第3章 ヨッフム(Eugen Jochum、1902~1987年)

ヨッフムの偉業はなんといっても先駆的に交響曲全集や多くの宗教曲集の録音を残してくれたことでしょう。しかも、彼がブルックナーの交響曲や宗教曲を体系的、系統的に録音しはじめた頃は、一般には今日のようにはブルックナーへの熱い視線は送っていなかったと思います。

ヨッフムのブルックナー録音について、以下、3期にわけて簡単な要約をつけてみました。2度の全集録音を主軸にその執念にも近いながき「修行」には正直、頭が下がる思いであり、自然に感謝の気持ちがおこってきます。

≪1930年代から第1回全集録音まで≫

ヨッフムの初出のブルックナー音源はやはりもっとも得意とする第5番でした。Aは1938年6月、ハンブルクでのスタジオ録音盤。次はBで1944年5月、ベルリンでの第3番ライヴ盤。1945年4月30日のベルリン陥落の約1年前です。1940年代最後、Cは第8番の1949年5月30日ヘッセン(フランクフルト)放送交響楽団とのライヴ盤です。

1950年代の録音ではD1の第5番が1958年に取り上げられています。これ以降、はじめての交響曲全集が1967年までほぼ10年にわたって続行されます。この間に、有名なEの第5番があります。1964年3月 オットーボイレン(ドイツ)でコンセルトヘボウ管弦楽団とのライヴ盤で、小生はいまだ第5番ではこれをもってもっとも感動的な演奏の一つと思っています。

A交響曲第5番 ハンブルク州立フィル 1938年6月

B交響曲第3番 ハンブルク州立歌劇場管1944年5月ライヴ

C交響曲第8番(ハース版)ヘッセン放送響 1949年5月30日ライヴ

【以下のD1~D9は第1回全集所収盤です】

D1交響曲第5番(ノヴァーク版1877/78年第2稿) バイエルン放送響 1958年2月8~15日

D2交響曲第8番(1890年稿ノヴァーク版) BPO 1964年1月

D3交響曲第7番(ノヴァーク版) BPO 1964年10月10日

D4交響曲第9番(ノヴァーク版) BPO 1964年12月5日

D5交響曲第4番(ノヴァーク版1878/80年第2稿) BPO 1965年6月22日~7月5日

D6交響曲第1番(ノヴァーク版1865/66年リンツ稿) BPO 1965年10月16~19日

D7交響曲第6番(ノヴァーク版1879/81年) バイエルン放送響 1966年7月1~3日

D8交響曲第2番(ノヴァーク版1877年第3稿) バイエルン放送響 1966年12月29日

D9交響曲第3番(ノヴァーク版1888/89年第3稿) バイエルン放送響 1967年1月8日

E交響曲 第5番(ハース版):コンセルトヘボウ管 1964年3月30、31日 オットーボイレン、ベネディクト修道院ライヴ

≪1970年代の第2回全集録音まで≫

1968年にヨッフムは、アムステルダム・コンセルトヘボウと来日しました。このライヴ演奏こそ、小生がはじめて聴いた外国オーケストラであり、その印象は忘れ得ないものですが、残念ながら演目はブルックナーではありませんでした。この時期、いまだブルックナーがコンサートで取り上げられるのは稀で、ブルックナーの泰斗、ヨッフムの存在もいまよりも地味な位置づけであったように記憶しています。

ヨッフムは1970年代を通じて2回目の全集録音を行います。オーケストラは、シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立管弦楽団)でした(I1~I9)。 この間、F、Gコンセルトヘボウ管弦楽団、Hスウェーデン放送交響楽団、Jベルリン・フィル(第9番)、Kミュンヘン・フィルとのライヴ音源が登場していますが、この時期は第4番、第7番を多く取り上げています。

F交響曲第7番(ノヴァーク版):コンセルトヘボウ管 1970年3月15日

G交響曲第4番 コンセルトヘボウ管 1975年1月16日ライヴ

H交響曲第4番 スウェーデン放送響 1975年2月23日ライヴ

<以下のI1~I9は2回目の全集所収盤;シュターツカペレ・ドレスデン/ルカ教会、ドレスデンにおいて>

I1交響曲 第4番  (ノヴァーク版1878/80年稿) 1975年12月1~7日

I2交響曲 第8番  (ノヴァーク版1890年稿) 1976年11月3~7 日

I3 交響曲 第7番   (ノヴァーク版) 1976年12月11~14日

I4交響曲 第3番  (ノヴァーク版1888-89年稿) 1977年1月22~27日

I5交響曲 第9番   (ノヴァーク版) 1978年1月13~16日

I6交響曲 第6番 (原典版) 1978年6月6~13日

I7交響曲 第1番 (ノヴァーク版1877年リンツ稿) 1978年12月11~15日

I8交響曲 第5番  (ノヴァーク版1878年) 1980年2月25日~3月3日

I9交響曲 第2番 (ノヴァーク版1877年稿) 1980年3月4~7日

J交響曲第9番    (ノヴァーク版) BPO 1977年11月28日(ライヴ)

K交響曲第7番    (ノヴァーク版) ミュンヘン・フィル、1979年11月8日ライヴ

≪晩年の1980年代≫

ヨッフムの晩年は、自在の境地にあったでしょうか。Lフランス国立管弦楽団、Mバンベルク交響楽団、Nミュンヘン・フィル、O、P、Qコンセルトヘボウとライヴ録音が残されています。ベームの晩年同様、日本でも人気が発火してブルックナーの貴重なライヴ盤が残されました。白熱の演奏で、老いを感じるよりも、その熱意に心動かさます。また、カラヤンの晩年同様、ブルックナーでは後期の作品が残されています。しかし、現存盤での白鳥の歌は、48年前に初録音した同じ第5番です。第5番に始まり終わる、ヨッフムのブルックナー行脚でした。

なお、日本での第5番の初演は、1962年4月18日大阪フェスティバルホールにて、ヨッフム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管によって行われました。

L交響曲第7番 フランス国立管 1980年2月8日

M交響曲第8番 バンベルク響 1982年9月15日、NHKホール(ライヴ)

N交響曲第9番 ミュンヘン・フィル 1983年7月20日

O交響曲第8番 (ノヴァーク版1890年稿)コンセルトヘボウ管 1984年9月26日

P交響曲第7番 コンセルトヘボウ管 1986年9月17日(ライヴ)、昭和女子大人見記念講堂

Q交響曲第5番(ノヴァーク版1878年):コンセルトヘボウ管 1986年12月4日、アムステルダム、コンセルトヘボウ(ライヴ)

 以上、見てきたとおり、ヨッフムが第1回の交響曲全集を完成させたのは1966年ですが、その後に続く代表的な指揮者の全集をいくつか拾ってみると、ハイティンク/コンセルトヘボウ(63~72年)、朝比奈隆/大阪フィル(75~78年)、マズア/ゲバントハウス管(74~78年)、バレンボイム/シカゴ響(72~80年)、ヴァント/ケルン放送響(74~81年)、カラヤン/ベルリン・フィル(74~81年)となりますが、この時にはヨッフムは2度目の本全集をシュターツカペレ・ドレスデンと収録済みですから驚きです。

 後期3曲を中心にブルックナーの交響曲演奏を定着させたのは、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、ワルター、クレンペラーらの先人ですが、第1~3番や第5番、そして宗教曲集などの素晴らしさを一般に教えてくれたのはヨッフムの飽くなき挑戦あればこそと思います。

【第1番】

ブルックナー:交響曲第1番(1877年リンツ版、ノーヴァク編)  第1番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年12月11~15日 WPCS-13468

1877年リンツ稿ノヴァーク版による演奏です。第1楽章はいかにも初期らしい素朴さや生硬さもそのままに「地」を生かした演奏です。第2楽章では中間部の魅力的なメロディは抒情的に歌い込んでおり、清廉なるメロディの創造者としてのブルックナー像が浮かび上がります。後半2楽章は快速さが身上で、小刻みなアッチェレランドを使用し、九十九折りのように上昇する旋律と一転畳み込むように下方する旋律もアクセントをもって展開されます。ここでは、素朴さよりも劇的な表現の萌芽を存分に拡張してみせるような演奏です。ブルックナー楽曲のもつ特色を細部まで考えぬき、さまざまに引き出そうとするヨッフムの演奏には特有の熱っぽさがあり、それがファンにはたまらない魅力です。

[2016年12月27日]

【第3番】

ブルックナー:交響曲第3番「ワーグナー」(1889年版 ノーヴァク編)  第3番 シュターツカペレ・ドレスデン 1977年1月22~27日 WPCS-13470

1888-89年稿ノヴァーク版による演奏です。第3番は取り上げが難しい曲で、これぞ名演というのは些少です。新旧ヨッフム盤(本演奏は新盤)は、そうしたなかでクナッパーツブッシュ、ベーム盤とともに最右翼でしょう。

ブルックナーの全交響曲に共通し、特に本曲や第6番では“途切れぬ緊張感”が肝要です。強奏部は勢いで自然に乗り越えられるでしょうが、第2楽章アダージョなどを典型に、繰り返しが多く、弱音が長くつづくフレーズこそ、真価が問われるところです。固い信頼感に支えられたコンビ、ヨッフム&シュターツカペレ・ドレスデンはどこパートでも全く“ダレ”がなく筋肉質の響きを奏でています。その一方、第1楽章終結部や第3楽章スケルツォなど、ここぞという場面での歯切れが良く“メリハリ”をはっきりとつけています。終楽章の迫力も申し分ありません。本曲成功のもうひとつの隠された要因は、シュターツカペレ・ドレスデンの分厚い低弦と輝かしい木管・金管の技量の高さです。管楽器群の折々の思い切った吹奏は実に効果的です。

[2019年1月14日]

【第4番】

ブルックナー:交響曲第4番 第4番  BPO 1965年6月  UCCG-5044

ノヴァーク版1878/80年第2稿による演奏です。ヨッフムの演奏は弦楽器の音色が幾分ほの明るく、しかも透明度の高いところに特色があります。その弦の響かせ方に南ドイツ的な軽妙なニュアンスがあると評する人もいますが、水の流れにたとえると、緑陰からさす木漏れ日を少しく浴びた清流のような感じです。
 例えば第2楽章では通奏の「流れ」にブルックナーらしいピチカートがリズムを刻みますが、これは(いかにも日本的な比喩ですが)渓流で鮎が水面から水飛沫をとばしてはねているような印象を受けます。瑞々しく清潔感のある調べです。
 その一方、第3楽章のトッティではピシッと整った強奏で迫ってきます。そうした緩急のつけ方がブルックナーの音楽の呼吸と見事に合います。第4楽章のフィナーレへの道程も、反復繰り返しのなかで徐々にエネルギーが充電され、これが最後に一気に放出されるように感じます。
 こうしたヨッフムの演奏の特色はこの第4番に限らず、どのブルックナーの演奏にも共通しますが、縦横にすぐれた大家の技量だと思います。

[2006年12月17日]

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 バイエルン放送響 1958年2月8~15日  UCCG-3995

ノヴァーク版1877/78年第2稿による演奏です。ブルックナーファンの座右の本に『音楽の手帖/ブルックナー』(1981年青土社刊)があります。ここでヨッフムは第5番(ノヴァーク版)の解釈について蘊蓄をかたむけています。分析的な解釈と確固たる信念に基づく演奏―第5番は特にヨッフムが得意としていた演目です。派手さはないかも知れません。また、大向こうを唸らせるような所作とも無縁ですが、正統性(オーソドキシイ)とでもいうべき品格がこの盤にはあります。新しい演奏がどんどんリリースされるなかにあって、この1枚の歴史的な価値は決して減じることはないと思います。

[2006年5月5日]

ブルックナー:交響曲第5番(ノーヴァク編) 第5番  シュターツカペレ・ドレスデン 1980年2月25-3月3日  WPCS-13472

第5番(ノヴァーク版1878年)はヨッフムの手中の玉です。この曲は第3番ほどではありませんが聴かせどころが難しく、ブルックナー交響曲中でも他番にくらべて録音は多くありません。一方、ヨッフムには本曲について実に多彩な音源がありますが、なによりリスナーから多くの支持をえているからでしょう。

本盤は、残響豊かなドレスデン、ルカ教会での収録です。ほかにも前述の1958年のバイエルン放送響や64年Ottobreuren Abbeyでのライヴ盤(コンセルトヘボウの滋味がありながら透明度の高い弦楽器の音色が、録音会場の教会に残響豊かに満ちていく快感を味わえます)などもありますが、その基本線はまったく変わりません。

全体はがっしりとした構えながら、コラール風の安寧に満ちたメロディが随所に繰り返され、それが徐々に力を漲らせながら頂点に向かっていくこの曲を手練れの技で聴かせます。これこそブルックナーの魅力の表出といわんばかりの自信に満ちたアプローチです。

[2016年12月22日]

【第6番】

ブルックナー:交響曲第6番(ノーヴァク編) 第6番 シュターツカペレ・ドレスデン 1978年6月6~13日  WPCS-13473

第6番は後期3曲に比べて、演奏および録音機会が少なく、したがって代表盤の選択が難しいですが、小生は、レーグナー、カイルベルト、ヴァントなどとともに新旧ヨッフム盤を好みます。

第6番(原典版)の第2楽章アダージョは、あたかも葬送行進曲のような言いしれぬ悲しみと清浄さを求めて天空にのぼっていくような感覚をあわせもっています。至難の表現力が要求され、それがゆえに他番を取り上げる指揮者も躊躇するのかも知れません。

ヨッフム&シュターツカペレ・ドレスデンには迷いがありません。ヨッフムのブルックナー解釈は、“交響曲全曲”(あるいは宗教曲も含め)がひとつの壮大なドラマで、各曲はその構成要素であるといった位置づけにあるように思います。均一な表現であり、安定性抜群です。

第5番をもっとも得意とし、第7番も名演の誉れ高いヨッフムゆえに、その第6番が劣るわけはありません。それはバイエルン放送響を振った旧盤の全集でも、コンセルトヘボウとの1980年11月のライヴ盤でも基本は変わるところはありません。終楽章は静謐さと交錯し、終結部はテンポを上げて、激しき瀑布を連想させるような“凄演”です。

[2019年1月14日]

【第7番】

ブルックナー:交響曲第7番 第7番 シュターツカペレ・ドレスデン1976年12月11-14日  WPCS-13474

第1楽章冒頭の“原始霧”といわれる微かな弦のトレモロについて、第7番では他のシンフォニー以上に慎重な処理が必要なことをヨッフムは指摘していますが、その絶妙な出だしから緊張感あふれる演奏(ノヴァーク版)です。

また、この第7番は全体の「頂点」が第2楽章にあり、後半は下降線をたどるという解釈にそって、第2楽章アダージョでは特に内省的な求心力のある演奏となっており、シンバルとティンパニーの強奏による「頂点」を形成したあとは諦観的なエピローグによって締めくくられます。全般にとても端整な音楽づくりにヨッフムは心を砕いており、それがリスナーの自発的な集中力を高める結果となっていると思います。

第7番は比較的異稿問題が少なくブルックナーの「地」の姿が素直にでていると言われますが、この演奏を聴いていると、本来のオルガン演奏が管弦楽団に極力代替され、チェロなどの中声部は人声の合唱にちかい微妙な表情すらもっているようにも感じられます。特に、後半の2楽章では、金管の使い方が過不足ないようにセーブされており、またテンポも大きく動かさないことから、劇的な演出に慣れたリスナーには、物足りなさを感じるかも知れません。しかし、これが作曲家の意図をあくまでもくみとろうとする解釈なのだと思って神経をそばだてると、瑞々しい感性、静寂の深さに別の感動が湧いてくると思います。じっくりとブルックナーに親しみたいリスナー向けの1枚でしょう。

[2017年3月30日]

【第8番】

ブルックナー:交響曲第8番(紙ジャケット仕様) 第8番 BPO 1964年1月  UCGG-9097

1964年1月、ヨッフム/ベルリン・フィルによる強烈な第8番(1890年稿ノヴァーク版)です。録音もこの時代とは思えないくらいクリアです。ベルリン・フィルでは1949年3月のフルトヴェングラー盤、1951年1月のクナッパーツブッシュ盤、1957年5月のカラヤン盤といった先行録音があります。
 ヨッフムにおいても、第8番の初出としてはやくも1949年ハンブルク州立フィル盤を廉価で聴くことができます(音は悪いですが実に良き演奏です)。以上どれも感動を呼ぶ名演で、甲乙はつけがたいながら、ヨッフム盤はいまも1960年代を代表する優れた録音であることは動きません。
 ヨッフムは先行成果を十分意識してしたと思います。表情のつけ方が後年に比べて、かなり濃厚であり、遅い第3楽章では先人のアプローチとの共有点も見いだします。
 しかし、彼はすでにブルックナー指揮者として自信と使命感をもっていました。第7番とのベルリン・フィルとの共演では先行して1952年盤があり、かつ第1回全集で、ドイツ・グラモフォンは主要な交響曲第7~9番(1964年)、第1番、第4番(1965年)を、ヨッフム/ベルリン・フィルで世に送り、これはいまも広く聴かれています。
 ブルックナーの弱音部の美しきハーモニーは、この演奏ではいわば“封印”されており、諦観的な部分は宗教的なものを感じさせ、一方、炸裂する音響では、重畳的な音の迫力と、ときに強烈なパッションが剥きだしに前面に出ています。より複雑で精妙な表現を求めたいのなら後年の多くの録音に委ねるとして、当時のヨッフムの気概をこの第8番で追体験するのも悪くありません。ベルリン・フィルの全開の音、これまた圧巻です。

[2019年1月14日]


【第9番】

ブルックナー:交響曲第9番(ノーヴァク編) 第9番   シュターツカペレ・ドレスデン1978年1月13~16日  WPCS-13476

ヨッフムの第9番は、バイエルン放送響(1954年11月)、ベルリン・フィル(1964年)、ベルリン放送響(1984年3月25日)の各録音がありますが、本盤(ノヴァーク版)は、シュターツカペレ・ドレスデン(1978年)を振り「公式」録音では3度目にあたります。
 第1楽章の迫力には凄さがあります。ヨッフム75歳ながら、枯れた要素などは微塵もありません。競(せ)っているような少し前のめりの感があり、次から次に畳み込むような強奏がつづき、第1楽章に全体の頂点を形成することを明らかに意図しているような意欲的な演奏です。第2楽章のスケルツォも、これと連続し速度ははやくリズムの切れ味は鋭いです。一気に駆け抜けるような文字通りの「快走」です。
 一転、第3楽章に入ると大胆に減速し、フレーズは滔々と伸ばし、じっくりとメロディを奏でていきます。色調も明から仄かに翳りをもちブルックナー交響曲群全体の「終章」的な重みを持たせているように感じます。第3楽章も強奏は緩めませんが、ダイナミズムの振幅は次第に狭まり、その一方で音の透明度は維持されつつも感情表出の濃度がましていきます。
 この曲のもつ演奏スタイルはかくあるべしと言わんばかりの説得力です。考えぬかれ、それをあますところなく表現したヨッフムらしい名演です。

[2018年1月6日]
 

【初期録音集】

EUGEN JOCHUM/ THE LEGENDARY EARLY RECORDINGS

まず、取り上げるのは初期の録音集であるEUGEN JOCHUM/ THE LEGENDARY EARLY RECORDINGS です。これは、「ブルックナー演奏史」からみた貴重な記録です。

ヨッフムには、前述のように2つのブルックナー交響曲全集があります。ヨッフムはブルックナー演奏の押しも押されもせぬ泰斗ですが、本集はさらに遡って、1930年代から50年代の非常に古い音源を収録しています。一般には録音状態の良い上記の全集がお奨めですが、「ブルックナー演奏史」から、ヨッフムの貴重な過去の記録を聴きたい向きにはよいでしょう。

<収録情報>

・交響曲第4番 ハンブルク国立フィル(1940年)

・交響曲第5番 ハンブルク国立フィル(1938年)

・交響曲第7番 ウィーン・フィル(1939年)

・交響曲第8番(ハース版)  ハンブルク国立フィル(1949年)

・交響曲第9番(ノヴァーク版)  バイエルン放送響(1955年)

・「テ・デウム」アンネリース・クッパー(Sop)、ルート・ジーヴェルト(Alt)、ロレンツ・フェーエンベルガー(Ten)、キム・ボルイ(Br)、バイエルン放送合唱団、バイエルン放送響(1954年ライヴ)

[2018年7月1日]

  

【宗教曲集】

ブルックナー:ミサ曲第1番

次に、宗教録音集です。ここでは、ヨッフムのブルックナーへの深い共感があふれています。

 ミサ曲(第1番)ニ短調とミサ曲(第3番)ヘ短調は、いずれも≪4人の独唱と混声4部、オケとオルガン≫により、一方、ミサ曲(第2番)ホ短調は、≪混声8部と管楽≫によります。第1番の独唱では、エディット・マティス(S)、カール・リーダーブッシュ(B)、また第3番ではエルンスト・ヘフリガー(T)など当時の第一級の歌い手が登壇しており、メンバーの質の高さが第一に特筆されるでしょう。

 ヨッフムの解釈は、おそらく敬虔なミサ曲を扱う配慮は忘れないながら、むしろポリフォニックな構築力をより強く感じさせます。緊張感と迫力に富み作品に内在する熱く強いパッションを前面に押し出して聴き手を圧倒します。これが次に指摘すべき点です。

 第2番に顕著ですが、厳しい合唱の統率力ゆえか、混声が完全に融合しひとつの統一された「音の束」のように響いてきます。その統一感が規律を旨とするミサ曲の緊張感を否応なく醸成する一方、管楽器のみの伴奏が効果的にこれと掛け合い、合唱の美しさとダイナミズムに見事なアクセントを付けています。

 テ・デウムを別格とし、1864~68年にかけて集中的に作曲されたブルックナーの宗教曲の最高傑作の3曲を続けて聴くと、これらの作品の音楽的な連続性にも思いはいたります。宗教曲はいつも聴くわけではありませんが、ブルックナーを愛するリスナーにとって、ときに深夜、光も音量も落として、交響曲以外のもうひとつのブルックナーの世界に浸るもよし。ヨッフム会心のこの作品集は、その際の最高の贈り物であるといえましょう。
[2006年6月18日]

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ブルックナー・コラム Ⅲ

森のなかのブルックナー   ブルックナーはオーストリアの郡部地方の出身です。壮年から晩年までを過ごした当時の帝都ウィーンでの都市生活には馴染めなかったようです。いくども当時の固陋かつ老獪なウィーン音楽界で辛酸な苦労をなめつつ、ときに生まれ育った大自然の懐にいだかれ、心の傷やみずから制御が難しい緊張感をいやしてきました。朝比奈隆氏がブルックナーを「田舎の坊さん」と呼んだのは至言でしょう。   ディーター・ケルナー『大音楽家の病歴ー秘められた伝記 2』(音楽之友社)を読むと、彼の神経衰弱は加齢ともにひどくなっていったようですが、温泉への転地療法、自然へ接触するための山歩きや日頃の散歩は彼にとって、精神の安定をたもつうえで必須の日課でもあったともいえましょう。 彼の作品には、ときに大河の流れのような滔々たるスケール感、雷の戦慄き(わななき)にも似た切迫感、小鳥の囀り(さえずり)を連想させる心和む旋律などがありますが、これらの曲想の閃きをそうした大自然との接触からえていたとの記述は彼のエピソードのなかにもみてとれます。   メビウスの帯(Möbius strip)のように<はじめ>と<おわり>が結節し、またどこが表で裏かの区別がない特質はブルックナーの音楽に通じるものがあるように思います。この<無限循環性>からは、さまざまなことが連想されます。たとえば、有限、一個の人間にたいして、四季の移ろい、大自然のもつ包容力、さらには宇宙の神秘にいたるまで永劫なるものへの想像力をかきたてます。 はじめからこうした事象を意図的に描こうとする「標題音楽」とはことなりますが、ブルックナーの音楽そのものが、宇宙、山脈、大渓谷、大河などの大自然のなかで呼吸しているような感じをもっているのは、彼一個がいつもそうした風景のなかに溶け込んでいたいゆえではないでしょうか。ドイツ、オーストリアの人びとにとって森は特別な存在です。まずは、ブルックナーの故郷の森について見てみましょう(以下オーストリア観光局HPからの引用)。   「オーバーエステライヒ州の州都リンツは人口20万余、ウィーン、グラーツに次ぐ第三の都市で、オーストリア最大の工業都市であると同時に、古い伝統文化の遺産にも恵まれています。  ケルト人の集落、古代ローマの砦を経て、河川交易で栄え、宗教改革の時代にはケプラーがここで天文観測に従事、モーツァルトはリンツ交響曲を作曲しています。更に、ブルックナーはリンツ南部のアンスフェルデンに生まれ、オーストリアを代表する作家のひとり。アーダルベルト・シュティフターはこの街に住み、晩年の大作『晩夏』や『ヴィティコ』を執筆しました」。    ブルックナーが幼少期から青年期まで過ごしたところは、平坦な丘陵地帯であり、深い森のなかでの生活ではありませんが、近くに森を抱き、歴史的には早い時期に開墾され、11世紀以前に起源を有する聖フローリアン教会という典型的な大教区のなかでした。   以下では、ハーゼル,K.(1996)『森が語るドイツの歴史』山縣光晶訳,築地書店.(原題:Forstgeschichte:Ein Grundriß für Studium und Praxis by Karl Hasel @1985 Verlag Paul Parey)をテキストに考えてみたいと思います。   「中世の土地開拓に大きな影響を持ったのは、宗教的な土地所有者、なかでも修道院でした。修道院は、カロリンガー王朝時代は王によって、またその後は封建貴族の一族によって創設され、多くの場合、戒律などにしたがい寂しい土地や道のない山のなかの森に居を構えたのです」(p.53)     ブルックナーゆかりのアンスフェルデンは3世紀のローマ時代の道路地図にも記載があるといわれる古い村です。ブルックナーの父が亡くなり母テレージアは、生計のため長男ブルックナーを近くの聖フローリアン教会に託します。よくブルックナーのCDのジャケットの表紙を飾るこの修道院のバロック調の建物(カルロ・カルローネ建築)は壮麗なものです。   「修道院は、魂の救済や慈善活動、病院看護、学校教育を通じてその一帯の文化の中心となりました。そこには文章や、暦などの時間の知識を自由に操る学者が集まり、あらゆる種類の工芸、手工業があり、医者や薬師も活動していました」(pp.53-54)     ブルックナーは既に叔父ヴァイスから1年半に亘ってオルガン演奏、作曲理論などの専門的な教育を受けていましたが、16才になるまでの3年半を聖フローリアン教会で聖歌隊員、ヴァイオリニスト兼オルガン助手として勉強して過ごします。抜群の成績だったようです。こう見てくると、彼は恵まれた教育環境にあったことがわかります。それを支えたのは多くの土地を所有する大修道院の経済力だったわけです。   「ドイツ人には森への愛情があるといわれています。そして、それはドイツ人と南ヨーロッパの人々を区別する、といわれています。しかし、この森への愛情は、森の歴史の上では何も根拠がありません。ロマン主義は、歴史とはまったく関係なく、自らの感情をはるか昔の時代へと移し置きましたが、森への愛情という考えは、このロマン主義の思想から生まれたものでした」(p.263)    この点ではまさにロマン主義の最後の時代に生きたブルックナーの森への愛情や心情は、「ゲルマン」らしさをあらわすものだったでしょう。一方で、後世の「大ドイツ」圏のなかにあって、オーストリアの特殊性もここで指摘されています。   「ドイツとまったく反対に、オーストリアでは、地役権の重荷を負った国有林の収益の低さや国の恒常的な財政危機が原因となって、多くの国有林が私人に売却されました。国有林面積は、1855年には129万500㌶でしたが、1885年までに63万4,400㌶に落ち込んだのです。オーストリア国立銀行は、66万㌶の国有地に抵当権を設定し、その大部分を投機家たちに競売しました。オーストリアに国有林がわずかな面積割合(15%)しかないのは、ここに原因があります」(p.159)     ブルックナーが生きた時代に、オーストリアでは重大な国有林売却問題が発生していたわけです。シュタイヤーはブルックナーが愛した都市ですが、この都市が栄えたのは古くから製鉄業があったからでした。その製鉄業は、一般に燃料の薪をたくさん使うことから森林との関係が深かったとのことです。 (p.78,p.82,p.89)。    39才になったブルックナーが作曲家として生きようと決意したのは、リンツ郊外の森のはずれの料亭「キュールンベルクの狩人」でした。また、世間や仕事に疲れたブルックナーが癒しを求めて滞在したクロイツェン、カールスバート、マリーエンバートなどの温泉地も森のなかにありました。ブルックナーは大自然を愛し、登山を好んだともいわれますが、こうして見てくるとブルックナーの音楽の源泉が森にあったとも推論できそうです。   <参考文献> ・シュティフタ―(1985)『森の小径』山室静訳,沖積舎. ・平野秀樹(1996)『森林理想郷を求めて 美しく小さなまちへ』中央公論社.
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