の一部がバイエルンから南下してきます。8世紀にはカール大帝がオストマルク(東部辺境)と位置づけ、これが今日のÖstereichの語源です。10世紀から13世紀半ばまで、ここをバーベンベルク家が領有し、その中心都市をウィーンにおきます。後述する帝都ウィーンの始動です。    13世紀末にバーベンベルク家は断絶、これにかわって神聖ローマ帝国皇帝の子供達がオーストリアを支配し、ここからハプスブルク家の時代がはじまります。ハプスブルク家は代々の皇帝をだす一方、政略結婚戦略を展開し、近隣国と姻戚関係をむすび、フランダース、ルクセンブルク、チロルを継承するとともに、ハンガリーを征服しトルコを駆逐して中・東欧支配を確立します。さらにこれにとどまらず、スペイン継承戦争でスペインも手中におさめ、英国とフランス以外はすべてハプスブルク家の「実質」領地といった全盛期を迎えます。  かつてのローマ帝国同様の広大な領土展開から往時は「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたハプスブルク家ですが、18世紀、かのナポレオンの登場によって敗北し、ベネチアなどを失うとともに、神聖ローマ帝国そのものが消滅します。この段階で中・東欧からなる多民族国家の「オーストリア・ハンガリー帝国」となりますが、なおも、いまのポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴ(セルビア・モンテネグロ)などを含む欧州最大の帝国でした。  しかし、さしもの栄華を誇ったハプスブルク帝国も、第一次世界大戦で敗れ1918年カール1世の退位で13世紀からの650年の歴史に終止符をうち、領土も戦前の4分の1にまで縮小しオーストリア共和国として再出発することを余儀なくされます。その後ナチの台頭とともにドイツに併合されて第二次世界大戦へと突入。再度の決定的な敗戦により1945年には旧ソ連軍に占領されますが、1955年永世中立国として主権を回復し今日を迎えます。   ≪19世紀から20世紀初頭の時代≫    では、ブルックナーの時代の前後にフォーカスしてみましょう。神聖ローマ帝国はナポレオン1世に席巻されて崩壊し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位しますが、その一方、このフランツ2世は1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア帝国皇帝フランツ1世を称しており、以後はオーストリアの帝室として存続します。ナポレオン1世追放後は、「神聖同盟」としてウィーン体制をたもちますが、後にクリミア戦争でロシアと敵対してこの同盟も事実上崩壊し、1859年にはサルディニアに敗北してロンバルディアを失い、1866年の普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放の憂き目をみます。    国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がります。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこれに妥協し、ドイツ人とハンガリー人を指導的地位にし、帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐ「二重帝国」に改編し、1867年にオーストリア・ハンガリー帝国として再出発します。  それでも一端火のついた民族問題は収まらず、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合したことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化します。そして1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人青年に銃殺されるという有名な「サラエボ事件」がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まります。先に記したとおりこの大戦でも敗北し、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、ハプスブルク帝国は1918年に崩壊します。   ≪ブルックナーのウィーン時代(1868~1896年)≫    ブルックナーがウィーンに居を移した1868年の前年の3月15日、ハンガリー議会はオーストリアとの合体を定めた「アウスグライヒ(和協)法案」を可決します。フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、両国は外交、軍事、財政は共通にするものの、憲法と議会、政府は独自のものをおくという変則的な連合体制を敷きます。ハンガリー議会の「和協法」可決から3ケ月後の6月8日にはフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に戴冠し、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が名実ともに発足します。この体制によって、オーストリアはなんとか面目をたもち中部ヨーロッパの大国の地位を維持します。  帝都ウィーンには爛熟した世紀末文化の花が咲き、ハンガリーも首都ブダペストの近代化などに成功、両都は繁栄を謳歌します。しかし、この体制はドイツ系とマジャール人の多数派が少数のチェコ人やポーランド人など他のスラブ系諸民族を抑圧することで維持される性格を持つゆえに、成立直後から民族主義を叫ぶ諸民族からの抵抗が根強く、大きな矛盾をかかえることになります。この結果、フランツ・ヨーゼフ1世は、安定化のためドイツ帝国とよりを戻し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の掲げた「パン=ゲルマン主義」に同調していくようになります。  ブルックナーが生きたウィーンはこのように政治的には激動、文化的には爛熟の時代でした。   <参考文献> ・成瀬治・黒川康・伊藤孝之(1987)『ドイツ現代史』山川出版社. ・望田幸男・三宅正樹編(1982)『概説ドイツ史』有斐閣選書. ・斎藤光格(1996)『EU地誌ノート』大明堂. ・ゲオルク・マルクス(1992)『ハプスブルク夜話』江村洋訳,河出書房新社. ・倉田稔(1995)『ハプスブルク歴史物語』NHKブックス.  ・山之内克子(2005)『ハプスブルクの文化革命』講談社. ・『オーストリアへの旅』[エアリアガイド140](1996)昭文社. ・『ウィーン』[全日空シティガイド](1994)三推社・講談社.
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第5章 チェリビダッケ、ヴァント

この章では、カラヤンと同時代人で、晩年その動向が注目され、いまも根強い人気を誇る二人にスポットを当てたいと思います。

◆チェリビダッケ(Sergiu Celibidache, 1912~96年)

チェリビダッケの名前は、1960年代からクラシック音楽の一ファンになった小生のような者にとっては、戦後のベルリンでフルトヴェングラーやカラヤンと活動の時代が重なり、その後、杳(よう)として表舞台から消えた幻の名指揮者として鮮烈に記憶に刻まれました。第1章でふれた映画『フルトヴェングラーと巨匠たち』では、若きチェリビダッケはエグモント序曲を振りましたが、正面を見据えた厳しい表情で、これは恐そうな人だな、というのが映像からの第一印象でした。

 時をおいて、NHK-FM放送で彼の名前が登場しました。1969年ヘルシンキ芸術週間でのベートーヴェン:第5番ピアノ協奏曲は、ミケランジェリのピアノ、チェリビダッケ/スウェーデン放送響の演奏。ミケランジェリもレコードが極端に少なく、当時、これはライヴによる両完璧主義者の「皇帝」として大きな話題になりました。

 内攻する演奏 ―内に向かって集中力が凝縮していくような演奏― という点で、チェリビダッケはその師、フルトヴェングラーと共通するところがあると思います。また、非常なテンポの遅さや濃厚なハーモニーなど他ではけっして聴くことができない彼独自の演奏スタイルをもっており、かつどのオーケストラとの共演においてもそれを堅持するという点でも異彩を放っています。

 ブルックナーの交響曲は、フルトヴェングラー、チェリビダッケともに自家薬籠中の演目です。チェリビダッケは、ベルリン・フィルの戦後復興期の立役者であり、フルトヴェングラー復帰までの間、首席指揮者の地位にありながら1954年に突然身を引くことになります。その後、フルトヴェングラーが復権し歴史的な名演を次々に残し、没後はカラヤンがその跡目を継いで世界最高の機能主義的な管弦楽団へとベルリン・フィルを導きます。その機能主義は、極論すれば、どんな指揮者が振っても、ボトムラインを意識させず高水準を維持するドイツブランドの精密機械とでもいうべきイメージをベルリン・フィルに付与しました。

 一方で、チェリビダッケの流儀はこれと対極ともいえます。ベルリンを去ってのちチェリビダッケはさまざまなオケと共演しながら、徹底した練習によって、楽団の演奏スタイルを強烈に自分流に変えていくといわれました。また、どの作曲家を取り上げても「チェリビダッケの・・・」と冠したいような独創性がその身上です。

 ブルックナーの交響曲は、指揮者によって解釈の余地の大きい、演奏の自由度の高い作品であり、チェリビダッケにとって自分の個性をぶつけやすい演目といえるのかも知れません。1990年10月10日渋谷のオーチャードホールで第8番(ノヴァーク版1890年)を聴きましたが、テンポは厳格にコントロールしながら音のダイナミズムを変幻自在に操り、先に記したとおり「内攻し続ける」演奏でした。確信に満ちた演奏であり、天上天下唯我独尊といった言葉を思わず連想しました。

 その2年後、チェリビダッケは、ヴァイツゼッカー大統領の要請をうけ、ベルリン・フィルとの決裂後、最初で最後の演奏会を38年ぶりに果たします。その演目はブルックナーの第7番でした。彼がいかにブルックナーに自信をもっていたかの証左ではないでしょうか。

≪正統と異端≫

さて、正統と異端といった対立項で、カラヤンとチェリビダッケの関係をあえて考えてみたいと思います。

チェリビダッケが第二次大戦直後のベルリン・フィル復興へいかに貢献したかは有名ですし、フルトヴェングラーはチェリビダッケには「恩ある身」で大変親しく、一方カラヤンは大嫌いでしたから、後任にチェリビダッケを推挙したかったかも知れません。しかし、チェリビダッケは自らベルリン・フィルと対立しここを去りカラヤンが後任の座を射止めます。その後、カラヤンは「帝王」の名をほしいままにし、チェリビダッケは欧州を転戦する道を選ぶことになります。 商業的にもカラヤンは世界を制覇し<正統>性を誇示しますが、チェリビダッケは反対に、ますます録音芸術の世界では、幻の指揮者としての<異端>性が際だつことになります。

さて、両巨頭とも鬼籍にはいって時が流れました。今日のリスナーにとってはそうした過去のドラマとは別に純粋に両者の演奏に親しむことができます。カラヤンがベルリンで背負ってきた歴史的、政治的重みは大きかったと思いますし、チェリビダッケはこの間、カラヤンの名声とともにあるさまざまな桎梏からは自由に、自分の音楽に没入できたといえるかも知れません。こと音楽の世界では、<正統と異端>といった書き割り的な単純化では表わしがたいことでしょう。

≪ 禅 ≫

チェリビダッケはベルリンでの若き日から中国人導師のもと禅に傾倒していました。映画『チェリビダッケの庭』について安芸光男氏は次のように指摘しています。

― 『チェリビダッケの庭』は、音楽と世界についての含蓄の深いアフォリズムに満ちている。そこから彼の思想を要約することばを一つだけ取り出すなら、「始まりのなかに終わりがある」つまり「始まりと終わりの同時性」ということである。これは音楽の開始について、指揮科の学生に語ることばなのだが、それは彼の宇宙観を集約することばでもあるのだ。―

(引用:http://homepage3.nifty.com/musicircus/aki/archive2/55.htm )

 ブルックナー指揮者としてのチェリビダッケが、どれほどその音楽と禅との関係を明確に自覚していたかはわかりませんが、上記の言葉はブルックナーの音楽の魅力を見事に表現していると思います。

「宇宙的」とか「大自然」とかの比喩もブルックナーの音楽ではよく用いられますが、日本人(あるいは日本通)ならではかも知れませんが、チェリビダッケ盤のジャケットの枯山水、石庭のイメージも良く似合う気がします。

 同じ宗教的な感興に根差すとして、ブルックナーが信仰していたカトリックとチェリビダッケが好んだ禅宗を無理して結びつけるような愚は避けたいと思います。そうしたセンティメントは実はあるのかも知れませんが、どちらにも半可通以下の自分が、聴いていて唯一直観する言葉は「無窮性」です。

「無窮性」と「非標題性」については従来から考えていることですが、最近、これは同じことを違う言葉でいっているだけかも知れない、とも思います。

すなわち、標題性とは「具象的」ですが、非標題性とはその反語という意味で「抽象的」といえると思います。ブルックナーの激烈な大音響やとても優しく美しい旋律(といった「具象」さ)に親しみつつ、なんどもなんども同じ曲を聴いているのは、その背後にある解析不能の何か(言葉で表現できない「抽象的」な何か)に惹かれているからではないかと感じます。チェリビダッケの言葉は、そのことをうまく言い得てくれているような気がします。

さて、枯山水や石庭のまえでは、ぼんやりと無念の気持ちで時のたつのを忘れます。ブルックナーまた然りです。

【第3番】

ブルックナー:交響曲第3番 第3番 ミュンヘン・フィル(MFO)1987年3月19、20日 ガスタイク・フィルハーモニー、ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50092

晦渋なる精神を感じさせる第3番(ノヴァーク版1888/89 年)ですが、チェリビダッケの演奏は第1、第2楽章は非常に遅く、第3楽章のトリオでやっと普通の速度になります。終楽章のアレグロ終結部は驚きです。普通はピッチをあげて高揚感を盛り上げるところ、なんとここでチェリビダッケは減速します。最後まで、彼の流儀を貫いた演奏であり、その濃厚な音の束ね方からみても異色の演奏です。

チェリビダッケにとって、各曲に要する時間(全体で64:35)は表現のために必須であり、「始まりのなかに終わりがある」という彼の言葉を連想させます。これは、先に指摘した「無窮性」に呼応し1曲の交響曲においても、ブルックナーの全交響曲にもあてはまるものかも知れません。そうしたことを強く意識させるライヴ盤です。

[2016年1月17日]

【第4番】

ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」 第4番 MFO 1988年10月16日 ガスタイク・フィルハーモニー ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN WPCS-50093

明るい色調の第4番(ハース版)です。ブルックナーの演奏では集中力を維持するために、テンポを揺らす方法もよくとられますが、チェリビダッケはこれを禁則化しており、一定の遅い運行のなかで、ボキャブラリーの豊饒さこそが最大の特色です。管楽器の活躍するパートの多い本曲では、ここまで遅くすると、息継ぎまでの奏者の技量が極限まで試されているようにも感じます(ふらついた音などチェリビダッケはけっして許してはくれないでしょうから尚更です)。

それは演奏者に極端な緊張をしいます。ベームも同様ながらテンポの厳格な維持では弦楽器群も同様です。ミュンヘン・フィルはよく鍛えられていて、それが聴衆にひしひしと伝わってきます。チェリビダッケ流のオーケストラ操舵法であり、リスナーへのおもねりなき統制です。

第2楽章の主旋律とピチカートの掛け合いも整然そのもの、感情は抑え気味で音をひそめた規則正しい行軍のような趣きです。第3楽章では、やや加速ぎみに処理しますが、フォークロア的メロディ部分では速度を保ち、こよなく美しく奏されます。終楽章は冒頭から量感が漲り、堂々とした構えです。終結部直前で大胆に減速しエネルギーを溜めて一気にフィナーレへ登りつめる緊迫感は強く、第4番屈指の迫力あるライヴ演奏といっていいかも知れません。

[2016年1月17日]

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 MFO 1991年2月14、16日 ガスタイク・フィルハーモニー ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50698

CD1枚には収まらず2枚組の第5番(ハース版)です。前半2楽章(46:57)はいかにもチェリビダッケらしい長大感です。第2楽章、ボヘミアン的な雰囲気のある有名なパッセージでは、ヨッフムなどに比べてこのテンポ設定はいささか緩慢すぎる気もします。一方、後半(40:42)は(通常レヴェルはやや越えるにせよ)極端な速度の遅さは感じられません。チェリビダッケの多くのライヴ盤に馴染んでいるリスナーであれば、逆説的ですがむしろ「快速」と感じるかも知れません。

終楽章に身を委ねていると、前述の「内攻する演奏」を強く感じます。チェリビダッケのライヴでは、そのクライマックスの壮大さに誰しもが驚きますが、それは、安手の設えで派手な音を鳴らすことではなく、あたかも滝壺に轟轟たる流水が落ちていくといった感じです。彼独自の演奏スタイルによって、文字通り滝に打たれる如くの音楽体験です。第5番は第8番とともに、終楽章のコーダの構えが大きく、その分、落差の大きな巨滝を眼前にしているようなイメージです。何にでも煩型のチェリビダッケは聴衆の拍手もあまり好まなかったようですが、終演後の猛然たる拍手は、当日の感動のバロメーターでしょう。

[2016年1月17日]

【第7番】

第7番 BFO 1992年3月31日、4月1日 シャウシュピールハウス ベルリン  [DVD] EuroArts 2011404

1954年に袂を分かってのち38年ぶりにベルリン・フィルの指揮台に立った歴史的公演です。晩年、宿敵だったカラヤンはウィーン・フィルと本曲を取り上げました。一方で、カラヤン亡きあと、チェリビダッケはベルリン・フィルに“帰還”したわけで、ジャーナリスティックにもそれは大きなニュースでした。

両演奏の共通点は、遅いこと、メロディがこよなく美しいことです。しかし、両巨頭ともに往時の“覇気”では、それまでの録音とどちらが魅力的かは微妙です。この演奏も立派ですが、チェリビダッケ特有の大きな構造設計が見えにくい気がします。ヴァントの晩年のベルリン・フィルとの共演でも同様な感想をもったのですが、この抜群の起用さを誇る楽団は、指揮者との折り合いのつけ方でも「優秀」で、冷静に難なくこなします。しかし、それが、ときに透けて見えるような記録でもあります。歴史的邂逅なれど、チェリビダッケにとってもベルリン・フィルにとっても、これはベスト盤ではないと思います。

【第8番】

 

第8番 MFO 1993年9月12、13日 ガスタイク・フィルハーモニー ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50701

一音、一音が、フレーズが、パッセージが固有の意味をもっているのだ、と繰り返し練り込むような演奏(ノヴァーク版1890年)です。ミュンヘン・フィルの弦楽器群は、文字通り一糸乱れぬ臨場(ライヴ盤とはとても思えません)、対して管楽器群の威力は凄く、これが合わさったときの濃度の高さを形容する言葉がなかなか見つかりません。適切な比喩ではありませんが、水の流れではなく“液状化”といった感じでしょうか。

第1楽章が遅く重いので、つづくスケルツォは通常より遅いにもかかわらず、もたれ感がなくハープの響きが清涼剤のように感じます。第3楽章では低弦のあえて混濁した響きではじまり、それが曲の進行とともに音が徐々に純化、浄化されていくような展開をとります。各楽器パートの意味ありげな表情の豊かさは、ブルックナー自身の想定をはるかに超えているかも知れません。しかし、不思議なことにその背後には、なにか霊的で静謐なものがあるように感じさせます。この一種の「濾過過程」の表現が有効に機能しているからでしょう。演奏に一瞬の弛緩がなく、ゆえにこの楽章だけで35分の遅さがさほど苦になりません。終楽章もテンポは動かさず遅さも不変です。緊張感の持続の一方、強奏部の迫力がここでの魅力です。全体のバランスはけっして崩しませんが、ここぞというところでは、思い切り弾き、鳴らしています。ケンペ時代の録音も同様ですが、こうした場面でのミュンヘン・フィルの質量には圧倒されます。

[2020年8月25日]

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◆ヴァント(Günter Wand, 1912年~2002年)

ヴァントはチェリビダッケと同年の生まれです。1938年ケルン近くのデトモルト州立歌劇場で、その後ケルン歌劇場を足場に一歩一歩実力を蓄え、ケルンを本拠地に1946年同市の音楽総監督に就任します。手兵ケルン放送交響楽団とのブルックナー交響曲全集はその代表作です。

 ヴァントのブルックナーの特色は、テキストを徹底的に研究し忠実な演奏を目指すことや各楽章間の最適な力配分を常に意識した演奏といった点ではヨッフムに似ています。その一方で、テンポ・コントロールは常に安定しつつも決して過度に遅くならず、むしろ時に軽快なさばきを見せる(それゆえ、全体に「重すぎる」感じを与えない)技巧ではシューリヒトと共通するところもあります。  

さらに、音の凝縮感をだすためにおそらくは相当な練習で音を練りあげる名トレーナーとしての顔ではベームと二重写しともいえます。しかし、そうした印象を持ちながら聴いたとしても、全体の印象からはやはりヴァントはヴァントであり、右顧左眄しない解釈にこそ彼の独自性があると思います。

ヴァントの晩年の録音はいまも人気がありますが、小生は1970年代の演奏をより好ましく感じます。そのいくつかを見てみましょう。

 

全集(第1番~第9番) ケルン放送響  1974~1981年 WDRグローサー・ゼンデザール RCA Red Seal 88697776582

ヴァントのセッション録音の全集です。全曲、均一な優れたものですが、特に番数の若いものおよび第6番に、ヴァントらしい丁寧な音づくりの至芸がみえるように思います。小生は晩年のベルリン・フィルやミュンヘン・フィルの演奏よりも永年苦楽をともにしてきたケルン放送響との演奏こそ、ヴァントらしさが横溢しており座右においています。

【第1番】

 ケルン放送響は1947年に創設され、ケルンと縁の深いヴァントは当初からこのオーケストラと演奏をともにしてきました。第1番は、ブルックナーがリンツで初演し、その稿である<リンツ版>とその後、ほぼ四半世紀をへて作曲者自身が大きな校正をくわえた<ウィーン版:作曲者晩年の1890/1891年改訂>があります。小生は、リンツ版ではノイマン、サヴァリッシュが、ウィーン版ではシャイーの少しく濃厚な演奏が好きですが、ヴァントの本盤はそれに比べて恬淡とはしていますが同じくウィーン版の代表的な1枚で、実に清々しい名演です。

【第2番】

 第2番では、ジュリーニ、ヨッフムをよく聴きますが、改めてヴァント/ケルン放送響に耳を澄ましてみて、これは実に良い演奏だと思います。シューリヒト的な小鳥の囀りに似た柔らかな木管の響きに癒され、第4楽章ではミサ曲第3番<キリエ>からの楽句には深い感動を覚えます。第2番では凡庸な演奏には時に感じる全体構成上の<ダレ>も全くありません。練り上げられた技量とブルックナー第一人者としての自信と自負に裏打ちされた名演です。

[2008年6月1日]

【第3番】

第3番も見事な演奏です。細部まで練りに練った演奏で、自由な音楽の飛翔とは無縁な、理詰な解釈と一部も隙のないような凝縮感が特色です。それでいて重苦しさがないのは、時に軽妙なテンポでいなすコントロールゆえでしょうか。ブルックナーを聴きこんだリスナーにこそ高く評価される練達の演奏です。

[2006年6月9日]

【第4番】

1976年12月、ヴァント64才の録音です。すでにケルン放送響とは30年近い実績を有しており、その意味では相性の良いコンビによる得意の演目でしょう。この当時、ヴァントは日本で紹介される機会に乏しく、また、ブルックナーそのものの注目度もけっして高くはありませんでした。ヴァントは1968年に来日し、読売日本交響楽団を指揮していますから、76年の時点で日本でも、けっして無名ということではなかったろうと思いますが、よもや晩年、そのブルックナー演奏がかくも熱狂的に迎えられることになると予測した向きは多くはなかったはずです。

 感情を抑制しつつもその実、熱っぽく、一方でしっかりとツボを押さえた抑揚のきいた演奏です。「練られた演奏」とでもいうべきでしょうか。ヴァントは、晩年のシューリヒトがそうであったように年とともに知名度をあげ、ブルックナーの大家と目されるようになります。ベルリン・フィルやミュンへン・フィルなどとも同番の名演を残しており、それとの比較では本演奏はいわゆる「旧盤」ですが、その解釈は一定でどのオケを振ってもブレは感じません。じっくりと作品に沈潜して、内在する音楽を見事に引き出すことに関しては、プロとしての安定性ある抜群の技能者でした。これは第4番に限りませんが、ブルックナーの荘厳な世界を見事に表現していく技量は確かで、リスナーに敬慕する気持ちを自然に抱かせます。

 

【第6番】

1976年8月の録音です。秘めた意志力が、すべて真率な「音」に転化されていくような演奏です。そうした「音」束が生き生きと、再現・創造の場でたしかな「運動」をしていると感じます。

 第6番についての先入主 ― 第5番と第7番の谷間のブルックナーにしては比較的小振りの曲で仄かな明るさが身上(これはベートーヴェンの第4番や第8番からのアナロジーかも知れませんが)-といった見方はヴァントの演奏では無縁です。

 色彩的には全般に暗く、むしろ、第5、6、7番には底流で作曲上の「連続した一貫性」があること、そこをあえて忠実に再現しようとする解釈を感じます。その姿勢は、奇をてらわず、いつもながら淡々として臨んでいるともいえるでしょうし、一方、上記のような通説、定番の見方などは、自分には一切関係なし、己は己の道をいくといった強き意志があるのではないかと思わせます。

 ヴァントらしい細部の丁寧な処理も他番の演奏と変わりません。しかし、第6番では、なかなかしっくりとする演奏に出会わないなかにあって、本盤はあくまでも「ヴァント流」を貫くことで他が追随できない高みに上った名演といってよいと思います。

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 ベルリン・ドイツ響 1991年10月6日(ライヴ) コンツェルトハウス ベルリン       Profil PH09042

ヴァントのブルックナーの第5番には数々の音源があります。早くはケルン放送響の1974年のセッション録音、日本でのN響ライヴ(1979年11月14日、東京、NHKホール)、北ドイツ放送響ライヴ1(1989年10月8日〜10日、ハンブルク、ムジークハレ)、BBC交響楽団ライヴ(1990年9月9日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール)、ミュンヘン・フィルライヴ(1995年11月29日&12月1日、ミュンヘン、ガスタイク)、ベルリン・フィルライヴ(1996年1月12~14日、ベルリン、フィルハーモニー)、北ドイツ放送響ライヴ2(1998年7月11日、リューベック、コングレスハレ)などです。これは、根強い人気の裏返しであり本番を“十八番”にしていた証左でしょう。

  小生はこのうちケルン放送響盤をよく聴きますが、本盤は1991年のライヴ音源です。

  熱演です。他の演奏にくらべてオケの相対的な弱さを指摘する向きもありますが、冒頭からの顕著なライヴの高揚感と集中度に注目すれば魅力的な演奏です。なにより、ヴァント79才の漲る気力に驚きます。朝比奈隆の晩年の耀きを思い出します。両人ともブルックナー指揮者として堂々たる自負心があればこその臨場です。多少の技術的な瑕疵などは問題にはなりません。ヴァントの演奏が好きで、また第5番の複雑なる心象に惹かれるリスナーであれば一度は聴いて損のない記録です。

 

【第9番】

Wand-Edition: Symphony 9 第9番  シュトゥットガルト放送響 1979年6月24日(ライヴ) オットーボイレン ベネディクト修道院バジリカ聖堂 SEVEN SEAS KICC-967

 ヴァントの第9番にも数々の音源があります。ケルン放送響の1979年6月(シュトルベルガー・シュトラーセ・シュトゥディオ、ケルン)でのセッション録音が先行。その後、晩年のライヴ録音も多く、ベルリン・ドイツ響(1993年3月20日、ベルリン、コンツェルトハウス)、ミュンヘン・フィル(1998年4月21日、ミュンヘン、ガスタイク、フィルハーモニー)、ベルリン・フィル(1998年9月18、20日、ベルリン、フィルハーモニー)、北ドイツ放送響1(2000年11月13日、東京オペラシティ・コンサートホール)、北ドイツ放送響2(2001年7月8日、リューベック、コングレスハレ)などが知られています。

  本盤は、ケルン放送響と同時期の1979年、シュトゥットガルト放送響とのライヴ録音です。シュトゥットガルト放送響の演奏は大層充実しています。それもそのはず、この時期(1971~79年)、同団ではかのチェリビダッケが君臨し、ブルックナーを集中的に取り上げており徹底的に鍛えられていた時代だからです。本演奏は、比喩的にいえば、高度地域で猛練習してきたマラソン選手が、この日ばかりは低地で伸び伸びと走りこんでいるような雰囲気かも知れません。

 ヴァントは好んでシューベルトの『未完成』とこの第9番を組み合わせて演奏会を行っていますが、両曲ともに胸を張る自信の演目だったのでしょう。ヴァント66才の本演奏でもその息吹を強く感じます。さらに、残響のながい教会での収録であることも本盤の特色で、第9番の詠嘆的な終曲(第3楽章)は力感にあふれ、かつ心地よき響きです。

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ブルックナー・コラム Ⅴ

フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph)皇帝   フランツ・ヨーゼフは、実質栄光のハプスブルク帝国最後の皇帝です。しかし、この皇帝は大きく歴史が転回していく時代にあって、勤勉に職務を全うした君主であったようです。  朝は4時に起床し、夜9時就寝、公務は10時間という規則正しい生活をおくり、また請願者には厭うことなく会い、時には1日100名に及んだともいわれます。1848年3月革命を契機として18歳で即位しその後帝位68年という長期政権でしたが、国際的な、内政的な状況は厳しくとも、帝都ウィーンはこの皇帝の努力によって支えられ、世紀末文化の大輪を咲かせます。ブルックナーはフランツ・ヨーゼフの6才年上の同時代人です。以下でこの皇帝との個人的な関係もみていきますが、まずフランツ・ヨーゼフ個人および家族についての即位以降の簡単な年譜を記します。   1848年 即位 1853年 マジャール愛国者に襲われて負傷 1857年 2歳の長女を喪う 1867年 メキシコ皇帝の弟マクシミリアンが現地で処刑(皇位継承権は事前放棄) 1889年 皇太子ルドルフがマリー・ヴェツェラと情死(皇位継承者の死) 1898年 皇后エリーザベトがジュネーブで暗殺さる 1914年 甥フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺さる(皇位継承者の死) 1916年 逝去(2年後に帝国終焉)   その人生は、「夭折、処刑、情死、暗殺と、まるで不幸の見本市のごとく・・・」ということになりますが、よくこれだけの試練に耐えて国政に専心できたものです。執務は軍服でおこない「カール6世がウィーンにもちこんだスペイン風の慣習を好み、電話、自動車、タイプライターは避け、電気を用いず、最後までランプのもとで仕事をし、バス・ルームは作らせず、旧式のバス・タブをそのつど運ばせていた、という」古風な生活スタイルをあくまでも堅持した皇帝でした(池内紀監修(1995)『オーストリア』新潮社,p.36.)。   ≪政治・外交―激動の時代≫    ブルックナーが生きた時代は、彼個人の生活史とは別に激動の時代でした。オーストリアをめぐる外交事項を以下、ピック・アップしてみます(『オーストリア ミシュラン・グリーンガイド』(1999)実業之日本社,p.27.)。   【1848~1916年 フランツ・ヨーゼフの治世】   1848~1849年 ウィーン暴動(3月革命)。メッテルニヒ失脚。オーストリアはロシアの助けを得て、ハンガリー民族運動を鎮圧 1852~1870年 ナポレオン三世の干渉。オーストリアはマジェンタとソルフェリーノで敗北、その結果、ロンバルディアを失う 1853~1856年 クリミア戦争。オーストリアが介入し、ロシアはバルカン侵略から撤退をしいられる (1861~1865年 アメリカ・南北戦争) 1866年    プロイセン=オーストリア戦争。オーストリアはケーニヒグレーツの戦いに敗北。ドイツ政策から撤退 1867年    オーストリア=ハンガリー二重帝国成立 1878年    オーストリア、ボスニア・ヘルチェゴヴィナを占領 1914年    第一次世界大戦開戦   【1916~1918年 カール一世(Karl Ⅰ)の治世】   オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体。ハプスブルク帝国の終焉    ≪ブルックナーとの関係≫   ブルックナーは当時、オーストリアを代表する当代随一のオルガン奏者でした。この事実なくして、彼とハプスブルク家との関係はありえなかったでしょう。  ブルックナーは、1886年9月23日にフランツ・ヨーゼフ皇帝に謁見を許されています。彼にとって生涯最高の栄誉の場であったかも知れません。しかし、ここにいたるには、それなりの「前史」がありました。    ブルックナーは1868年から78年まで宮廷礼拝堂のオルガニスト候補者であり、1878年から92年まで宮廷礼拝堂楽団の正式メンバーでした。すなわち、彼はフランツ・ヨーゼフ皇帝に仕える立場に44才から24年間の長きにわたってあったことになります。  その初期の頃、ブルックナーはオルガン奏者として「海外遠征」で大変な成功を収めています。1869年4月から5月にかけてナンシーの聖エプヴル教会とパリのノートル・ダムでの、そして、1871年7月から8月にかけてロンドンのアルバート・ホールと水晶宮でのオルガンの即興演奏によって、ブルックナーの抜群の技量はあまねく帝都ウィーンで知られるところとなりました。    もともとナンシー行きも気の進まなかったブルックナーですが、当時はいまだ関係の良かったハンスリックのすすめもあり挙行しました。海外からはたった一人の参加でしたが、ここで大成功を収め、さらに関係者からパリ行きを懇願されます。そして、パリではセザール・フランク、サン=サーンス、オーベール、グノーらの音楽家もブルックナーの演奏に接しました。2年後のロンドンでの成功はそれ以上であり、ブルックナーこそオーストリアが誇る最高のオルガニストという評価をえることになります。  それ以前にも、ミサ曲ニ短調の初演(1864年)にオーストリア大公が臨席していることからも、宗教音楽の作曲家としてのブルックナーの名前は知られていましたが、なんといってもこの「海外遠征」の嚇々たる成果は他に代えがたいものでしょう。    時をへますが、1886年、ヘルマン・レーヴィやオーストリア皇帝の縁者である公女アマーリエ・フォン・バイエルンらの尽力により、7月9日にブルックナーはフランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与され、金銭面での援助にくわえて第3番(第3稿)および第8番のシンフォニーの印刷費も皇帝がだしてくれることになります。こうした経緯から1890年3月、ブルックナーは完成した第8シンフォニーをフランツ・ヨーゼフ皇帝に献呈します。    同年7月大公女マリー・ヴァレーリエ(先のアマーリエ・フォン・バイエルン改名)の結婚式でブルックナーは新婦の希望により「皇帝讃歌」の主題を含むオルガンの即興演奏を行い、これには臨席した皇帝も心を動かされたと伝えられています。前年の1889年皇位継承者たる皇太子ルドルフは若き愛人マリー・ヴェツェラと情死しています。傷心の皇帝はブルックナーのオルガンをどのような気持ちで聴いていたことでしょう。    一方、ブルックナーの蔵書には1867年に処刑されたメキシコ皇帝マクシミリアン(フランツ・ヨーゼフの弟、メキシコ行きはナポレオン三世にそそのかされてのことといわれ、出国に際して皇位継承権を放棄した)に関するものがあったとのことですが、皇帝に仕えるオルガニストとしては当然の関心事項だったかも知れません。    晩年の1895年に、ブルックナーはベルヴェデーレ宮の管理人住居にうつり、ここで死を迎えますが、この住居の提供も皇帝の好意によるものでした。そしてこの住居の所有者は、当時皇帝の甥で1914年サラエボで暗殺される皇位継承者フランツ・フェルディナントでした。落日のハプスブルク帝国とブルックナーの後半生は、このように浅からぬ関係にあったことがわかります   <参考文献> ・江村 洋(1994)『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍. ・塚本哲也(1992)『エリザベート ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋. ・土田英三郎(1988)『ブルックナー』音楽之友社. ・デルンベルク(1967) 『ブルックナー』和田旦訳,白水社.
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第6章 クレンペラー、ワルター、シューリヒト

◆クレンペラー(Otto Klemperer, 1885~1973年)

クレンペラーはフルトヴェングラー亡きあと、19世紀「最後の巨匠」との異名をとった人物です。特に、私淑したマーラーやブルックナーなどの演奏では独自のスケールの大きさを示すことで多くのファンがおり、その音源は、いまも続々とリリースされています。現代人に強くアピールするものがあるからでしょう。クレンペラーの復権といってもよい雰囲気です。

晩年のニュー・フィルハーモニア管弦楽団との録音としては、第4番(ノヴァーク版1953年、1963年9月)、第5番(原典版、1967年3月)、第6番(ハース版、1964年11月)、第7番(原典版、1960年11月)、第8番(ノヴァーク版、  1970年10月)、第9番(ノヴァーク版、1970年2月)がありますが、ここでは他の音源についても取り上げます。

【第4番】

オットー・クレンペラー 第4番 ケルン放送響 1954年4月5日(ライヴ)WDRフンクハウス Medici Arts MM001

 クレンペラーの第4番では、フィルハーモニア管弦楽団、ウィーン交響楽団、バイエルン放送交響楽団などとの録音がありますが、本盤はライヴ特有の音のザラつきもあって、只ならぬ異様な空気漂うライヴ音源です(ノヴァーク第2稿)。冒頭からいつ破裂するかもしれない爆弾をかかえながら時間がビリビリと軋んで経過していくような感じです。弛緩しない緊張感のままやっと第1楽章が終わりますが、第2楽章に入っても「戦闘状況」は解除されずに、静かな行軍は粛々と進みます。途中で管楽器が進軍ラッパのように激しく咆哮し、木管もあたかもまわりの様子を窺う斥候兵のような神経質な音で応えます。続く第3楽章冒頭は勝利を予告するファンファーレのように奏され、リズムが厳しく刻まれ、管楽器の雄叫びは連射砲のように撃たれます。木管楽器の田舎風のレントラーですら行軍の小休止にすぎません。終楽章、やおら行軍のスピードが上がり、全軍は総攻撃の準備に入ります。明るく曙光が差して勝利の予感ののち、その緩急の過程が幾度も繰り返され、その都度一層激しい音が響きわたり強奏をもって終結しますー以上、下手な比喩ですが、なんとも雄雄しき「ロマンティック」です。

【第5番】

第5番 VPO 1968年6月2日(ライヴ)ウィーン楽友協会大ホール Music & Arts CD751             

本盤の魅力はなんといってもウィーン・フィルとのライヴ録音であることです。音楽の構築が実に大きく、テンポは遅く安定しており滔々とした大河の流れのような演奏です。その一方、細部の音の磨き方にも配慮はゆきとどいています。録音のせいもあるかも知れませんが、ウィーン・フィルらしい本来の艶やかなサウンドを抑えて前面にださず、むしろ抜群の技量のアンサンブルを引き立たせている印象です。そこからは、ウィーン・フィルがこの巨匠とのライヴ演奏に真剣に対峙している緊張感が伝わってきます。

 また、ブルックナーの交響曲の特色である大きな構造的な枠組みをリスナーは聴いているうちに自然に体感していくことになります。マーラーが私淑していたブルックナー。そのマーラーから薫陶をうけたクレンペラーですが、マーラーの解釈が、クレンペラーを通じて現代に甦っているのでは…と連想したくなるような自信にあふれた演奏で、晩年のクレンペラーの並ぶものなき偉丈夫ぶりに驚かされます。

[2019年1月22日]

【第6番】

Sym 6/Wesendonck-Lieder 第6番 ニュー・フィルハーモニア管 1964年11月   EMI Classics CDM5670372

 第6番は、ハース版での演奏です。1964年の録音ですが、その古さを割り引いても大変な名盤だと思います。第6番は第1、2楽章にウエイトがかかっていて特に第2楽章のアダージョの美しさが魅力ですが、緩徐楽章の聴かせ方の巧さはマーラーの第9番などと共通します。一方、クレンペラーの照準はむしろ後半にあるように思えます。短いスケルツォをへて一気にフィナーレまで駆け上る緊縮感は他では得難く、ここがクレンペラーの真骨頂でしょう。第6番ではいまだ最高レベルの演奏と思っています。

[2019年2月2日]

【第8番】

ブルックナー: シンフォニー8(Bruckner: Symphony No.8) 第8番 ケルン放送響 1957年6月7日(ライヴ)WDRフンクハウス Medici Arts/Medici Masters MM021

クレンペラーの第8番では、最晩年に近い1970年ニュー・フィルハーモニア管を振ったスタジオ録音もありますが、こちらは第4楽章で大胆なカットが入っており、それを理由に一部には評判が芳しくありません。一方、本盤は遡ること13年前、カットなしのライヴ録音です。

 巨大な構築力を感じさせ、またゴツゴツとした鋭角的な枠取りが特色で、いわゆる音を徹底的に磨き上げた流麗な演奏とは対極に立ちます。また、第3楽章などフレーズの処理でもややクレンペラー流「脚色」の強さを感じる部分もあります。小生は日頃、クナッパーツブッシュ、テンシュテットの第8番を好みますがが、このクレンペラー盤は、その「個性的な際立ち」では他に例をみませんし、弛緩なき集中力では両者に比肩し、第1、第4楽章のスパークする部分のダイナミクスでは、これらを凌いでいるかも知れません。ケルン響は、クレンペラーにとって馴染みの楽団ですが、ライヴ特有の強い燃焼度をみせます。「一期一会」と、いまでも日本では語り草になっているマタチッチ/N響の第8番に連想がいきます。リスナーの好みによるでしょうが、小生にとっては第8番ライヴ盤でのお気に入りです。

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◆ワルター(Bruno Walter, 1876~1962年)

次はマーラー愛弟子ワルターについてです。クレンペラーよりも9才年上で、指揮者としてはマーラーの一番弟子ともいえる存在です。しかし、巨魁クレンペラーは自身、作曲家も任じており、「作曲家にして指揮者」マーラーの本来の跡目は自分であると思っていた“ふし”もあります。また、ワルターの解釈には異論をもっており、進歩がないとの批判的な見方もとっていたようです。ある時、それをワルターに直接話したところ(「お変わりない演奏ですね」といった皮肉な言い方だったようですが)、ワルターはクレンペラーに慕われていると思っていたのか、好意的に受けてお礼を言ったとの面白いエピソードもあります。

トスカニーニ/NBC交響楽団と同様、ワルター/コロンビア交響楽団は、指揮者の圧倒的な実力によって一時期に優秀なオーケストラが結成された稀有な事例です。もちろん、いまも小沢征爾/サイトウ記念オーケストラのようなアド・ホックな組み合わせはありますが、前二者のような永きにわたる事例はけっして多くはありません。

 ドラティなどハンガリアン・ファミリーが手兵を組織した素晴らしい名演の事例も思い浮かびますが、特定の分野にこだわらず、広範な演奏記録を残したという点において、やはりトスカニーニとワルターは傑出しています。

さて、ブルックナーの交響曲については、トスカニーニがあまり取り上げなかったことに対して、1929~1933年にはゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターも務めたのち渡米したワルターは積極的に紹介につとめたようです。

 そのワルター/コロンビア交響楽団によるブルックナーは貴重な記録です。ワルターはかって「ブルックナーは神を見た」とコメントしましたが、そうした深い心象が演奏の背後にあるのでしょう。クレンペラーにせよワルターにせよ、演奏に迷いというものがありません。己が信じる作曲家の世界をできるだけ自分の研ぎ澄まされた感性を武器に再現しようと試みているように感じます。この時代のヴィルトオーゾしかなしえないことかも知れません。

【第4番】

ブルックナー:交響曲第4番 第4番  コロンビア響 1960年2月 Sony Classical SRCR-2320

ワルターの第4番ではNBC響とのライヴ録音もあります。これはクレンペラーほどではないにせよ、思いがけず「剛の者」の男性的な突進力ある記録ですが、対して20年後の晩年の本盤は、はるかに緩やかで落ち着きに満ちています。

特に第2楽章の諦観的なメロディの奥深さは感動的で、永年この曲に親しんできた大指揮者自身のあたかも送別の辞を聴いているような感すらあります。第3楽章「狩のスケルツォ」は軽快ですが、中間部では一転テンポを落とし、むしろその後の安息や過去の追想を楽しんでいるかのようです。終楽章は引き締まった秀演です。メロディが流麗で胸に響く一方、終結部ではNBC響盤を彷彿とさせる渾身のタクトも連想させます。

発売後、「ロマンティック」の定番との評価がながく続きましたが、今日聴きなおしてみると、オーケストラの統制が折々でやや弱く緊迫感に一瞬空隙があるようにも感じます。されど、老練な大家らしく過度な強調を一切排除した、安定感ある自然体のブルックナーが好きな向きには、ヴァントや朝比奈隆とも共通し、いまも変わらぬ訴求力があるでしょう。

[2017年5月28日] 

<img width="62" height="62" src="" alt="Bruckner 第4番  NBC響 1940年2月10日(ライヴ) Pearl GEMMCD9131

これは、コロンビア響を振った前述の1960年スタジオ録音盤を遡ること約20年前のNBC響とのライヴ盤です。

  録音はレコードの復刻でしょうか、雑音、ヒスが多く「凄まじく悪い」ですが、この演奏の迫力はそれを凌駕して貴重な記録となっています。比較的ヒスが少なく音が録れている第3楽章から聴いてみるとよいと思います。このスケルツォのメロディのなんとも暖かな素朴さ、リズムの躍動感、次第に強烈なパッションが表出するオーケストラの高揚感、そして“ブルックナー休止”そのままの突然の楽章そのもののエンディング。こんな演奏にはめったにお目にかかれません。一点の曇りもない明快な解釈に裏打ちされ、しかも緊張感があり迫力も十分です。

 この第4番の演奏は、「ロマンティック」といった感傷性とはまったく異質な、「剛」のものの行進であり、晩年の柔らかなワルターのイメージとも一致しません。管楽器は輝かしく咆哮し、ティンパニーの連打は前面で多用されて全体の隈取りはくっきりと強く、テンポは全般にはやく(16:44,14:45,8:29,18:48/計58:48)、しかも大胆に可変的です。とても男性的できわめてパッショネイトな演奏です。原典版、改訂版といった厳密さとは無縁な大指揮者時代の貴重な遺産でしょう。

[2012年4月4日]

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番 第7番  コロンビア響 1961年3月 Sony Classical SRCR-2322

抑揚はありますが透明な響きとともに第1楽章は開始されます。低弦と金管は重厚に、ヴァイオリンと木管のメロディはクリアに奏され、これが見事に融合されます。色調は暗から明に、悲から喜に、そしてその逆へと変幻自在ですが、基本線はしっかりとしているので聴いていて安定感は揺るぎません。第2楽章は意外にも恬淡としておりテンポも遅くはありません。葬送音楽というよりも、ブルックナーの代表的な美しきアダージョを、丁寧に力感をもって再現しているようです。

第3楽章 スケルツォは律動感がありそれなりにドラマティックながら終始オーバーヒートしない抑制のきいた冷静さが滲みます。経験のなせる落ち着きでしょうか。終楽章、第1楽章同様、オーケストラを誘導しつつ旋律の明晰さ、豊かさが際立ちます。自然で無理のないテンポ設定、重畳的で素晴らしいハーモニーには、背後に大家の差配を感ぜずにはおきません。全体として、一切思わせぶりのない、堂々とした正攻法のブルックナーです。

[2017年5月29日]

なお、第7番では、ニューヨーク・フィルとのライヴ音源(1954年11月23日)もあります。

【第9番】

ブルックナー:交響曲第9番 第9番 コロンビア響 1959年11月 Sony Classical SRCR-2324

きびきびとした運行、しかし厳格なテンポは維持されています。つややかにフレーズは磨かれながら全体の構成は実にしっかりとしています。弦楽器の表情豊かな色彩に加えて、管楽器は節度ある協奏でこれに応え、第9番の良さを過不足なく引き出しています。しかも、演奏の「アク」をけっして出さずに澄み切った心象のみを表に出そうとしているように見受けられます。

[2007年5月25日]

第9番では古い放送用ライヴ音源でフィラデルフィア管(1948年2月)や、ニューヨーク・フィルとのライヴ(1946年3月17日Carnegie Hall、1953年2月7日)も知られています。

 

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◆シューリヒト(Carl Schuricht, 1880~1967年)

シューヒリヒトは、大器晩成型の演奏家です。律儀で真面目な人で1944年までドイツの小都市ヴィスバーデンの音楽監督を30年以上も務めていました。同時代人でありながら、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのようなナチズムとの切迫した関係についてもあまり語られていません。ここを退任した時点で64才。指揮者の世界は「50、60(才)は洟垂れ小僧・・・」のようですから、その後活躍することは珍しくはないにせよ、シューリヒトの場合、たとえばベイヌム(57才で逝去)との比較でも、どちらかといえば悠々自適な第二の人生で、突然大ブレイクしたような印象です。

シューリヒトは1956年のウィーン・フィルのはじめての米国への遠征に同行しその名を高めます。これははじめから予定されていたわけではなく、直前に急逝した大指揮者エーリッヒ・クライバーの文字通りの「ピンチ・ヒッター」として急遽首席に選出され登板したためでした。しかし、この成功が、その後の飛躍の大きなモメンタムになります。時に76才、遅咲きを超えて普通であればすでに枯淡の年齢です。

 1958年公演直後の「ウィーン・フィル、クナッパーツブッシュ、シューリヒトとのヨーロッパ演奏旅行の楽団員用スケジュール小冊子」なるものがあります。この2人の関係が気になります。シューリヒトは、晩年に大舞台で活躍したので、クナッパーツブッシュの方が直観的にははるか年上に思えますが、実は、シューリヒトはクナッパーツブッシュよりも8才年長であり、しかも2年近く長生きしていることをまず確認しておく必要があります。

 ウィーン・フィルとの関係では、シューリヒトは、その活動の最盛期が、クナッパーツブッシュより後になりますが、この二人は、「難物中の難物」ウィーン・フィルのメンバーが心から敬慕したといわれる数少ない生粋のドイツの指揮者でもありました。

しかし、その演奏スタイルは全く異なります。その典型が第8シンフォニーで、クナッパーツブッシュやチェリビダッケがミュンヘン・フィルを振った演奏は、どこまでもテンポを遅くとり、これでもかというくらいブルックナー・サウンドをじっくりと奏でていきます。その対極ともいうべき演奏がシューリヒトです。

【第8番】演奏時間比較

  シューリヒトクナッパーツブッシュ
   版 1890年レーヴェ等の改訂版 
第1楽章 15:31 15:51
第2楽章13:5815:54
第3楽章21:42  27:42
第4楽章 19:4226:00
録音 1963年12月1963年1月  

   

 ほぼ同時期の録音を比較します。版の違いは前提ですが、楽章ごとに両者の演奏時間は次第に乖離していきます。第1楽章は20秒の僅差、第2楽章は約2分の差、第3楽章は6分の差、第4楽章は6分18秒の差ですから小曲なら1曲がすっぽり入ってしまう位の大差です。よって聴き手にとっては、後半になればなるほど、じわり、ずしりとそのテンポの差が累積してきます。また、オケも重たい音色のミュンヘン・フィルに対して、柔らかなウィーン・フィルですから、そのコントラストも大きいと感じます。

  

【第9番】演奏時間比較

  シューリヒトジュリーニ
 原典版 ノヴァーク版
第1楽章 25:30 28:02
第2楽章10:25 10:39 
第3楽章20:15 29:30 
録音 1961年 1988年

次に第9番について、同じウィーン・フィルを振ったシューリヒトとジュリーニを聴き比べてみましょう。ジュリーニはとにかく遅く、フレーズをこれでもかと引っ張る演奏です、対してシューリヒトは第3楽章などは実に恬淡、スッキリと運行しており時間も9分以上も短い。

 さて、両者はどちらも名演ですが、この比較では小生はシューリヒトの方を好ましく感じます。同じウィーン・フィルでもジュリーニは、濃厚すぎて、少しくそこに「けれん味」を感じてしまいます。それにブルックナーなら、いくら遅くしてもよいということはないはずです。第3楽章はいささかテンポが重すぎて疲れます。これは、晩年のカラヤン、ジュリーニに共通しますが完璧な音の再現のためにテンポを犠牲にしているような部分がないでしょうか。それに対して、シューリヒトは音楽の流れが自然であり、凝縮感も十分で心が「たゆとうて」聴けます。それにつけても半世紀以上を隔てた2つの録音に共通してウィーン・フィルの柔らかな音色は喩えようがなく美しいもので本曲に実にあっている響きです。多くのブルックナー指揮者がこの曲ではウィーン・フィルと共演したい気持ちがわかる気がします。

以上のように、シューリヒト/ウィーン・フィルの第8番や第9番を聴くにつけ、その軽快なテンポ、絹のような手触りの弦楽器の響き、小鳥の囀りにも似た木管のよくぬける吹奏、金管の抑制されつつも十分なダイナミクスに惹かれます。作為がない、いかにも自然の音楽の流れが心地よく、しかもそれがゆえに一度なじんでしまうと、その精逸な演奏の独自性が他に代えがたいものに思えてきます。シューリヒトは天才肌の指揮者ではありませんが、しかし人間国宝的な「至芸」をもった音楽家なのだと思います。

【第3番】

第3番 VPO 1965年12月 EMI Classics  TOCE-3404

シューリヒト/ウィーン・フィルによるブルックナーの交響曲録音は、第9番(稿:原典版、録音:1961年、演奏時間:56:17)、第8番(1890年版、1963年、1:11:14)の順に行われ、本第3番は、1889年版による1965年12月2~4日の収録です(55:17)。なお他に、第5番については1963年2月24日(ウィーン楽友協会大ホール)ライヴ盤もあります。

このコンビによって第8番、第9番で歴史的名盤を生み出したわけですから、本盤への期待は否応なく高まりますが、その割に意外にも注目されないのは、同じウィーン・フィルで、先行してクナッパーツブッシュ(1890年版、1954年4月)、本盤の5年後のベーム(ノヴァーク版1890年、1970年9月)という非常な名演があり、ちょうどその谷間に位置していることも一因かも知れません。

クナッパーツブッシュの“快演”からは、第3番の分裂症的な心理のボラティリティが見事に浮かび上がってきますし、ベームの堅牢な演奏スタイルは、その心象をある意味、克服していくようなエネルギーに満ちています。

そうした点では、シューリヒトはいつもどおりの彼であり、第3番に限って特に対応をかえているわけではありませんが、両者に比べて温和な印象があります。

中間2楽章が実に美しく、その一方でシューリヒトらしい明るい力感にも富んでおり聴きどころかと思います。管楽器をあまり突出させない録音スタイルからは、メロディラインがくっきりと浮かびあがってきます。終楽章も沈着冷静な音づくりに最大限、集中している様子が感じとれフィナーレは感動的です。こうしたアク抜けした演奏もけっして悪くはありません。

さて、何度も聴いているとこの曲が当初、ウィーンの「目利き」の連中に受け入れられなかったことも理解できるような気になります。古典的な作曲ルールをけっして踏み外さないブラームスを堪能していたウィーン子が、はじめてライヴで聴く恐ろしく長くとても「異質の音楽」がこの第3番ではなかったか。

 アーノンクールやシノーポリは「やり手」でこの曲のポレミークさ(論争性)を結構うまく使って、当時においてはおそらく感じたであろうブルックナーの「不思議な変調」(現代人のブルックナー・ファンにとっては実は堪らぬ魅力の源泉)を強調しているような気がしますが、シューリヒトは平常どおり奇を衒わず淡々とこなしているように感じます。第3番は良くも悪しくもブルックナーの「地金」が強烈にでている曲であり、そこをどう表現するかどうかのアクセントの違いかも知れませんが、ここはアクの強い演奏に惹かれるか、それともシューリヒトのように“アク抜け”を好ましく思うかの選択肢でしょう。 

 

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番 第7番 ハーグ管 1964年 デンオン COCO-6591

1960〜70年代ですが「コンサートホール・ソサエティ」といったレコードの頒布会があり、ブルックナーのレコードが少なかった時代に手に入れて聴いたことを懐かしく思い出します。ハーグ・フィルといったあまり知名度のないオケで、今日、高度な演奏に聴き慣れたリスナーには物足りないかも知れませんが、シューリヒトとの相性は大変良く、もっともシューリヒトらしい飾り気ない、しかし軽妙な弦の響きや要所要所での管楽器の巧い使い方を聴くことができます。ウィーン・フィルとの名演がでる前にシューリヒトの名を日本で高らしめた歴史的な名盤です。

[2006年5月31日]

【第8番】

ブルックナー:交響曲第8番(クラシック・マスターズ) 第8番 VPO 1963年 ウィーン楽友協会大ホール WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50570

「おそらくスコアを読み尽くした深い解釈があるのだろう。83才の老巨匠である、タクトの微妙な振れによる隠された手練れの曲つくりもきっと・・!?」といった先入主をもって聴くと驚かれると思います。耳を傾けるとそうした通俗っぽい「思考の夾雑物」を一切合切、洗い流してしまうような演奏です。リスナーの全神経が音楽に知らぬ間に引きよせられていきます。それ以前に、演奏するオーケストラの面々も、もしかしたら同じカタルシスの状況にあるのかも知れません。シューリヒトは一途に、只ひたすらに、ブルックナーの音楽空間にリスナーを連れて行ってくれる音楽の伝道師のようです。

 クナッパーツブッシュを聴くと桁違いの音の設計スケールの大きさに驚きますが、シューリヒトの演奏の「至高」とは、例えばアルプスの山稜を遠望しながら清浄な大気を胸一杯吸い込んでいるような幸福感にひたれるところではないかと思います。精妙かつ快活感ある名演です。

[2018年1月14日]

【第9番】

ブルックナー: 交響曲第9番(クラシック・マスターズ) 第9番 VPO 1961年 WARNER MUSIC JAPAN WPCS-50571

日本には根強いシューリヒト・ファンが多くいます。自分もその末席に座しているなと思うこともあります。このブルックナーの第9番(原典版)からシューリヒトを好きになったリスナーも少なくないと思います。

 なんとも精妙な音づくりに、これぞシューリヒトならではと膝を打つ一方、そこに一種の「軽みの美学」を感じます。軽快なテンポで、音楽を重くせず、オーケストラの溜まっていくエネルギーを、自然に放出していくような独特のやり口にそうしたことを思う次第ですが、シューリヒトの演奏は最強音でも独特の品の良い美しさを失わず常軌を逸するということがありません。落ち着いていて深い、得がたい第9番の名品です。

[2014年7月16日]

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ブルックナー・コラム Ⅵ

<作曲家シリーズ> マーラー     ブルックナーとマーラー、この二人は一種の師弟関係にあり、同時代にウィーンで過ごし活躍した偉大な交響曲作曲家でもありますが、その特質はだいぶ異なっています。  マーラーの音楽は、世紀末のウィーンの都会的な雰囲気に満ちているように思います。日中、強い太陽光線に射られて、路上を鋭角的に切り取るビルの影絵のような隈取りがあり、その一方で、時に異様に派手なオーケストレーションは、夜の帳が下りてからのネオンサインのような華やかさを連想させます。    ブルックナーの音楽は、マーラーとの対比において都会的ではなく、田舎の畦道に注ぐ陽によって、むんむんたる土臭さが強烈に立ち上がってくるような、そして夜は、真鍮のような深い闇に煌々たる月光が注がれるようなイメージがあります。  もちろん、こんな感じ方自体が「書き割り」的であることは承知しつつ、マーラーの腺病質的な音感とブルックナーのある意味、素朴で健康的な響きの対比も同様にステロタイプ的ですが、それぞれ都市と農村に育った両巨頭の差異は大きかったと思います。    朝比奈隆がかつて語っていたことですが、オーケストラの楽員にとって、マーラーの音楽はスリリングで演奏への積極的な動機付けがあるが、ブルックナーはその点、面白さに欠けその執拗な繰り返しには忍耐を要するというのも頷ける気がします。これは、都会生活の刺激と大らかだが単調さに時に辟易とする田舎暮らしに通じるものがあるかも知れません。逆にいえば、都会では日々に共同体の紐帯が切られていく感覚がある一方、田舎にはどっこい、しっかりと根強いそれがある。朝比奈隆が、ブルックナーを「田舎の坊さん」と呼んだ含意には、そうしたブルックナーの特質をよく言い得ていると感じます。  洋の東西を問わず、都会と田舎の関係性のなかで人は、さまざまに移動しつつその人生を送ります。その点では文明国に生きる限り、マーラー的なもの、ブルックナー的なものにある時には傾き、また反発を感じることもあります。マーラーに惹かれる時、またブルックナーに魅せられる時、人は、心象における<都会>と<田舎>2極の振り子の振幅のなかに自らを置いているのではないかと感じます。小生は、ブルックナーもマーラーも聴きますが、ブルックナーにより惹かれるのは、鄙びた山村に生まれ育った原風景が心に内在する「田舎志向」にあるのかも知れません。都会生活によって、実はその利便性、快適性をふんだんに享受する一方、何か満たされないものを彼の音楽が無意識に埋めてくれているのかも、と思うこともあります。    さて、ブルックナーはマーラーがウィーンに戻る前年に世を去っていますが、マーラーは1899年のマチネーのウィーン・フィル定期演奏会で第6番のシンフォニーを初演しています。しかし全曲演奏といえども相当な短縮を行ったとされています。なお、マーラーは若き日に、ブルックナーの交響曲第3番を四手のピアノ用に編曲し、また第5番の短縮も行っています。    そのマーラーのいわば白鳥の歌たる『大地の歌』と交響曲第9番をマーラーの死後初演したのは、ブルーノ・ワルターでした。ワルターはブルックナーとマーラーの違いについて次のように語っています。「マーラーは一生を通じて神を探し求めた。ブルックナーは神を見た。」(ヘンリー・A・リー(1987)『異邦人マーラー』渡辺裕訳,音楽之友社,p.87他を参照)    マーラーの下でウィーン・フィルの副指揮者を勤め、また晩年のブルックナーの地元ウィーンでの盛名を耳にしていたワルターならではの何とも含蓄のある言葉です。   <参考文献> ・ブルーノ・ワルター(1960)『マーラー 人と芸術』村田武雄訳,音楽之友社. ・『マーラー 音楽の手帖』 (1980) 青土社 ・根岸 一美・渡辺 裕 (監修)『ブルックナー/マーラー事典』(1998)東京書籍.
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第7章 ロスバウト、シノーポリ、インバル

◆ロスバウト(Hans Rosbaud, 1895~1962年)

ロスバウトはグラーツ生まれ、20 世紀の隠れた偉大な指揮者の一人です。ブルックナー選集を残していますが、ブルックナーに限らず、モーツァルト、マーラー、シベリウスといった演目に加えて、シェーンベルクやストラヴィンスキーの紹介にも熱心であり、現代音楽へのあくなき挑戦によって、 ブーレーズやシュトックハウゼンにも大きな影響を与えた先覚者ともいわれます。彼は、1948 年から亡くなるまで、バーデン = バーデン ラジオ オーケストラでその手腕を発揮しました。

さて、ブラームスにせよブルックナーにせよ、ドイツの地方で自前の管弦楽団で聴く演奏には地元ならではの土着の魅力があります。そうした意味ではバーデン・バーデンはドイツ有数の保養地で富裕層も集まり、そこを本拠とする当時の南西ドイツ放送交響楽団には、温浴療法のあとコンサートで心身ともにリフレッシュしたいといった潜在的なニーズもあったでしょう。保養地でも最高の音楽を!とまではさすがに期待はしないでしょうが、耳の肥えたリスナーに満足のいく一定のレヴェルは要求されます。永らく初代シェフを務めたロスバウトは、モーツァルトのオペラも得意とし広いレパートリーを誇った手堅き匠であり、ブルックナー演奏にも定評がありました。 

ブルックナー:交響曲選集[8枚組] 交響曲選集(第2番~第9番) SWR Classic SWR19043CD

【第2番】

1877年版を使用(1956年12月10日、13日録音)について。録音が悪く音がやせていますが、管楽器は弱いながらも弦楽器の響きは比較的きれいに録れています。全体として落ち着いた演奏です。ともすれば平坦な演奏になりがちで、聴かせどころの処理の難しい第2番ですが、第2楽章の生き生きとした表現ぶりは好感がもて、細かく気をつかいながら一時も飽きさせません。第4楽章に入るとオーケストラのノリが俄然良くなり、陰影に富み濃淡のはっきりとついた豊かな表現が迫ってきます。これで管楽器の質量があって録音がもう少し良かったら本当に素晴らしいのにと惜しまれます。

【第5番】

1878年版を使用(1962年5月24日録音)について。明解なブルックナーで骨格線が透視できるような演奏です。低弦の厚みある合奏が強調されて全体に重量感があります。第2楽章はコラール風の親しみやすいメロディよりも、リズムの切れ味のほうが際立つ感じですが音に弛みがありません。ヨッフム同様、オーケストラにエネルギーが徐々に蓄積されていくようなブルックナー特有の緊張感が次第に醸成されていきます。南西ドイツ放送響の一徹にブルックナーサウンドづくりに集中していく様が連想され好感がもてます。 

  思い切り明るい色調の第3楽章はテンポをあまり動かさず、小細工を用いずに「素」のままのブルックナーの良さを自信をもって提示しています。第4楽章もリズムの切れ味のよさが身上で、フーガ、二重フーガ、逆行フーガといった技法も、リズミックな処理と自然な「うねり」のなかで生き生きと息づきます。最強音の広がりは本録音の悪さでは実は十分には把捉はできませんが、以上の連続のなかでフィナーレの質量の大きさは想像でき、それは感動的です。ロスバウトの根強いファンがいることに納得する1枚です。

【第7番】

 1881-1883年版を使用(1957年12月30日録音)、沈着冷静にして、細部をゆるがせにしない丹念な演奏です。その一方で、曲想を完全にわがものとしており、その表現ぶりには曖昧さがありません。第1楽章の終結部の音量のリニアな増幅の効果、第2楽章アダージョのきらめきを感じさせつつも滔々たる流れ、第3楽章の厳格なテンポのうえでの凛としたスケルツォ(実に気持ちの良い整然さ)、終楽章も恬淡にキチンとこなしていきますが、ニュアンスは豊かでブルックナーらしい律動感が保たれて心地よく、聴き終わったあとの爽快感がひとしおです。

【第8番】

1887-1890年版を使用(1955年11月17日録音)、ロスバウトの演奏の基本は少しも変わりません。沈着冷静に作品を捉え、即物的(ザッハリッヒ)に忠実に再現していく。この人が並々ならぬ熱意をもって、現代音楽の先駆的な紹介者であったことがわかる気がします。古典であろうと現代音楽であろうと、どの作品に対しても向かう姿勢が一貫しており、おそらく読譜能力が抜群で、音楽の構成要素を解剖して、それを組み立て直して再現する能力に長けていたのでしょう。 

しかし、そればかりではありません。大指揮者時代を生きたロスバウトの演奏には、音楽の霊感といった技術を超えるものの自覚もあったと思います。第8番ではそれを強く感じさせます。それは本番が宿している「天上と地上の架け橋のような音楽」でこそ顕著にあらわれます。

諦観的、瞑想的な第3楽章ははるかに「天上」を仰ぎ見ているかのようですが、第4楽章は、ふたたび「地上」に舞い戻り、激しくも強靭なブルックナー・ワールドがそこに展開されます。好悪を超えて、分析的でありながら霊感にも満ちた演奏であることはブルックナー・ファンの首肯するところでしょう。現代の若手指揮者にも影響を与えるブルックナー音楽の真髄に迫ろうとする演奏です。

[2016年7月2日]

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◆シノーポリ(Giuseppe Sinopoli、1946~2001年)

 シノーポリは、存命していれば現在のクラシック音楽界の風景を大きく変えたであろう逸材です。多彩なレパートリーのなかでは、彼はブルックナーよりもマーラーを得意とする指揮者という見方が強いように思います。ブルックナーの録音は80年代後半以降、ドレスデン・シュタッツカペレと行われました。

彼は、ドレスデンを振った先人の仕事(代表的な首席指揮者:1934~43年:カール・ベーム、1945~50年:ヨーゼフ・カイルベルト、1949~53年:ルドルフ・ケンペ、1953~55年:フランツ・コンヴィチュニー、1956~58年:ロヴロ・フォン・マタチッチ、1960~64年:オトマール・スウィトナー、1964~67年:クルト・ザンデルリンク、1975~85年:ヘルベルト・ブロムシュテットなど)をよく研究しており、その奥行きのある深き響きに魅せられていたようで、この点はインタビューなどでも本人が語っています。この地へのデビューもブルックナー第4番であり、その後の連続録音も大変重要な意味をもっていました。その経過をみても、後期3曲は順に録音しており、(もちろん超多忙であったということもあるでしょうが)慎重に時間をおいて、第7番のあと3年をへて第8番を、さらに時間をおいて第9番をと計画的に取り上げ、最後の第5番まで約13年の時月が流れています。

ブルックナーへのアプローチについては以下の特色があります。

 第1に、重厚で緻密な音の響きを重視しています。それは伝統あるドレスデンとの共演ということももちろんあるでしょうが、ブルックナーの本源的な魅力をそこに見ているからではないかと思います。その一方、速度の可変性、フレージングの技法は意識的に抑制されています。この流儀は残された録音すべてに共通します。一切のデフォルメ(過度な劇的な様相)を感じることがなく、滔々たる流れは聴きこめば心地よき快感にかわります。

第2に、彼自身がすぐれた作曲家であったゆえに、ブルックナーの音楽の捉え方も、(ブルックナー自身が語っているように)その独特のメロディは天からの授かりものであり、同じ作曲家の感性で、それを徹底して追体験し再現してみようと試みているのではないかと想像させます。それは、「心情」に寄り添う(情緒的)というよりも、いわば作曲家の「頭」で考える(分析的)という方法にみえます。

  第3に、全体として作為的な要素がなく、上記のとおりアゴーギグなどの技法も抑制的で、原曲の特性を深く掘り下げることに専心しますが、いわゆる大向こうを唸らせるような派手さ、斬新さはありません。これは、彼のマーラーにおける“激烈さ”との対比では、平板な演奏とも受け取られかねません。ここで評価がわかれ、一般の人気に乏しい所以とも思われます。しかし一方、じっくりとブルックナーの楽曲の深部にふれたい向きにはこのアプローチは得心できるのではないかと考えます。

交響曲選集 TOWER RECORDS UNIVERSAL VINTAGE COLLECTION +plus PROC-1182

【第3番】               

1877年ノヴァーク版を使用(1990年4月録音)。本番では、よく演奏される稿としてノヴァーク第2稿(1877年)と第3稿(1889年)がありますが、第3稿では相当なカットが行われていることから、演奏時間に影響しどちらをとるかには否応なく関心の集まるところです。最近はワーグナーの影響の濃い第1稿(1873年)を演奏するのも一種のブームですが、シノーポリ盤はブルックナーの自主的な改訂を踏まえた第2稿(ノヴァーク版)を採用しています。全般にテンポの可変性を抑えた運行です。        

第1楽章、ヴァイオリンを中心とする第2主題の提示ではドレスデンの良質な弦のアンサンブルを際だたせ、第3主題の管の強奏ではこれを存分に響かせるなど、この楽章は、オーケストラの力量をみせるいわば「顔見せ興業」のような感じです。                              

第2楽章以降もこの傾向はつづきますが、録音のせいかやや管楽器の物量が大きく出すぎているような場面もあります。弦楽器の残響の美しいルカ教会での収録なので、ドレスデンの薄墨を引いたような上品な良さがある弦楽器がもっと前面にでても良いのにと思うところもあります。また、ある楽章にアクセントをおき、それをもって全曲の隈取りをはっきりさせるといったヨッフム、クレンペラー的なスタイルはとらず、シノーポリは楽章毎に実に淡々とこなしていくといった流儀とみえます。

【第4番】

1878/80年ノヴァーク版を使用(1987年9月録音)。第4番の第2楽章、静寂な朝靄のなか、ほの明るき黎明、そして一気に立ち上がる日の出をへてふたたび静謐な空気に包まれていく・・・といったイメージが丹念な音の積み重ねによって見事に表現されています。他方、終楽章での激しい盛り上がりを期待すると肩透かしを食らいます。一種ユニークですが、背後の一貫した音響美を最後まで追い求めようする姿勢を感じさせます。

【第7番】

ノヴァーク版を使用(1991年9月の録音)。素材の良さを丹念に引き出せば、そこから自然に感動が生まれると、しかと確信しているような演奏です。第2楽章の音響美がそうした特質をもっとも端的にあらわしていますが、楽章ごとにかくあるべしというイメージはもっており、第3楽章の「ほどよき」快活さ、終楽章の「節度ある」盛り上げ方とも落ち着いた演奏スタイルを堅持します。

【第8番】

1890年ノヴァーク版を使用(1994年12月録音)。テンポを一定に保つ点では、たとえばベームを連想させます。一方、メロディづくりの特色では、第1楽章「死の予告」や「あきらめ」、第2楽章の「ドイツの野人」、終楽章「コサック隊の進軍」といった作曲者が語る標題性についてはどうでしょうか。  

シノーポリは一切標題にとらわれることなく、その背後にある音楽的な“直観”そのものに迫っているようです。ここがシノーポリの真骨頂で、彼は作曲家が創造的なメロディを記譜できるのは、単なる標題といった具体的なイメージを超えた一種の「天啓」と思っていたのかも知れません。それは彼自身が優れた作曲家だったゆえのアプローチという気もします。

【第9番】

ノヴァーク版を使用(1997年3月ライヴ録音)。すでにドレスデン・シュタッツカペレとの10年の関係をへての収録であり、確固たるアプローチにくわえて円熟味が増しているように感じます。ライヴ録音ゆえ、第1楽章にはいつになく熱気を感じさせますが、テンポの安定、内省的で深い音響はかわりません。第2楽章では強烈なリズムが刻まれ、諧謔的表情も垣間見せますが、全体としてはブルックナーにおける「ダイナミズムの総決算」といった集約度で一気に駆け抜けます。第3楽章の詠嘆的なアダージョは、響きがいっそうの深みを増しますが、それはいささかも混濁せず美しい透明感があります。天啓により、清浄さのなかに救済の予感がこめられているかのような感じすらします。遅めの運行、弦楽器と管楽器が融合した濃密な響きが支配し見事な充実度です。

[2014年1月10日]

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◆インバル(Eliahu Inbal, 1936年~)

  エリアフ・インバル(Eliahu Inbal)は、1936年エルサレム生まれ。ヴァイオリン、作曲、指揮法を学び、26才でグイード・カンテルリ指揮者コンクールにて1等賞をえて注目されます。1974年にフランクフルト放送交響楽団の首席指揮者に就任、以降、この楽団を世界のスターダムに乗せるべく活動を開始します。  

 シューマンやマーラーの交響曲全集を世に問う一方、ブルックナーに関しては、第3、4、8番について初稿初録音に挑戦し、また第9番ではサマーレ、マッツーカ補完版を収録し、世界中のブルックナー・ファンの度肝を抜くことになります。  

 既に、第3番は1946年にカイルベルトが、第8番は1973年にシェーンツェラーが、第4番は1975年にヴェスが初演をしています(1987年同管弦楽団の初来日の際の「プログラム」での金子建志氏の解説 )とのことですが、インバルはおそらく早くからスコアを研究し、作曲者のオリジナル版への回帰、初稿重視の方針を固めていたようです。  

 かつて、数ヶ月ずつですが、フランクフルトやデュッセルドルフに住んでみて、その都市の個性の違いを実感しました。もともとの連邦制における地域特性の相違はもちろんですが、それに加えて、戦後の連合軍の駐留の影響もあります。フランクフルトは米国、デュッセルドルフはフランスの駐留下におかれますが、フランクフルトは米軍基地の存在もあり、都市計画ひとつとっても、ドイツにおいては最もアメリカナイズされた都市といわれます。

 フランクフルト放送交響楽団については、現地でなんどもライヴで聴きましたし東京公演にも行きました。この都市の雰囲気が反映されているのか、そのサウンドは北ドイツの重厚な響きとは断然異なります。ドイツのオーケストラのなかでは、透明な、やや軽めで柔らかなサウンドに特色があるように感じました。イスラエル人のインバルは、バーンスタインにその才能を見いだされた一人とのことですが、フランクフルトの常任になっても、この都市の幅広い受容能力からは至極、自然に思えます。

【全集】

Bruckner: Symphonies 0 交響曲全集 フランクフルト放送響 1982~1992年 WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-12440

  本全集は、上記の特質が前面にでた代表的な記録といえましょう。インバルの現代的な解釈とこのオーケストラのサウンドや自由で機能主義的な演奏スタイルはよくマッチしていると感じます。

インバルは「初稿」にスポットを当てているほか、第9番は未完の第4楽章にも挑戦するなどユニークさに特色があります。その後、「初稿」路線は継承者がつづくという点でその先駆的な取り組みは十分評価できます。

 そのラインナップは以下のとおりです。

第00番(ノヴァーク版)1992年5月

第0番(ノヴァーク版)1990年1月

第1番(ノヴァーク版リンツ稿)1987年1月

第2番(ノヴァーク版1877年稿)1988年6月

第3番(ノヴァーク版1873年第1稿)1982年9月

第4番(ノヴァーク版1874年第1稿)1982年9月

第5番(原典版)1987年10月

第6番(ノヴァーク版)1989年9月

第7番(ノヴァーク版)1985年9月

第8番(ノヴァーク版第1稿)1982年8月

第9番(原典版)1986年9月

第9番第4楽章(サマーレ、マッツーカ補完)1987年10月

 第00番はめったにかけませんが、聴く場合はインバル盤を標準としています。第0~2番は特にコメントすべき点はありません。第1、2番ともいつもはノイマン、ショルティなどを聴きます。インバル盤もけっして悪くはありませんが、両者のメローディアスな美しさや構築力には及ばない気がします。第5~7番も標準的な演奏ですが、なかでは第6番が見事だと思います。第6番では、なかなか良い演奏に巡りあいませんがこれは素直に心に響きます。以下は、第3、4、8番について。

【第3番】

1982年9月ノヴァーク版1873年第1稿での世界初の録音です。その後、ケント・ナガノ、ロジャー・ノリントン、ジョナサン・ノット、ゲオルク・ティントナー、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、ヨハネス・ヴィルトナー、ヘルベルト・ブロムシュテット、マルクス・ボッシュ、シモーネ・ヤングなどがこの路線を踏襲していますが、インバルの先駆者としての貢献は大きいでしょう。

【第4番】

1874年(初稿ノヴァークIV/1)版による演奏です。この第3楽章はその後、結果的に抹殺されてしまった(ボツになった)音楽でそうした珍品が聴けるのも本全集の楽しみのひとつでしょう。

【第8番】

遺稿問題が複雑といわれる第8番ですが、インバルはよく初稿での録音を行ってくれたと思います。なお、第3、4番の初稿と改訂版の非常に大きな乖離に比べると、もちろん違いはありますが第8番での違和感の落差は、相対的には小さいと思います。インバルによるノヴァーク版第1稿を用いての初演は、1980年2月29日にフランクフルト・アム・マインにて(1998年7月8日には東京都交響楽団を指揮して日本での初演も)行っています。

[2010年12月5日]

 さて、インバルの第3番、第4番を聴いて、第1稿をオリジナル重視の観点から高く評価することには個人的にはいささかの疑問を禁じえません。それは、第9番に第4楽章の補筆版についても同様です。

もちろんブルックナー・ファンとして、埋もれたメロディがいわば「原石」として随所に発見できる喜びはあります。また、後の整序された演奏にくらべてブルックナーの創作の苦しみを感じる部分もあり、タイム・スリップしてそれを追体験できる興味もあります。

 しかし、ブルックナー本人がその後の研究を重ねて、苦心惨憺のうえ改訂した作品はやはり完成度の点では高いと思います。ハースやノヴァークらの地道な改訂の努力もあって、後の版のほうがはるかにスッキリと聴こえます。

 どの版をとるかどうかにもよりますが、全般に改訂実施後の作品にくらべて、初稿においては、メロディの洗練不足、不要なまでの楽句の繰り返し、変調の際の不自然さなどがどうしても気になってしまいます。交響曲としてのまとまりからは、少なくとも初稿のほうが良いと感じる部分はあまりないように思われます。

 その一方、第4番の第3楽章のように結果的に抹殺されてしまった音楽はなんとも勿体ないとも思います。せめて、この第3楽章だけ独立に改訂後第4番の前に「序曲」として演奏してもそう違和感はないのではないかと感じました。

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ブルックナー・コラム Ⅵ

<作曲家シリーズ> ヴォルフ   マーラーとヴォルフ、二人とも1860年の生まれ。マーラーは1875年に音楽院入学のために故郷のイーグラウからウィーンに出てきますが、ここで同期生としてヴォルフと会います。マーラー、ヴォルフおよびクルシシャノフスキー(後のヴァイマール宮廷楽長)は一時期、同じ下宿で共同生活をする仲になります。この3人は若きワグネリアンとして大いに談論風発をしたようです。また、ブルックナーのウィーン大学での和声学の講義をマーラーは聴講しています。  マーラーはその後、指揮者として身をたて1897年にウィーン宮廷歌劇場指揮者という栄えあるポジションをえてウィーンに「凱旋」しますが、ここでヴォルフから自作のオペラの指揮を頼まれ、これを断ったことから「二人の古き友情は決裂した」といわれます。ヴォルフはこの後、坂道を転げ落ちるように悲劇的な人生を歩んでいきますが、マーラーは逆にウィーンで登り竜のような音楽家としての活動を展開していきます。ヴォルフの死後、かつての親友の追悼のため7年をへた1904年に、このオペラ「お代官様」をマーラーは初演します。    ヴォルフはブルックナーと関係の深い作曲家にしてリート分野での彗星の如き存在です。早熟にして溢れる感性の持ち主で精神病をやみ自殺未遂のすえ43才で逝去しました。  「かつてのオーストリア領ヴィンディッシュグラーツ(現スロヴェニア領)に生まれたリート作曲家。貧しい靴屋に生まれたが、音楽への志望やみがたく、ウィーン音楽院で学んだ。しかし誇り高く、激高しやすい性格のために放校され、友人たちの援助で作曲に励んだ。ワーグナーの強い影響を受け、オペラ作曲を志しながらリート作曲家として名をなした。初期の習作的なピアノ曲、室内楽曲、交響詩、それに唯一完成したオペラ『お代官』以外はほとんどリートで、彼はこのジャンルの作品のみによって後生に名を残したといえる。心理を色彩化するひびきの新しい世界はこれまでにないめざましいものだ。彼はシューマンと同じく、晩年は精神病院で悲惨な療養生活を送らねばならなかった。」(p.42)    「『詩と音楽の結婚』などといわれることもある歌曲を極限まで推し進めたのがヴォルフといえよう。詩と音楽の一体化ということを、シューマンにも増して徹底的に実践したヴォルフは、それまでの歌うこと、つまり音楽としての性格を否定しかねないところまで歩みを進め、むしろ詩が上位に立つほどの歌曲を書いた。事実、彼は歌曲集に『歌唱とピアノのための…による詩』という副題をつけることがあった。こうしてヴォルフの歌曲は朗読に近づき、音楽としては晦渋なものに傾いて旋律のよろこびは後退して、『隠棲』『散歩』『庭師』など、ひと握りの曲を除くとそれほど広く親しまれているとはいいがたい。しかし、こうしたヴォルフにはほかに求めがたい魅力があることは事実である。」(p.11) (以上、中河原理(1993)『声楽曲鑑賞辞典』東京堂出版.から引用)   ヴォルフは気性の激しかった人のようで「ブルックナーのシンバルの音一つはブラームスの4つの交響曲にセレナードを加えたもの全部に匹敵する」と論評したといわれます(シェンツェラー. H.(1983)『ブルックナー』山田祥一訳,青土社,p.132,pp.137-138を参照。なお、ブルックナーではなくリストの名前を書いた本もあります)。    「親に似ぬ子を鬼っ子と言うが、親に似すぎた子も鬼っ子だ」といった台詞を聞いたことがありますが、ブルックナーとヴォルフは36才の違い、いわば親子ほどの年齢差があったわけですが、ヴォルフはブルックナーにとって実に「鬼っ子」だったかも知れません。    人と争うことを嫌ったブルックナーに対して、ヴォルフは同業者に対しても仮借なき批判者でした。小さな資格でもこまめにとり続け安心立命を願ったブルックナーに対して、そうしたことに無頓着でウィーン音楽院を放校になったヴォルフ。生涯女性と縁のうすかったブルックナーに対して、梅毒が原因で狂い死するヴォルフ。40才を超えてから本格的に交響曲の作曲をはじめるブルックナーに対して、結果的に30代までに全ての音楽的な仕事を終えてしまったヴォルフ。交響曲と宗教曲の作曲に集中したブルックナーと歌曲に傾注したヴォルフ…。こうして見てくるとその生き方においては「親に似ぬ子」としてのヴォルフ像が結ばれます。    他方で、ともにワーグナーを崇拝し、その共感とともにブルックナーも深く敬慕したヴォルフ、その極端な言い方が先のブラームス批判にもなります。ハンスリックを向こうにまわして、ヴォルフはブルックナーのために徹底して戦った闘士でした。二人は一緒に旅行もしています。1894年のベルリン紀行では70才のブルックナーに34才のヴォルフが同行し、彼地の1月8日のコンサートでは交響曲第7番とともにヴォルフの合唱曲「火の騎士」「妖精の歌」が演奏されました。「ブルックナーの名前が初めて作曲家としてのヴォルフの名前と並んだ」といわれます。作曲家としての異常な集中力でも二人は共通する部分があります。ある意味では「親に似すぎた子」という側面をヴォルフはもっていたのかも知れません。最晩年、ブルックナーはヴォルフを遠ざけたようですし、カール教会での葬儀でも、「正式」な音楽協会の会員ではなかったゆえに、ヴォルフは教会に入ることが許されなかったとのことです。    最後に、二人の愛憎する思いを知っていた重要人物、それがマーラーです。ヴォルフと同年生まれで同じ音楽院で学び、ともにブルックナーの音楽に共感したマーラーは、両作曲家とも強く意識していたことでしょう。これが、マーラーの音楽の「複雑性」に、何らかの影を投じているのかどうかはミステリアスな問題です。   <参考文献> ・エルンスト・デチャイ(1966)『フーゴー・ヴォルフ 生涯と歌曲』猿田 悳・小名木栄三郎訳,音楽之友社. ・アルマ・マーラー(1971)『マーラー 愛と苦悩の回想』石井 宏訳, 音楽之友社.  
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第8章 朝比奈隆、若杉弘、ケント・ナガノ

日本人および日系の指揮者を取り上げるまえに、ブルックナーの日本における受容について、交響曲の初演に注目して以下、各番別に見てみましょう。

【第0番】

  1978年6月5日大阪フィスティバルホールにて朝比奈隆/大阪フィルにより初演されました。世界初演は1924年10月12日(ブルックナー生誕100年)ですから、ほぼその四半世紀のちになります。朝比奈の第0番はその後、定評ある演奏となりますが、ブルックナーが日本でブームになるはるか前の78年段階での初演の先駆性は高く評価されるべきものです(第12章参照)。

【第1番】

 1933年11月22日宝塚大劇場で、J.ラスカ/宝塚交響楽協会により初演されました。ヨーゼフ・ラスカ(1886~1964年)はロシアからピアニストとして来日し、1924(大正13)年2月に宝塚交響楽団の発足とともに指揮者として迎えられた音楽家です。また、夭折した戦前の音楽家貴志康一(1909~37年)に音楽理論と作曲を教えた人物としても知られています。1925(大正14)年大阪では三越百貨店屋上に大阪放送局が設けられ、その放送局のために大阪フィルハーモニー・オーケストラが結成され、関西在住の音楽家が総動員されました。貴志康一は第2ヴァイオリンの団員になりますが、朝比奈隆も同じ第2ヴァイオリンだったとのことです。ここにもブルックナー関係者の重要な「接点」があり興味深いことです。

ブルックナーの初演指揮者としては、後述の第4番でもふたたびラスカが登場しますが、彼こそ我が国にもっとも早く、ブルックナーを紹介した功労者といえましょう(根岸一美『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』2012年 大阪大学出版部 参照)。

【第2番】 

 1974年札幌市民会館で、P.シュヴァルツ/札幌交響楽団によって初演されました。ペーター・シュヴァルツは、生粋のウィーン子で幼年期はウィーン少年合唱団にも所属し、同地で指揮科の教授として活躍した人物とのことです。ウィーンなじみの作曲家ブルックナー、マーラー、プフィツナーなどの作品も積極的に札響で演奏し、その影響でヨーロッパからの指揮者バーツラフ・ノイマン、アルヴィド・ヤンソンス、ラファエル・フリュウベック・デ・ブルゴスなどの指揮者も札幌に赴いたといわれます。地方への伝搬という意味でも輝ける成果です。

【第3番】

  1962年5月23日京都会館にて、H.カウフマン/京都市交響楽団によって初演されました。ハンス・ヨアヒム・カウフマンについては、帰国後ブレーメンの音楽大学の楽長になったとのことですが、面白いエピソードがあるので、以下一部引用します。

 「Hans Joahim Kauffmann(ハンス・ヨアヒム・カウフマン)先生は京響の第2代の音楽監督・常任指揮者で、日本では当時珍しかったBruckner(ブルックナー)などの作品を盛んに取り上げていた。ただ、大変厳格で有名だった初代のカール・チュリウスに比べて、人柄が余りに寛大だったので、2年程で帰国してしまった。彼は指揮者と言うよりは学者肌の人で、頭の回転と記憶力の良さには舌を巻いた。彼は片言の日本語を喋ったが、日本人の我々にちゃんと通じた。日本語を忘れてはいなかったようだった。学長室には日本の掛け軸が掛かっていて・・・(中略)聞くところに依ると彼の自宅には広重の『東海道五十三次』の本物が3枚ほど有ると言う」

http://homepage1.nifty.com/sikitsuji/deusch-nikki.html

【第4番】

 1931年4月24日宝塚大歌劇場でJ.ラスカ/宝塚交響楽団によって初演されました。これが日本における初のブルックナー演奏といわれます。さらに、『テ・デウム』についても1935年1月26日大阪朝日会館にて、J.ラスカ/宝塚交響楽協会、朝日コーラスによる初演が行われたというのですから、ラスカのブルックナーに寄せる並々ならぬ熱意を感じることができます。

 ラスカについて次の指摘も紹介しておきたいと思います。

「ラスカは、プラハの国立ドイツ劇場などで指揮者として活躍。第一次大戦中にロシア軍の捕虜となり、シベリアの収容所を転々とする。1923年に東京の楽団の招きで来日するが、直前に関東大震災が発生し、急きょ宝塚音楽歌劇学校の教授に就任した。歌劇の伴奏者が結成した宝塚交響楽団を指揮し、精力的に演奏会を開催。ブルックナー作品などを日本で初演し、反響を呼んだ。『日本組曲』『万葉集歌曲』など日本をモチーフにした曲を手掛ける一方、芦屋ゆかりの早世のバイオリニスト、貴志康一ら後進の指導にも力を注いだ」

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/030607ke111790.html

【第5番】

 1962年4月18日大阪フェスティバルホールにて、ヨッフム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管にて初演されました。ヨッフムの第5番については、戦前の音源1938年6月(ハンブルク州立フィル)のほか、第1回全集所収の1958年2月盤(バイエルン放送響)そして、コンセルトヘボウ管を振っての大変有名な1964年3月のオットーボイレン、ベネディクト修道院ライヴ盤などをいまも聴くことができますが、日本での初演は1958年と1964年のちょうど合間に行ったことになります。

さて、ここまで見てきて、日本における「ブルックナー受容」に、いかに関西が大きな役割を果たしてきたかには驚くばかりです。大阪、宝塚、京都の各地で、時代こそ異なれ、連綿とブルックナーを取り上げてきた関西の底力は凄いと思います。ヨッフムが最も得意とする第5番の初演を大阪で行ったことも、関西の輝かしいブルックナー受容の一コマとなりました。

【第6番】

 1955年3月15日日比谷公会堂で、N.エッシュバッハー/NHK交響楽団によって初演されました。ニクラウス・エッシュバッハーは当時のN響の常任指揮者です。なお、N響初代指揮者近衛秀麿は、日本人としてのブルックナー指揮者の草分け的な存在で、第4番(1931年5月29日)、第7番(1948年10月18日)の取り上げ時期の先駆性は強調しておくべきでしょう。  

【第7番】

 1933年10月21日奏楽堂で、K.プリングスハイム/東京音楽学校にて初演されました。第9番の初演指揮者でもあるので、後述します。

【第8番】 

 1959年10月28日日比谷公会堂で、カラヤン/ウィーン・フィルにて初演されました。最近、カラヤンの古きライヴ盤が多く登場していますが、第8番についてウィーン・フィルとの録音では、「1957年ザルツブルク音楽祭オーケストラ・コンサート」として、1957年7月28日祝祭劇場ライヴを、また、日本における記録では、日本初演の7年後、1966年5月2日東京文化会館でのベルリン・フィルライヴを聴くことができます。日本において、当時からカラヤンの人気は極めて高く、そのカラヤンが天下のウィーン・フィルを引き連れて、第8番の初演を行ったことは、ヨッフムとともにブルックナー受容での貴重な記録に違いありません。

【第9番】

クラウス・プリングスハイム(1883~1972年)は日本に帰化したので多くの記録が残っています。

日本との縁は、第1期として、1931~1937年の間来日し、東京音楽学校(現東京藝術大学)の作曲教師に就任しました。上記の第7番に引き続き、離任間際の1936年2月15日奏楽堂で、第9番を初演しました。第2期として、1939年春に再来日し終戦後の1946年まで滞在、その後、1951年以降日本に永住した音楽家です。

『K.プリングスハイムと日本的和声の理論   

Klaus Pringsheim and Theory of Japanese Harmony』といった研究論文http://ci.nii.ac.jp/naid/110000282176/

なども検索可能で、日本の洋楽発展に大きな影響力のある人だったのでしょう。

(以上、初演の出典は『ブルックナー 作曲家別名曲解説ライブラリー⑤』(1993) 音楽之友社.,pp.205-206.によります)。

さて、以上でもわかるとおり、日本のブルックナー演奏は大阪はじめ関西が時代をリードしました。その揺籃期から身を投じ、その後、楽壇をリードした第0番の日本の初演指揮者、朝比奈隆について次に取り上げたいと思います。

◆朝比奈隆(あさひな たかし, 1908~ 2001年)

日本におけるブルックナー受容の立役者はなんといっても朝比奈隆です。 生まれはカラヤンと同年であり、法学部卒業といった点ではベームらと共通します。終戦間近の音楽活動は中国においてでした。中国大陸の浩然の気を吸い込んだという点では小澤征爾とも共通します。指揮者デビューは1937年ですが、その後、大阪フィルを実質、立ち上げ常任指揮者から音楽監督をへて半世紀以上にわたりこれを育てあげます。

1954年以降、ブルックナーをしばしばコンサートで演奏し、1973年には大阪フィルの東京公演では第5シンフォニーを取り上げ大成功を収めました。その後、ブルックナー全集を録音し日本におけるブルックナー演奏の第一人者の地位を確立します。ブルックナーに限らず、ベートーヴェンやブラームスの交響曲の連続演奏会や全集の制作、そしてワーグナー『ニーベルンゲンの指輪』全曲の録音も行いました。

晩年の輝きもブルックナー指揮者らしく、1996年にはシカゴ交響楽団に客演し、この時の記録もCD化されています。

【第1番】

朝比奈隆 生誕100周年 ブルックナー交響曲全集 交響曲第1番 ハ短調(ハース版) 第1番 大阪フィル 1994年5月15~17日 大阪フィルハーモニックホール Canyon Classics PCCL-00469

ハース版の演奏です。全体に生硬な印象をうけますが、弦楽器の響きはよく磨かれて実に美しいものです。朝比奈自身、ヴィオラとヴァイオリンを弾いていた影響もあるのでしょうか、ここでは弦楽器と木管楽器があくまでも主役です。その一方、管楽器はやや後景にひいているように感じます。第1楽章は快速なテンポではじまり、ブルックナー特有の躍動感があります。中間2楽章も大いなる緊張感と細心の注意のもと演奏が展開されていると感じます。終楽章では管楽器がときに前面にでますが、その存在は抑制的かつ限定的です。管楽器ではリズムを強調し残響が短く感じるのは録音ゆえでしょうか。エンディングも派手さはありませんが爽やかな充実感があります。

【第2番】

朝比奈隆 生誕100周年 ブルックナー交響曲全集 交響曲第2番 ハ短調(ハース版) 第2番 大阪フィル 1994年1月24~27日 大阪フィルハーモニックホール Canyon Classics PCCL-00470

大阪フィルの設立に朝比奈隆は奔走しました。出来上がったオーケストラに、安定したポストとして常任指揮者、音楽監督に就任したといったケースとは全く異なり、彼自身が苦労を重ねたビルダーであり、その最大の成果の一角はブルックナーの交響曲全集を世に問うことでした。

第2番(ハース版)を聴いていると、指揮者の指示が末端まで完全に行き届いていることが実感できます。よく、大阪フィルには音の厚みが足りない(特に管楽器が弱い)といった見方がありますが、それがブルックナー演奏の制約にはならないことを本盤は実証しています。もっとも重要なことは、ブルックナーの音楽に内在している波動を的確に捉えているかどうかにあります。第2番の難しさは、この波動に乗りにくいことにあると思いますが、朝比奈隆/大阪フィルの演奏では第1楽章から一貫して、隠された波動をしかと捕捉していると感じます。第2楽章、ゆったりとしたテンポのなか弦楽器の美しさもひとしおです。第3楽章も基本的にはこのテンポが維持されますが、終楽章冒頭は一転加速され軽快さが増します。しかし、ふたたびテンポは弛められ表現の濃度が高くなります。

【第3番】

第3番 大阪フィル 1993年10月3~6日 大阪フィルハーモニックホール Canyon Classics  PCCL-00471

オーソドックスな演奏スタイルです。はじめから作為なく、安定したテンポのなか自然体で楽曲を忠実に再現していくという姿勢が貫かれています。しかし、これだけであれば、凡庸な演奏に陥りがちですが、第3番では、弦楽器の表情づけを少し濃厚にし、管楽器が程よいアクセントをつけています。

なお、指揮者自身が、第1~3番の初期3曲中、本曲の演奏のやりにくさを語っており(「ブルックナーの音楽」pp.249-316,『朝比奈隆 交響楽の世界』1991早稲田出版 所収)、プリングスハイムから稿の取り上げでアドヴァイスを受けたことも率直に紹介されていますが、ここでは第3稿改訂版(シャルク改訂版)を使用しています。

【第9番】

ブルックナー: テ・デウム / 交響曲 第9番(原典版) 第9番、テ・デウム 東京交響楽団 1991年3月16日 東京渋谷オーチャードホール Canyon Classics PCCL-00520

 オーケストラの演奏の質なら、これよりも良いものはいくらもあるでしょう。また、朝比奈隆の演奏に限定しても、大阪フィルの方が、粒が揃っていて良いとの意見もあると思います。しかし、このライヴ盤を聴いていると、指揮者がブルックナーという作曲家の素晴らしさをとことん見切っていたのではないかという確信をもちます。

 美しく、そして力強いブルックナーです。プレイヤーの腕、個々の演奏の巧拙など、この真剣な作曲家との対峙のまえでは、「どうでもいい」とも思えてきます。朝比奈がもっと早く世界に知られていたら、世界中にもっと広範なファンができたでしょう。いまでも世界中のブルックナー好きのリスナーに一度は、日本人のこの演奏家に耳を傾けてほしいとも思います。

 ブルックナーの遺言どおりに、テ・デウムも同日の演奏です。しかし9番の余韻に浸りたいなら3楽章で止めてもよいでしょう。人それぞれの聴き方、楽しみ方ができる点でも好ましいセットです。

[2007年6月23日]

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◆若杉弘(わかすぎ ひろし、1935~ 2009年)

朝比奈隆が、大阪フィルを主体に日本でのブルックナー交響曲の普及につとめた一方、朝比奈隆とはちょうど親子ほどの年の差ながら、東京で、そして海外でのブルックナー演奏で存在感をしめしたのが若杉弘でした。

若杉弘は、小澤征爾と同年代、若くして国内の主要オーケストラと共演し、30代で読響常任指揮者(1972~75年)を務めたのち、42歳でケルン放送響(現WDR響)首席指揮者(1977~83年)に就任し、ベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送響、ボストン響、モントリオール響など欧米の主要なオーケストラにも客演。コンサートでは積極的に現代音楽を取り上げる一方、マーラー、ブルックナーなどの交響曲全曲演奏をチクルスとして敢行しました。 

また、オペラ指揮者としても著名で、ダルムシュタット歌劇場、ドルトムント歌劇場をへてバイエルン国立歌劇場指揮者、その後、ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督GMD(デュッセルドルフ/デュイスブルク:1981~86年)、ドレスデン国立歌劇場およびドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者(1982~92年)を務めるなど、欧州の主要歌劇場で活躍しました。

活動の拠点はドイツにとどまらずチューリヒ・トーンハレ協会芸術監督・同管弦楽団首席指揮者(1987~91年)も兼任するなど、欧州での輝かしい成果が注目されました。

ブルックナーについてのメモリアルでは、欧州の活動をおえて帰国後、1995年から逝去までNHK交響楽団正指揮者の地位にありましたが、N響との「ブルックナー・チクルス 1996-98」(ブルックナー没後100周年/サントリーホール開館10周年、N響創立70周年記念、3期9公演、メシアンとともに演奏)と題された3年にわたるブルックナー交響曲の全曲演奏が有名です。

第7番(ノヴァーク第2版/1996年1月29日)、第3番(第3稿ノヴァーク版/1996年2月26日)、交響曲第8番(第2稿ノヴァーク版/1996年3月31日)、第2番(第2稿ノヴァーク版/1997年1月13日)、第4番(1878・80年稿ノヴァーク版/1997年2月24日)、第6番(ノヴァーク版/1997年3月18日)、第5番(原典版・ノヴァーク版/1998年1月27日)、第1番(第1稿リンツ稿・ノヴァーク版/1998年2月28日)、第9番(ノヴァーク版/1998年3月13日)の記録は2020年に全曲CDとして販売されました。

さて、若杉弘さんには2つの思い出があります。クラシック音楽を聴きはじめた1960年代の終わり、小生が中学生の頃ですが、NHKシンフォニーホールといった番組があり、これは入場無料の公開録画でした。場所はまだNHKが内幸町にあり、小振りながら音響効果が良いといわれたNHKホールもここにありました。往復葉書で申し込み、当たればN響などの演奏が聴けるのみならず、指揮台のまわりに配置された花まで希望者は収録後にお土産で持って帰れます。しかも、一流の演奏家が登壇しました。海外の著名演奏家の時もありましたし、当時は新進気鋭の岩城宏之や若杉弘の演奏は何度も聴くことができました。

  若杉弘さんはこの時期、N響の指揮研究員という立場で、カイルベルト、ロイブナー、マタチッチ、サヴァリッシュ、アンセルメ、マルティノン、エレーデなどの薫陶を受けたといわれますが、スマートで実に格好が良かったです。たしかブラームスの交響曲だったと思いますが、演奏中、譜面台に指揮棒が当たり炸裂し四散しましたが、若杉さんは全く意に介さず激しい振幅運動を続けられました。小生は比較的前列に座っていたので、その光景がよく見え感激が倍加しました。1935年生まれの若杉さんは当時30歳代前半です。力一杯タクトを振っていました。

 次の思い出は、N響との全曲演奏チクルスがはじまる2年前ですが、1994年10月29日東京芸術劇場で都響との共演でブルックナーの第8番を聴きました。この時は東京都の職員にして知人のY君の特別のはからいで幸いゲネプロにも同席することができました。貴重な経験でしたが、練習時にはあまり細かな指示は出されずにほぼ通しで流していたように記憶しています。本番も良い演奏でした。

ブルックナーは得意の演目だったと思います。朝比奈隆氏についで若杉弘さんは日本人のなかで世界に通用するブルックナー指揮者でした。

第2番、第9番 ザールブリュッケン放送響 ザールブリュッケン・コングレスハレ ドイツ 1992年4月23~27日(第2番)、1994年12月19~21日(第9番) BMG BVCC-40068

【第2番】

1877年ノヴァーク版による演奏です。アプローチは正攻法の一言です。音に融合感があります。ややくすんだ重い響きですが、それが落ち着いた雰囲気のなか、よく調和しています。神経質でない、それでいて一定の張りつめた緊張感があります。第2楽章の弦楽器のアンサンブルが絶妙で、ここは流麗感があり表情はほの明るく、上品で清潔な響きです。後半2楽章も巡航速度を保ち、じっくりと仕上げていきます。フィナーレまで丹念に描き切った端正な演奏です。

なお、ザールブリュッケン放送響は、スクロヴァチェフスキとの交響曲全集がありますが、第7番(1885年ノヴァーク版、1991年9月27、29日)、第8番 (ハース版、1993年10月8、9日)をこの時期に収録しています。

【第9番】

原典版による演奏です。全体に、構えを大きくとり、思い切りオーケストラを鳴らしています。その一方、第2番同様、弱音部の弦楽器のアンサンブルはとても美しく響きます。円熟のブルックナーであり、この作曲家への若杉弘&ザールブリュッケン放送響の思い入れが伝わってくるようです。複雑な心理描写はあまり意識されず、音は重いのですが、けっして基調は暗くありません。そこはおそらくは、好み、評価の分かれ目ですが、小生はそれがいかにも若杉のスタイルらしく好感がもてる。再リリースして、多くのブルックナー・ファンが手にとってほしい成果です。

[2019年2月5日]

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§ ケント・ナガノ(Kent George Nagano, 1951年~)

ケント・ナガノは、日系アメリカ人3世ですが、ドイツでの活躍が注目されました。奥様はピアニストの児玉麻里、愛娘はピアニストのカリン・ケイ・ナガノ (Karin Kei Nagano)です。

彼はドイツの主要オケと積極的にブルックナーを取り上げています。2003年3月、第3番(1873年第1稿)、2005年6月、第6番をベルリン・ドイツ響と収録。その後、引き続いて、バイエルン国立管とともに本集の第4番(2007年)、第7番(2010年ベルギー、ゲント・カテドラル)、第8番(2009年ミュンヘン、ファラオ・スタジオ[第4番も同じ])を世に送りました。以下は各番について若干の感想を記します。

第3番 ベルリン・ドイツ響 2003年3月 N.L.G.スタジオ ベルリン Harmonia Mundi  KKCC-511

【第3番】

1873年第1稿による演奏です。第1稿は現代の指揮者にとっても、取り上げには勇気がいるでしょう。なによりも後の改訂稿にくらべて演奏時間が長い。しかもソナタ形式を遵守せんとするがゆえに繰り返しが煩瑣で緊張感が持続しにくい。かつ、ワーグナーのメロディの混入によって、曲想のイメージに不自然なところがあるなどの課題があるからです。

ケント・ナガノの第1稿演奏は挑戦的です。彼は、“欠点”を“欠点”とは捉えず、原曲の特色をむしろ堂々と打ち出します。特に長い第1楽章では、あえて遅めのテンポを取り、繰り返しも淡々とこなし、あたかもこの曲がいま誕生したかのような初々しさで丹念に奏します。そう!自信に満ちた初演指揮者のような演奏です。

第2楽章のワーグナー音楽の影響も、意識して聴くと面白さがあります。『タンホイザー』からの引用ほかが溶け込んでいるので、はっきりとは認識しにくいところもありますが、いわば“ワーグナーの陰がさすパート”を発見するのも一興ですが、彼は、名案内人のように、そこはゆっくりと奏でて、リスナーをわかりやすく誘導してくれます。

一方、第3楽章は、後の改訂稿との差があまりありませんが、ここは快速に飛ばして緊張感を持続させます。第4楽章は、ブルックナーの荒ぶる魂を思い切りぶつけるような演奏です。終楽章に関して、第1稿では整序前の濃厚さと雑味がありますが、あえて呑兵衛的に言えば“原酒の良さ”に似たりでしょうか。同じ銘柄ながら吟醸酒ではなく、搾りたて原酒を出されたような感じです。ガツンとくる強さと豊かな芳香の味わいもけっして悪くはありません。約70分のトリッキー体験です。

[2019年4月29日]

第4番、第7番、第8番 バイエルン国立管 第4番(2007年7月 ミュンヘン、ファラオ・スタジオ[セッション]) 第7番(2010年9月 ベルギー、ゲント・カテドラル[ライヴ]) 第8番(2009年7月 ミュンヘン、ファラオ・スタジオ[セッション]) Farao Classics  A108076

【第4番】

1975年にノヴァーク版第1稿として出版された1874年稿(第1稿)による演奏です。作曲家自身がその後、多く改訂をくわえているので、完成度と洗練度では第2稿以降のほうが高く、一般にはそちらを選択すべきでしょう。一方、“創作の秘密”に迫るという視点からは、第8番にも共通しますが、野趣あふれるリズム感、より素朴なメロディの出現など、第1稿ならではの特色もあります。

第2稿で第3楽章は差し替えられたので、“はじめ”の第3楽章を聴きたければ第1稿を手にとることが必要です(但し、そこまでして、本楽章を聴くべきかどうかは別の判断ですが)。

ケント・ナガノは、ディテールを正確に表現することに加えて、ブルックナー特有の内在する波動をしかと捉えて、ドライブ感のある演奏です。あえて第1稿でなくとも、通常の版でも並みいる名盤に十分に拮抗できるだけの水準にあると感じました。

【第7番】

この演奏は、聖バーフ大聖堂(Ghent, Saint Bavo Cathedral)で行われました。残響がながくブルックナー・サウンドが拡散して心地よく満ちわたるのが本盤の一つの特色です。

ケント・ナガノは第4番では、1874年稿(第1稿)という“レア対応”をとりましたが、第7番は異稿問題が基本的にはないので、実にオーソドックスな演奏です。ゆえに個性的なコントラストを収録ホールの音響でつけているのかなとも感じました。

先行収録した第4番同様、ブルックナー特有の内在する波動をしかと捉えており、それを見事に再現しています。ブルックナーはよく知られるとおり、数字についての拘りが強く、一種の強迫神経症だったといわれますが、リスナーには(繰り返しが多いなという以上には)一般には意識されませんが、厳密な規則性への拘りは、内在する波動に転化されます。

それを読み取って躍動感をもって表現できるかどうかが演奏の成否を決めるといってもいいのですが、ケント・ナガノのナチュラルで良く伸びるサウンドの背後には、安定し途切れぬ緊張感をもった波動があります。

【第8番】

第8番1887年初稿による演奏です。第4番につづき、初稿で勝負といったケント・ナガノの意気込みが伝わってきます。全体に、構えを大きくとり、音の奥行が深く、かつテンポは遅い(約100分)。それはチェリビダッケのアプローチに似ていますが、第3楽章などギリギリの失速懸念のなか、緊張感が途切れないのは、先に指摘したブルックナー“波動”をしっかりと見切っているからでしょう。

第1楽章、曲想の基本はその後の版とかわりませんが、第2稿とくらべて再現部以降のバランス、歯切れがいかにもわるく、かつワーグナー的メロディがやや不自然に挿入されています。第2楽章は、楽器が次々に新手のように繰り出されてくるカラクリは、面白く聴くことができます。また、テクスチャーの豊かさ(未整理ともいえますが)は“原石の輝き”でしょうか。第3楽章は約37分となんとも長大ですが、ここではバイエルンの魅力的なアンサンブルの音質が“暗さ”を抑制しています。終楽章も濃密ですが、それにしても、これだけの長丁場、緊張感を持続させるタフな演奏はいかにもドイツ的といえるかもしれません。

[2019年2月17日]

ブルックナー・コラム Ⅷ

ドイツ・ロマン主義   ドイツ人の徹底性は世界に冠たるものでしょう。哲学におけるカント、ヘーゲルそしてマルクスらの諸著作、文学におけるゲーテやトーマス・マンの小説などをみても明らかなとおり、みずからの考え方を根源から措定し、徹底して考究し、それをあくなき努力で理論化し、あるいは芸術的に昇華して世に問うていこうとする圧倒的なエネルギーには驚かされます。 音楽においても、たとえばワーグナーの全作品リストを見ていると、量だけでなく、後生に残ったという結果からみてもその高質さに異論をさしはさむ余地はないでしょう。しかも、彼らには自己の芸術を、あますところなく表現するうえで執拗な「主題の追求」があります。芸術の分野においては、当時、ドイツ・ロマン主義といわれる嵐が吹いていました。   音楽史の本を繙くと、「1770年頃イギリスとドイツの文芸に始まったロマン主義の運動は、19世紀のはじめに音楽にその発現を見出した。そして、ほとんど百年の間、音楽を支配する力として存続した」(ハード,M.(1974)『西洋音楽史』福田昌作訳,音楽之友社,p.157)とあります。   一般にここで、ロマン派としてあげられるのは、たとえば、「ウェーバーとシューベルト、シューマンとワーグナー、メンデルスゾーンとベルリオーズ、ブラームス、リスト、そしてブルックナー」(アインシュタイン,A.(1956)『音楽史』大宮真琴・寺西春雄・平島正郎・皆川達夫訳,ダヴィッド社,p.162)といった人々が並びますが、そのうちブルックナーについては、特異の位置づけで、「彼のミサ曲において、古代オーストリアの器楽的な教会音楽作曲家の直系」(同p.193)でありながら、ロマン派の最後の交響曲作曲家でした。   交響曲第4番を「ロマンティック」と自ら名付けたブルックナーですが、同書によれば、ブラームスの交響曲は室内楽に根ざしているとしながら、対してブルックナーは「シューベルト的なものがもっとも豊富に彼の交響曲のなかを流れている」(p.208)とし、そのあくなき「主題の追求」を高く評価しています。   このように、ブルックナーは、オルガニスト兼教会音楽作曲家としてスタートし、遅れてきた交響曲作曲家であったわけですが、従来の「形式」にかたくなに拘りつつ、しかし、その音楽の独自性においては、前人未踏な領域に挑戦しつづけたのも事実です。 リストやワーグナーによって拡張された楽器用法に準拠し、徹底した和声法の研究のうえ、長大な交響曲を数多く作曲したブルックナーですが、なぜ、ここまで巨大で長い交響曲でなければならないのか。しかも、それは作曲初期から晩年まで一貫して変わることがありません。否、むしろその志向は年とともにより強くなっているようにも見受けられます。その際、聴衆はもちろん意識していますが、それ以上に己の強い意志のもと、自己実現の手段として、交響曲の作曲はブルックナーにとってはけっして妥協できない営為でした。 自らの作品の受容のために節は曲げられない。この点で、湧き上がる創作意欲と作品の普及のディレンマに直面し、自分ではいかんともしがたい悩みをかかえていました。ゆえに、本人は改訂をし続ける一方、弟子たちは成功裏に演奏を可能とするために、見るに見かねで、長大曲の改訂、短縮化に積極的な労をとりました。後世から「改竄版」のそしりを受けるのは、当時の状況において彼らにとってはなんとも不本意でしょう。 余談ながら、朝比奈隆は、そうした点で、シャルクやレーヴェの改訂版になんら偏見をもっていませんでした。フルトヴェングラーから原典版での演奏の重要性を直接聞き、ロベルト・ハースとも交誼のあった彼ですが、第3番の録音に際して堂々とこの「改竄版」を用い、当時の音楽評論家の度肝をぬきました。   カーダス,N.(1969)『近代の音楽家』篠田一士訳,白水社,pp.129-131)では、ブルックナーがシューベルトの系譜をひくという同様な見解をとりながら、ドイツとオーストリアの音楽の違いにふれたあと、次のように述べています。   「シューベルトとともにオーストリアの交響曲が生まれた。それは英雄的でも倫理的でもなく、ロマン的な意味合いにみちた自然崇拝によって霊感を与えられたものである。」    19世紀初頭、ヴィルヘルム・シュレーゲルという人が、ドイツ文学には、「修道士的なもの、騎士的なもの、市民(ブルジョワ)的なもの、そして衒学的なもの」があり、「ロマン主義はこれら4つの特性を表現するものでなければならない」としていますが興味深い指摘です。しかも今日から振り返ってみてのことですが、ドイツ・ロマン主義には緊張過多としての高揚(das Ueberspannte)があるとされる一方、その後の時代のような退嬰的な要素はいまだ含んでいない点を強調しています(アンジェロス, J.F.(1978) 『ドイツ・ロマン主義』野中成夫・池部雅英訳, 白水社, pp.7-22.)    ワーグナーはちょうどこのロマン主義の終焉期に生き、哲学ではニーチェやキルケゴールの懊悩を強く刺激し、またその音楽ではマーラーやヴォルフへ大きな影響をあたえました。彼らは、前述のカーダスの言葉を一部借りるならば、英雄的、(反)倫理的な強い個性をもっていたと思います。    さて、ブルックナーですが、すでに時代はロマン主義に懐疑し、次の思潮を求めていたときに、彼自身には退嬰的な要素など微塵もないばかりでなく、いまだ古きロマン主義の孤塁を守っていたようにも思われます。「ロマン的な意味合いにみちた自然崇拝によって霊感を与えられた」ブルックナーと同時代に生き、ゲーテに心酔していたオーストリアの詩人アーダルベルト・シュティフター(1805~86年)の長編小説『晩夏』の次の1節は ブルックナーのシンフォニーを彷彿とさせないでしょうか。    「高い山々に登ってそこから周囲の風景をみおろすのが大好きだ。次第に眼が慣れてくると、大地の絵のようなかたちが細密な特徴を伴って浮かび上がり、やがて眼はそれらを綜合的に把握するようになる。人間の心情が打ちひらかれるのもこれらの姿に対してであり、こうした大地のひだや高まりや流れや方向の転換などが、主点にむかうそれぞれの努力や面にむかう拡散としてあらわれてくる」(坂崎乙郎(1976)『ロマン派芸術の世界』講談社現代新書,p.176)。   <参考文献> ・クルタ―マン,U.(1993)『芸術論の歴史』神林恒道・太田喬夫訳,勁草書房. ・シュタイガー(1967)『音楽と文学』芦津丈夫訳,白水社. ・野村良雄(1956)『精神史としての音楽史』音楽之友社. ・門馬直美(1976)『西洋音楽史概説』春秋社.

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