ブルックナー//メモランダムⅤ⑥ーベイヌム 再考

 

  エドゥアルト・ファン・ベイヌム (Eduard van Beinum, 19019月319594月13) については、前任のメンゲンベルク((18711951年)との関係なくしては語れないでしょう。

 

 先代メンゲンベルクは、アムステルダム・コンセルトヘボウの初代首席ウイレム・ケス(18541934年)の跡目を弱冠24才で継いだあと、約半世紀の永きにわたってここで君臨しました。実質の「ファウンダー」とでも言うべき多大の功績を残しました。彼こそが、コンセルトヘボウを鍛えぬき、オランダに名器コンセルトヘボウありと世に知らしめたのでした。

 

 後任のベイヌムは、この偉大な先代自身の推戴で37才の若さで、首席指揮者になるのですから、間違いなく最優秀かつ世俗的には故国では大成功者であったと言えるでしょう。しかし、先代の存在があまりに大きかったからか、彼自身の評価は結果的に地味な感を否めません。上記写真でも、巨匠的な厳めしさからは無縁でとても親しみやすい印象をもちます。

 

 また、指揮者としては働き盛りの57才で心臓病にて急逝、その後任は同じオランダ出身の俊英、若きハイティンクであったことから話題性があり、ベイヌム時代は前後との比較ではどうも「中継ぎ」のような印象で地味に映ってしまいます。

 

 さらに、最盛期の録音時期が、モノラル時代の最後(一部はステレオ初期)に重なっており、その後のステレオ全盛時代との関係では結果的に「エアポケット」期に位置してしまったことも、その演奏を広く世に知らしめるには不利であったでしょう。


 加えて、ブルックナーに関しては、当時にあって既に最高権威ヨッフムが、若いハイティンクの「後見人」として、コンセルトヘボウを指導しました。また、ハイティンク自身もブルックナーを熱心に取り上げたことからベイヌムの個性を目立たなくしてしまったように思います。
 マーラーと親交があり、それを積極的に取り上げたメンゲンベルクは、ブルックナーについてはあまり関心がなかったようです。しかし、ベイヌムはそのデビューがブルックナーの8番のシンフォニーであったことが象徴的ですが、ブルックナーも進んで演奏しています。そして、その記録はいま聴いても瑞々しく、ヨッフム、ハイティンクとも異なってけっしてその輝きを失っていません。


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 私は、コンセルトヘボウの幾分くすんだ響きながら、ヴァイオリンから低弦まで見事にハーモナイズされた弦楽器群のサウンドが好きで、その「テイスト」はブルックナーに良く合うと思います。また、オランダでは、いまもパイプオルガンの演奏に熱心でレヴェルが高いようですが、このホール専属オケ自体が、オルガン的な響きを内包しているようにも思います。だからと言うわけではありませんが、コンセルトヘボウ奏でるブルックナーは、いまや誰が振っても一定のレベルにはいくのではないかとさえ感じます。


 ベイヌムの弦楽器、木管楽器、管楽器の「鼎」のバランスはなんとも絶妙で、かつ、そのテンポの軽快感とオーケストラの自主性を重んじるような自然の運行あればこそ、彼独自の魅力的なブルックナー像を見事に啓示してくれていると思います。

 

 

(ある日の感想)

 また、性懲りもなくベイヌムを取り出していた。5,7,8,9番と連続でブルックナーを聴く。
 ライブ録音ゆえ、何度も耳にしていると管楽器の明らかなミスや、アンサンブルの些細な乱れも自然に気づいてしまう。しかし、「そんなことはどうでもいい、これは実に豊かな演奏だな」と満足する。既に書いてきたけれど、伸び伸びとコンセルトヘボウの最良な特質をあますところなく引き出そうとする指揮者の姿勢が素直に伝わってくる。

 ここにはもちろん張りつめた緊張感はあるが、しかしそれは「細部の詰め」に注がれるのではなく、「全体の弛みなさ」に向けられているのではと感じる。最高の和声の瞬時の輝きが折々にあれば、細部のささいな不手際などは二の次だといった事前の了解が、もしかしたら指揮者とオケの間にあるのではないかと勘ぐってしまうような演奏である。そのメッセージはベイヌムを好む「常連」(それはこの時にアムステルダムのホールに居る人に限定されない、むしろ繰り返しCDを聴くリスナーも常連だろう)には暗黙の合意である。そこからは、じっくりとベイヌムの音楽に浸りたいという気持ちが起こってくる。さらに言えば、それによって終曲時点ではまちがいなく「癒される」という期待をもって、である。


 ベイヌムはブルックナー演奏の大人(たいじん)なのだと思う。訳知りではなくブルックナーの真の理解者としての教導あればこそ、オケとのこのような至福の一体感が確保ざれるのではないか。通番で聴いていて総じてその想いが強くなっていく。

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