第4章 ベームとカラヤン

◆ベーム(Karl Böhm, 1894~1981年)

1970年代後半、晩年のベームの来日は大変な歓迎ぶりであり、ベームも日本公演を大いに楽しみにしていたといわれます。1975年ウィーン・フィルの来日公演では、残念ながらブルックナー以外の演目でしたが、集中的にベームのライヴを聴くことができました。3月17日はベートーヴェン:レオノーレ序曲第3番、ストラヴィンスキー:『火の鳥』組曲、ブラームス:交響曲第1番、3月20日はベートーヴェン:交響曲第4番および第7番、3月25日はモーツァルト:交響曲第41番およびJシュトラウスⅡ&ヨゼフ・シュトラウスのポルカ、ワルツ集でした。

しかし、鬼籍に入ってから、辛辣な評者は、ベームは没個性的で、歴史的に残るような指揮者ではないといったシビアな口吻も目立つようになりました。小生はそうした見方に否定的です。

 小生は、中学生の時、LPレコードでブラームスの交響曲第1番(ベルリン・フィル)を聴いて以来、かわらずその音楽の「構築力」に敬服しています。一見地味ですが実は凄い指揮者。その経歴も指揮者としての録音記録も申し分ありません。

そのレパートリーは広く、オペラを得意とし、ハイドン、モーツァルト、ワーグナー、R.シュトラウスなどでも歴史的な名盤を残し、また、ブルックナーの正規録音は彼の足跡では、多くは後期以降ですが、どれも秀抜な出来映えです。

 ベームのブルックナー演奏の特質も「構築力」という言葉に尽きます。堅牢な音楽、しかし、そこにはもちろん強い情熱も豊かな情感もあります。緩さがない、生真面目だ、面白みに乏しい、といった批判はあっても、その手堅い構築力は誰しも認めるところでしょうし、ブルックナーでは、それが大きな武器です。ベームの重心の低い安定感は、バラツキのない、失敗しない一種の模範的な演奏スタイルともいえます。それに、晩年のカラヤンのように、音を磨きすぎず、程良い無骨さも悪くはありません。

ベームもカラヤンも同じくオーストリア人(もっともカラヤンはギリシア系移民をルーツとし純粋の母国人とはいえないとの説もあり)ですが、カラヤンが最晩年までブルックナーの演奏に執着したのに対して、ベームは再録音にはあまり拘らなかったようです。トスカニーニを聴いているとどの曲も彼なりの流儀で、自信をもってスコアに接近している姿が思い浮かびますが、ベームも同様です。下記の各曲のコメントは、おそらく全てのベームの録音に共通するものであり、かつその音楽は派手な所作とは無縁ですが、ベーム流の重厚さは一貫しています。では、歴史的な音源から見ていきましょう。こうした古い記録がいまも語り継がれ広く聴かれていること自体が、ベームの実力を反映していると思います。

【第3番】

ブルックナー:交響曲第3番 第3番 VPO 1970年9月  ゾフィエンザール ウィーン Decca UCCD-4423

作曲者の最終稿をベースとしたノヴァーク版(1958年ブルックナー協会版)を使用した演奏です。アインザッツから、これは凄いぞ!と思わせます。1970年の録音ですがウィーン・フィルの瑞々しい音楽が充溢しておりこの年代の録音として不足はないと思います。

 演奏の「質量」の充実ぶりが本盤の決め手です。フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの時代のように、指揮者とオケが音楽にのめり込んでいく行き方とは異なり、クール・ヘッドな、しかもノー・ミスが前提の演奏ながら、抜群の構築力を誇ります。ベームのこの手法はかってのベルリン・フィルとのブラームスの第1番などとも共通し、テンポは一定、それを与件としてダイナミック・レンジは最大限にとります。弦と管のバランスも申し分なし。音に丹念な「入魂」を行うこともベーム流。第3番は何故か大家の名演の少ないなか、この1枚は現状まで、おそらくベスト盤といえる出来だと思います。

 ベームが実は周到に準備した演奏でしょうが、彼はこれ以降、再録音する必要がなかったと思います。そうした意味では会心の演奏と自己評価していたのではないでしょうか。ベームの代表的なメモリアルであるとともに第3番でベームが築いた金字塔とでもいえる名演です。

[2017年8月23日]

【第4番】

第4番 VPO 1973年11月 ゾフィエンザール ウィーン Decca UCCD-9520

第4番(ノヴァーク版1953年)は、その求心力ある演奏によって、この曲のスタンダード盤とでもいってよいものです。テンポのコントロールが一定でどっしりとした安定感があります。

ベームはその著『回想のロンド』(1970)高辻知義訳,白水社.のなかで、「ブルックナーのように孤独で独特な存在に対して、オーケストラ全体が目標を決めていることこそ決定的なことなのだ。もしも壇上のわれわれみなが納得してさえいれば、われわれは聴衆をも納得させずにはおかない」旨を語り、特にウィーン・フィルとの関係では、この点を強調しています。

ブルックナーにおいてウィーン・フィルとのコンビではこうした強固な意志を感じさせます。小生はベームのセッション録音について、第3番、第8番は他を圧する記録、第4番と第7番は前者との比較ではやや大人しい感もありますが、総体としては、いずれも同国オーストリア人の気概をもっての魂魄の名演であると思います。

[2017年8月25日]

【第5番】

Symphonies No. 4 & 5 第4番、第5番 ドレスデン(ザクセン)国立歌劇場管弦楽団 1936年、37年 Profil PH09025

ベームのブルックナーでは非常に古い音源です。いずれも1936年、37年の録音。当時、ベームは40才台なりたての頃、ドレスデン(ザクセン)国立歌劇場の総監督であり本盤はその時代の成果のひとつです。録音の古さは致し方なくはじめの印象は音の貧相さが気になります。しかし、演奏そのものに集中するとなかなか味のある佳演であることがわかります。

第4番(1978/80年稿 ハース版)については、テンポの安定した荘厳な装いと良く制御されたオーケストラの緊張感ある臨場を看取できます(なお、第4番では他に1943年のウィーン・フィル盤もあります)。

また、第5番については、後年の演奏や他番にくらべると、第2、3楽章などでテンポをやや可変的にとり、いつもの厳しいオーケストラ統制を緩めていると感じる部分もあります。しかし、基本はかわらず全体構成はいかにもべームらしく堅固、かつ弦と管のバランスがよく強奏でも乱れはありません。終楽章も充実しており、もしも第5番についても1970年代前後のセッション録音盤があれば、とないものねだりをしたくなります。両番とも演奏は立派ですが、録音の古さから、あくまでもブルックナー&ベーム・ファン向けの歴史的音源でしょう。

[2017年6月4日]

【第7番】

第7番 VPO 1976年9月  DG Deutsche Grammophon 4198582

原典版による演奏です。ベームはいつもながらけっしてテンポを崩しません。安定したテンポこそベームの確たる基本線です。音に重畳的な厚みがあります。しかもそれは、一曲におけるどの部分を切り取っても均一性をもっています。オーケストラは十分な質量を示しますが、その制御された質量感の背後に「冷静」さが滲みます。そのうえで、弦楽器のパートにおいては音の「明燦」と「陰影」のつけ方が絶妙で、「冷静」でありながらその表情は豊かです。管楽器はおそらく常ならぬ緊張感をもって完璧な音を吹奏し、それは情熱的というより最高度の職人芸を要求されているように感じます。

厳格なテンポを維持することは、それ自体至難でしょう。緊張感からの一瞬の開放もありません。これが、ベームの「隠された技法」ではないかとさえ思います。ベームとはメトロノームが内在されている指揮者ではないかとすら感じさせます。しかし、このメトロノームの優秀さをウィーン・フィルはよく知っており、持てる力を発揮しています。指揮者の統率力をこのように感じさせる演奏は稀でしょう。面白味に欠けるとの意見もありますが、実はそこがベームの凄さではないかと思います。

[2012年5月20日]

Bruckner: Symphony No.7 第7番 VPO 1943年 Archipel ARPCD40

本盤は1943年の古い録音です。しかしこの時代としては意外にも結構良い音が採れておりその内容を知るうえでさほど問題はないでしょう。

立派な演奏です。1976年盤ほど冷静かつテンポの厳格さにこだわらず、熱っぽさも大胆なドライブ感もあり、ウィーン・フィルを存分に集中させて、透明なるも芳醇なサウンドを十全に引き出し(特に第2、3楽章)、かつベームの信ずるブルックナー音楽を構造的に描ききっています。聴き終わってやはりベームは只者ではないとの印象をもつことでしょう。 。

[2017年6月4日]

【第8番】

ANTON BRUCKNER Symphonie No.8 第8番  VPO 1976年2月 DG Deutsche Grammophon 4630812

第8番(ノヴァーク版1889/90)の終楽章、これは実に見事な演奏です。ブルックナーは当初、この交響曲を自信をもって書きました。しかし、ブルックナーを取り巻くシンパはこの作品について厳しい評価をしました。第7番は成功しました。そのわかりやすさ、ボリューム感からみると、第8番は晦渋であり、なんとも長い。ブルックナーの使徒達は、第8番での評価の低下を懼れて、いろいろとブルックナーに意見をしました。ブルックナーは深刻に悩み自殺も考えたといわれます。悩みは続き、第9番が未完に終わったのも、この桎梏からブルックナー自身が脱けられなかったからかも知れません。

  さて、ベームの演奏が見事なのは、ブルックナーの当初の「自信」に共感し、それを最大限、表現しようとしているからではないかと感じます。もちろん第8番の名演はベームに限りません。クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、シューリヒト、クレンペラー、ヨッフム、チェリビダッケ、ヴァント、初期のカラヤンなど大家の名演が目白押しであり、どれが最も優れているかといった設問自体がナンセンスでしょう。皆、このブルックナー最後の第4楽章に重要な意味を見いだし、己の解釈をぶつけてきており火花が散るような割拠ぶりです。

 ベームの演奏は、そうしたなかにあってベームらしい「オーソドックス」さが売りです。テンポは一定、ダイナミズムの振幅は大きくとり、重厚かつ緻密さを誇ります。しかし、それゆえに、「素材」の良さをもっとも素直に表出しているようにも思います。飽きがこない、何度も聴きたくなるしっかりとした構築力ある演奏です。

[2012年5月20日]

以上で、ベームのブルックナーの精華はほぼ味わうことができますが、若干のライヴ音源についても補足します。

第7番では、バイエルン放送響盤(1977年4月5日、ミュンヘン・ヘルクレスザール)や古いVPO盤(1953年3月7日、ウィーン楽友協会大ホール)などが、また第8番では、BPO盤(1969年11月26日、フィルハーモニーザール)、バイエルン放送響盤(1971年11月16日、ミュンヘン・ヘルクレスザール)、チューリヒ・トーンハレ管盤(1978年7月4日、トーンハレ・チューリヒ)などもあります。

 

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カラヤン(Herbert von Karajan, 1908~89年)

カラヤンはウィーンでの学生時代、フランツ・シャルクの演奏をよく聴いたようですが、弟子ではありませんでした。そのブルックナー解釈は、さまざまな先人の内容を意欲的に吸収しつつも、独自に築いたものであったと思います。そして、ブルックナー改訂で名をとどめたハースは、カラヤンの演奏を聴いて、彼の校閲の見方からこれを高く評価したようです。カラヤンにとっては、泰斗ハースの援軍は大きな自信に繋がったことでしょう。

さて、『カラヤンとフルトヴェングラー』(中川右介著 幻冬舎新書 2007年)では、フルトヴェングラー、カラヤン、チェリビダッケの3人の指揮者の折りなす人生ドラマが、ナチズムという辛酸かつ強大な官僚機構とおどろおどろしい人間関係を軸に展開されますが、ここではブルックナーに関しても参考になる多くの記述があります。以下、本書から拾遺してみます。まず、敗戦直前の1944年のカラヤンの活動について、

「ベルリンに代わる新天地としてカラヤンが目をつけたのは、オーストリア第三の都市であるリンツだった。ここはブルックナーの生地で、帝国ブルックナー交響楽団があった。リンツはヒトラーが育った町でもあった。ヒトラーは、この町を音楽の町にしようと考え、1939年に、リンツ・ブルックナー管弦楽団を創設させた。ゆくゆくは、バイロイトのワーグナー協会のように、ブルックナー協会をつくり、ブルックナー音楽を聴くための音楽祭も開催したいと考えていた。管弦楽団結成はそのための第一歩だった。歌劇場のオーケストラを母体にしたもので、当初は地元の音楽家だけで構成されていた小規模なものでしかなかった。これを飛躍的にレベルアップさせたのが、音楽監督として就任したゲオルク・ルートヴィッヒ・ヨッフム(オイゲン・ヨッフムの弟)だった。1942年には、ドイツ・オーストリア全土から優秀な演奏家が集められ、放送局に所属するリンツ帝国ブルックナー管弦楽団として再結成された。

1944年7月23日、リンツ郊外のザンクトフローリアン修道院で、カラヤンはこのオーケストラを指揮してブルックナーの交響曲第8番を演奏した。彼はこのオーケストラが気にいった」(pp.109-110)。

「10月にベルリンで州立歌劇場を指揮した第8番も好評だった。カラヤンはますますブルックナーに自信を深めた。そこで、リンツを拠点に、ブルックナー指揮者として再起するという計画を立てた。

カラヤンのこの野望は、リンツのオーケストラの生みの親ともいうべき、放送局の幹部ハインリヒ・グラスマイヤーの意向とも一致した。グラスマイヤーはヨッフムの音楽家としての才能は認めながらも、もっと派手でカリスマ性のある指揮者を求めていた。そこにカラヤンが登場したのだった」(pp.110-111)。

しかしながら、このカラヤンの「野望」はフルトヴェングラーによって打ち砕かれます。同年10月、フルトヴェングラーはザンクトフローリアンでこのオーケストラとブルックナーの第9番を共演し、召集令状の来ていたヨッフムの留任をゲッペルスに頼み、その地位を保全することによって、カラヤンの芽を摘んだといわれます。カラヤンはこの時期、フルトヴェングラーの逆鱗にふれて事ごとに進路を邪魔されたと本書でも記述されています。

そのカラヤンが、戦後の1947年ウィーン・フィルと記念すべき活動再開にあたり、ウィーン楽友協会で演奏したのは、10月26、27日のブルックナーの第7番でした(p.168)。

また、バイロイトでの1951年デビューでの5月28日ウィーン交響楽団とのコンサートではローエングリン前奏曲とふたたびブルックナーの第8番を取り上げています(p.216)。

さらに、フルトヴェングラーが死の床にあった1954年11月21、22日のベルリン・フィルとの非常に重要な局面での定期コンサートで、カラヤンが演奏し大成功を収めたのはブルックナーの第9番でした(p.269)。

それから35年後、カラヤン最後のコンサートとなったウィーンでの1989年4月23日ウィーン・フィルとの共演で演奏されたのはブルックナーの第7番でした(p.302)。

カラヤン亡き後、チェリビダッケが1992年3月31日、4月1日に1954年以来、実に38年ぶりのベルリン・フィルとの演奏で取り上げたのも奇しくもこのブルックナーの第7番であったのも「ドラマの符牒」としては考えさせられます(pp.303-304)。

カラヤン晩年、ウィーン・フィルとの第7番、第8番が出ます。特に第7番は、ブルックナーの作曲時のエピソード(ワーグナーへの葬送)に加え、死の3ヶ月前の最後の録音であったことから、カラヤン自身への「白鳥の歌」と大きな話題を呼びました。オーストリア人カラヤンにとって、故国の大作曲家たるブルックナーは、むしろ特別な存在であったのかも知れません。

 以上、見てきたとおり、カラヤンは第8番を得意中の得意の演目としていました。戦前から一貫して第8番はカラヤンの金看板でした。それについで、第9番、第7番、第5番をよく取り上げましたが、録音は第9番(日本でのレコード芸術推薦盤1967年)、第4番、第7番(同1971年)がはやく世評も高かったことが思い出されます。ちなみに、本曲の日本初演を行ったのもカラヤンです(1959年10月28日日比谷公会堂、カラヤン/ウィーン・フィルにて/第8章参照)。

以下では、全集にふれたあと、集中的に第8番についてコメントします。

全集(第1番~第9番) BPO 1975~1981年 ベルリン DG Deutsche Grammophon 4777580

【全集】

1950 年代、日本でいまだブルックナー・ブームが胎動するはるか以前のこと、ブルックナーの交響曲のレコードはなかなか入手できませんでした。フルトヴェングラー、ワルター、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、ヨッフムらが先鞭をつけましたが、カラヤン/ベルリン・フィルの第8番が1959 年にお目見えし、名演の誉れ高しとの評価でした。

1930 年代から幅広い演目で多くのレコードを精力的に録音してきたカラヤンですが、ブルックナーの取り上げについては実は慎重な印象もありました。いまでは全く考えられないことですが、「カラヤンはブルックナーが実は苦手なのでは…」といった勝手な風説すら当時の日本ではありました。1970 年頃を境に、この「風説」は一蹴されます。順番は別として、第4、7、9番が相次いでリリースされ、その録音がベルリンの教会で行われたことから残響がとても豊かで美しく見事に適合しており、これを境にブルックナーはカラヤンのメインのレパートリーであると認識されることになります。その後、本全集がでて、カラヤンの評価は決定的となります。しかし、全集録音は、カラヤンの本来の意思からはけっして早くはなかったようです。なぜなら、ドイツ・グラモフォンには、ブルックナーの泰斗ヨッフムがいましたし、なによりブルックナーのレコードは当時売れなかったようです。後に、カラヤンが意欲的に全集を出した頃は、ブルックナー受容が進むとともに、カラヤンのネームヴァリューもあって拡販がすすんだようです。

第1、2、3、5、6番の正規録音(ライヴ盤を除く)は、再録の多いカラヤンにあって、この全集での記録のみですが、いずれも非常にレヴェルの高き演奏です。カラヤンはもしかすると、第3番、第5番などは別のセッション録音も考慮していたかも知れませんが、本全集は概ね「これで良し」との評価をしていたのではないかとも考えられます。第5番および第6番(第1楽章は欠落)はフルトヴェングラーの音源がありますが、第1~3番はフルトヴェングラーの記録はありません。カラヤンは密かにここはベルリン・フィルとの独壇場と思っていたのかも知れません。

カラヤンの全集は、一貫する明晰な解釈、流麗な音の奔流、なによりもその抜群の安定感からみて、小生はヨッフムとともにいまだ最右翼の選択肢であると思います。

[2010年9月5日]

【第8番】

第8番 第2~4楽章 プロイセン(ベルリン)国立歌劇場管弦楽団 1944年6月28日(第2、3楽章)、9月29日(第4楽章)ベルリン Membran  232482

この音源はカラヤンを知るうえでも意味深いものです。本44年盤と次の57年盤の録音時間を比較すると、驚くべきことに、欠落している第1楽章は不詳ながら、第2楽章は00:06差、第3楽章は00:10差、第4楽章は01:17差という「僅差」です。13年ののち、かつオーケストラも違う2つの演奏はほぼ一致した内容といってもよいように思います。カラヤンのブルックナー第8番解釈は、すでに1944年の段階でほぼ確定していたかのようです。

 この感想は同じプロイセンを振った『英雄』でも、かつて同様な印象をもちました(もっとも、注意しなければならないのは、これはセッション録音の場合で、カラヤンのライヴ演奏では、ときにテンポ設定については大きく可変的で別の顔を見せることもありますが)。

 しかし、44年盤、57年盤は、おそらく近代の指揮者として、はじめてレコードという媒体にもっとも高い感度と深い知識をもっていたカラヤン(クナッパーツブッシュやフルトヴェングラー世代との大きな違い!)にとって、特別な意味があったのでしょう。44年盤第4楽章は、世界初のステレオ録音ともいわれ、これを事後チェックしたカラヤンは、戦時中ながら新技術「ステレオ録音」の将来に秘かに思いを馳せたかも知れません。また、57年盤はベルリン・フィルを統率した本格的なステレオ録音です。どちらも、カラヤンにとって、余人が理解できないくらい重要な意味のある記録であったことでしょう。

[2013年8月4日]

Symphony 8 第8番 BPO 1957年5月23~25日 ベルリン、グリューネヴァルト教会 EMI Classics  CMS4769012

1957年盤は遅い演奏です(ハース版、[86:57])。その遅さとともに、ベルリン・フィルの音色は、重く、かつ暗い点が特徴です。運行はまことに慎重で、与えられた時間にどれだけ濃密な内容を盛り込むことができるかに腐心しているようです。よって、リスナーにとっては、集中力を要し疲れる演奏です。しかし、この1枚が日本におけるブルックナー受容の先駆けになったことは事実で、ながらく第8番といえばこのカラヤン盤ありとの盛名を馳せました。

 本盤は、かのウォルター・レッグのプロデュースによる初期ステレオ録音でこの時代のものとしては素晴らしい音色です。フルトヴェングラーと比較して、いわゆるアゴーギクやアッチェレランドは目立たせずテンポは滔々と遅くほぼ一定を保っています。

 音の「意味づけ」はスコアを厳格に読み尽くして、神経質なくらい慎重になされているような印象ですが、その背後には「冷静な処理」が滲み、フルトヴェングラー的感情の「没入」とは異質です。しかし、そこから湧出する音色は、重く、暗く、音の透明度は増していますが、なおフルトヴェングラー時代のブルックナー・サウンドの残滓を強くとどめているようにも感じます。

 象徴的にいえば、カラヤンはここでフルトヴェングラーの「亡霊」との格闘を行っているような感じすらあります。しかし、過去を払拭せんとするその強烈なモティベーションゆえか、この演奏の緊張感はすこぶる強く、ねじ伏せてでもカラヤン的な新たな音楽空間を形成しようと全力を傾けており、よってリスナーは興奮とともに聴いていて疲労を感じるのではないかと思います。

 後年のベルリン・フィルとの正規盤(1890年ノヴァーク版、[82:06]録音年月日:1975年1月20〜23日、4月22日、録音場所:フィルハーモニーザール、ベルリン)を聴くと、ここでは自信に満ち一点の曇りもないといった堂々たる風情ですが、1957年盤の歴史的な価値は、フルトヴェングラーからカラヤン時代への過渡期における緊張感あふれる記録という観点からも十分にあるのではないでしょうか。

[2008年2月24日]

第8番 BPO 1975年1月20〜23日、4月22日 フィルハーモニーザール DG Deutsche Grammophon UCCG-90666

ベルリン・フィルの全勢力を惜しみなく投入した渾身の第8番(1890年ノーヴァク版)です。全体のバランスは慎重に保ちつつもその壮麗さに特色があり、かつ弦楽、木管、金管、打楽器の実力をすべて発現させて、ときに叩きつけるような迫力も伴います。

同じ第8番、ベルリンを振ったマゼール盤のようなトリッキーな技巧は一切用いず、また、バレンボイムのようにメロディの彫琢とダイナミズムに過度に拘泥するわけでもありません。役者が違うな、といった感想をもちます。

ブルックナー特有の、音の巨大な伽藍構造は第1楽章からすでに現れ終結まで一貫して響き渡ります。それはいわば近景(強奏部)、遠景(弱音部)の違いはあっても同じ構造をしかと捉えて、持続的に表現している感覚です。しかもテンポ設定が巧みで、音は重いのに第2楽章のドライブ感などは水際だっています。第3楽章はイン・テンポで遅く、重く、それでいて美しさと逞しさを兼ね備えたカラヤン流のブルックナー・サウンドの極致といってよいでしょう。内燃するエネルギーの質量の大きさがそれを支えています。終楽章では、重畳的な音がさらに厚みを増して、美しさよりも力強さが強調されます。音を磨きすぎず、男性的な武骨さも、ここでは表現すべき範疇に入っているといわんばかりの迫力です。これをもってカラヤン/ベルリン・フィル、第8番の白眉といってよいと思います。

SYMPHONIE NR 8 C MOLL 第8番 VPO 1988年11月 ウィーン楽友協会大ホール DG Deutsche Grammophon 4790528

 テンポが遅く、細部の彫琢は線描にいたるまで周到です。しかし、このなんとも美しい第8番を聴いていて、不思議とブルックナー特有の感興が湧いてきません。チェリビダッケの第8番の「どうしようもない遅さ」には一種の「やばい」と思わせるスリリングさがあります。東京の実演でも感じましたが、もはや「失速寸前」まで厳しく追い込んでいく演奏の危険性と裏腹に獲得する、得もいわれぬライヴの緊張感といった要素がありました。

 一方、カラヤンの第8番にはそうした失速懸念があるわけではありません。磨きに磨きあげる音の表現のためには、このテンポが必要なのかも知れません。しかし、クナッパーツブッシュを、シューリヒトを、ヨッフムを、あるいはヴァントを聴いてきたリスナーにとって、この演奏の「到達点」はどこにあるのだろう。遅くて、こよなく美しいブルックナー。

 カラヤンは20世紀の生んだ天才的な指揮者です。世界政治の坩堝としてのベルリンで、その「孤塁」の安全保障を、結果的にたった一人、1本のタクトで保ってきたような稀有な才能の持ち主でもあります。時代の先端を疾駆し、常にセンセーショナルに、旧習にとらわれ変化の乏しいクラシック界に新たな「音楽事象」を自ら作り出してきました。

 初期には、トスカニーニ張りといわれたその素晴らしいスピード感、常任就任以降の精密機械のようなベルリン・フィルの合奏力の構築、また、瞑目の指揮ぶりは聴衆を惹きつけずにはおかず、そのタクト・コントロールのまろやかな巧みさには世界中の多くの音楽ファンが魅了されました。

 エンジニアとしての知識と直観に裏付けられたCDからビデオに、そしてデジタル化にまでいたる映像美学へのあくなき関心。いくつも並べられるこうしたエピソードとは別に、レパートリーの広さと純音楽的で類い希なる名演の数々、その厖大なライヴラリー。スタジオ録音でもライヴでもけっしてリスナーを裏切らない均一な演奏水準…。

 カラヤンの演奏にある意味で育てられてきたような世代の小生にとって、また、大阪で、東京で、そして忘れえないザルツブルク音楽祭でそのライヴに感動した過去の体験に思いを馳せつつ、カラヤンの「凄さ」にはいつも圧倒されてきました。

 さて、そんなことを考えながらこの第8番を聴きます。一般に大変高い評価のこの最晩年の演奏は、もちろんカラヤンらしい完璧志向は保たれていますが、格闘技的な本曲において、演奏の「エモーション」が物足りない気がします。かつてのカラヤンの演奏では感じなかった落ち着きとも諦観ともいえる心象が随所にでていると思う一方、フル回転の内燃機関のような白熱のパッションは遠い残り火のように時たま瞼に映るのみです。

 その意味で本盤は自分にとって、なくてはならない1枚ではないようです。ここ一番、第4楽章の見事なフィナーレには往時の感動を追体験しつつも、壮年期の覇気が懐かしい。自らの加齢の影響もあるかも知れませんが、悲しみとともに、老いたりカラヤン!との感情を隠しがたく持ちました。

 なお、カラヤンの第8番には、ベルリン・フィルとの1966年5月2日/東京文化会館(ライヴ)、1966年6月16日アムステルダム・ライヴ(オランダ音楽祭におけるステレオ録音)、ウィーン・フィルを振った1957年7月28日 ウィーン祝祭大劇場(ライヴ)などもあります。根強い人気から、今後も壮年期の他音源がリリースされるかも知れません。

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ブルックナー・コラム Ⅳ

ハプスブルク帝国   ブルックナーが生きた時代を知るために、ハプスブルク帝国について見てみましょう(参考文献後掲)。メッテルニヒやビスマルクが活躍し、文化的にも幾多の芸術家が登場する時代ですが以下はその覚え書きです。   ≪オーストリアの歴史概観≫    オーストリア(Republic  Östereich)は9つの自治州からなる連邦共和国です。歴史をたどると紀元前4世紀頃にケルト族がはじめての統一国家ノリクム王国をつくりますが、紀元1世紀にローマ帝国から攻められ、ローマからみた北方の駐屯地になります。その後6世紀にはゲルマン族の一部がバイエルンから南下してきます。8世紀にはカール大帝がオストマルク(東部辺境)と位置づけ、これが今日のÖstereichの語源です。10世紀から13世紀半ばまで、ここをバーベンベルク家が領有し、その中心都市をウィーンにおきます。後述する帝都ウィーンの始動です。    13世紀末にバーベンベルク家は断絶、これにかわって神聖ローマ帝国皇帝の子供達がオーストリアを支配し、ここからハプスブルク家の時代がはじまります。ハプスブルク家は代々の皇帝をだす一方、政略結婚戦略を展開し、近隣国と姻戚関係をむすび、フランダース、ルクセンブルク、チロルを継承するとともに、ハンガリーを征服しトルコを駆逐して中・東欧支配を確立します。さらにこれにとどまらず、スペイン継承戦争でスペインも手中におさめ、英国とフランス以外はすべてハプスブルク家の「実質」領地といった全盛期を迎えます。  かつてのローマ帝国同様の広大な領土展開から往時は「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたハプスブルク家ですが、18世紀、かのナポレオンの登場によって敗北し、ベネチアなどを失うとともに、神聖ローマ帝国そのものが消滅します。この段階で中・東欧からなる多民族国家の「オーストリア・ハンガリー帝国」となりますが、なおも、いまのポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴ(セルビア・モンテネグロ)などを含む欧州最大の帝国でした。  しかし、さしもの栄華を誇ったハプスブルク帝国も、第一次世界大戦で敗れ1918年カール1世の退位で13世紀からの650年の歴史に終止符をうち、領土も戦前の4分の1にまで縮小しオーストリア共和国として再出発することを余儀なくされます。その後ナチの台頭とともにドイツに併合されて第二次世界大戦へと突入。再度の決定的な敗戦により1945年には旧ソ連軍に占領されますが、1955年永世中立国として主権を回復し今日を迎えます。   ≪19世紀から20世紀初頭の時代≫    では、ブルックナーの時代の前後にフォーカスしてみましょう。神聖ローマ帝国はナポレオン1世に席巻されて崩壊し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位しますが、その一方、このフランツ2世は1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア帝国皇帝フランツ1世を称しており、以後はオーストリアの帝室として存続します。ナポレオン1世追放後は、「神聖同盟」としてウィーン体制をたもちますが、後にクリミア戦争でロシアと敵対してこの同盟も事実上崩壊し、1859年にはサルディニアに敗北してロンバルディアを失い、1866年の普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放の憂き目をみます。    国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がります。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこれに妥協し、ドイツ人とハンガリー人を指導的地位にし、帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐ「二重帝国」に改編し、1867年にオーストリア・ハンガリー帝国として再出発します。  それでも一端火のついた民族問題は収まらず、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合したことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化します。そして1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人青年に銃殺されるという有名な「サラエボ事件」がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まります。先に記したとおりこの大戦でも敗北し、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、ハプスブルク帝国は1918年に崩壊します。   ≪ブルックナーのウィーン時代(1868~1896年)≫    ブルックナーがウィーンに居を移した1868年の前年の3月15日、ハンガリー議会はオーストリアとの合体を定めた「アウスグライヒ(和協)法案」を可決します。フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、両国は外交、軍事、財政は共通にするものの、憲法と議会、政府は独自のものをおくという変則的な連合体制を敷きます。ハンガリー議会の「和協法」可決から3ケ月後の6月8日にはフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に戴冠し、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が名実ともに発足します。この体制によって、オーストリアはなんとか面目をたもち中部ヨーロッパの大国の地位を維持します。  帝都ウィーンには爛熟した世紀末文化の花が咲き、ハンガリーも首都ブダペストの近代化などに成功、両都は繁栄を謳歌します。しかし、この体制はドイツ系とマジャール人の多数派が少数のチェコ人やポーランド人など他のスラブ系諸民族を抑圧することで維持される性格を持つゆえに、成立直後から民族主義を叫ぶ諸民族からの抵抗が根強く、大きな矛盾をかかえることになります。この結果、フランツ・ヨーゼフ1世は、安定化のためドイツ帝国とよりを戻し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の掲げた「パン=ゲルマン主義」に同調していくようになります。  ブルックナーが生きたウィーンはこのように政治的には激動、文化的には爛熟の時代でした。   <参考文献> ・成瀬治・黒川康・伊藤孝之(1987)『ドイツ現代史』山川出版社. ・望田幸男・三宅正樹編(1982)『概説ドイツ史』有斐閣選書. ・斎藤光格(1996)『EU地誌ノート』大明堂. ・ゲオルク・マルクス(1992)『ハプスブルク夜話』江村洋訳,河出書房新社. ・倉田稔(1995)『ハプスブルク歴史物語』NHKブックス.  ・山之内克子(2005)『ハプスブルクの文化革命』講談社. ・『オーストリアへの旅』[エアリアガイド140](1996)昭文社. ・『ウィーン』[全日空シティガイド](1994)三推社・講談社.
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