ブルックナー/ミニ・コラム②ーヨハン・シュトラウス

 ワルツ王ヨハン・シュトラウス(Ⅱ世)とブルックナーは同時代人であり、2人ともウイーンで活動しました。しかし、この2人の人生航路の海図は大きく異なります。
 
 ヨハン・シュトラウスは1825年、ウィーンの下町生まれ。ブルックナー出生の翌年です。父(Ⅰ世)の影響もあってか、彼は早熟で6歳で最初のワルツを書いたと言われます。ウィーンの名門の子弟が通うショッテン・ギムナジウムで学び本格的な音楽教育を受けたのち、1845年に自らの楽団を結成してヒーツィングの「カジノ・ドムマイヤー」でダンス音楽家としてデビューします。ほぼ二十歳で世にでることになりますが、ダブルスコアの40歳をこえて交響曲を作曲しはじめたブルックナーとはいかにも対照的です。
 1849年、父の楽団を受け継ぎ、1852年には初めて宮廷で演奏、1862年、銀行家の愛人で元歌手のイェッティ・トレフツと結婚、翌年には念願の宮廷舞踏会音楽監督の称号を与えられ、早くから社会的な成功者でした。結婚に憧れながらも失恋の連続で生涯独身のブルックナーに対して、シュトラウスは若き日から多くの恋と生涯数度の結婚を経験しています。
 1867年、ワルツ『美しく青きドナウ』を作曲、1874年には4作目のオペレッタ『こうもり』がアン・デア・ウィーン劇場で初演され、空前の大成功を収めます。一方、ブルックナーは1868年にウイーンに移り、73年に自らの指揮、ウイーンフィルの演奏で2番交響曲を初演します。しかし、翌年ウイーン大学に求職するも失敗、経済的にも困窮しさぞや苦い年だったでしょう。
 シュトラウスは1872年には渡米、ボストンの平和祭に出演し、モンスター・コンサートで『美しく青きドナウ』を指揮するなど活動の場を新大陸に広げます。その後、宮廷歌劇場への本格進出こそうまく行きませんでしたが、1894年には、シュトラウス2世のデビュー50周年記念イベントも大々的に行われ、ほぼ順風満帆な人生を歩みます。また、ブラームスは親しい友であったようです。1899年73歳で死去。遺体はウィーンの中央墓地に埋葬され、彼の死は世界中で報じられたと言います。ブルックナーは生涯の活動圏が狭く、晩年こそ地位も得、生活は安定しますが孤独ななか1896年に逝去、遺体は聖フローリアンの大オルガンの下の地下納骨所に眠ります(以上、シュトラウスの足跡については http://m-tsumu.hp.infoseek.co.jp/ を参照)。
 
 シュトラウスが当時ウイーンの寵児だったとすれば、ブルックナーにも熱狂的な信奉者はいたものの、こちらはなかなか理解されなかった異端児でした。しかし、ともにウイーンの同じ時代に生き共通する部分もあると思います。ワルツの源流は前世紀、ボヘミア、バヴァリア、チロルというウイーンを囲む3つの地方に生まれた民族舞曲にあると言われますが、村々の宿場や酒場の楽団でも大いに演じられたようです。ブルックナーも田舎で過ごした青年期、酒場の楽士アルバイトでこうしたフォークロアと接していたかも知れません。ブルックナーの交響曲の牧歌的な旋律のなかにシュトラウスと通じる親しみやすいメロディを感じることがあります。
 また、CDでのブルックナー体験にいささか疲れたあと、シュトラウスのポルカやワルツで気分転換するのも一興ですが、それに違和感がないのはたぶん私だけではないと思います。もしかすると、当時のウイーンの音楽通もこうした感覚をもって2人の音楽を受容していたのでは・・と連想することも楽しき哉、です。
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