第8章 朝比奈隆、若杉弘、ケント・ナガノ

日本人および日系の指揮者を取り上げるまえに、ブルックナーの日本における受容について、交響曲の初演に注目して以下、各番別に見てみましょう。

【第0番】

  1978年6月5日大阪フィスティバルホールにて朝比奈隆/大阪フィルにより初演されました。世界初演は1924年10月12日(ブルックナー生誕100年)ですから、ほぼその四半世紀のちになります。朝比奈の第0番はその後、定評ある演奏となりますが、ブルックナーが日本でブームになるはるか前の78年段階での初演の先駆性は高く評価されるべきものです(第12章参照)。

【第1番】

 1933年11月22日宝塚大劇場で、J.ラスカ/宝塚交響楽協会により初演されました。ヨーゼフ・ラスカ(1886~1964年)はロシアからピアニストとして来日し、1924(大正13)年2月に宝塚交響楽団の発足とともに指揮者として迎えられた音楽家です。また、夭折した戦前の音楽家貴志康一(1909~37年)に音楽理論と作曲を教えた人物としても知られています。1925(大正14)年大阪では三越百貨店屋上に大阪放送局が設けられ、その放送局のために大阪フィルハーモニー・オーケストラが結成され、関西在住の音楽家が総動員されました。貴志康一は第2ヴァイオリンの団員になりますが、朝比奈隆も同じ第2ヴァイオリンだったとのことです。ここにもブルックナー関係者の重要な「接点」があり興味深いことです。

ブルックナーの初演指揮者としては、後述の第4番でもふたたびラスカが登場しますが、彼こそ我が国にもっとも早く、ブルックナーを紹介した功労者といえましょう(根岸一美『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』2012年 大阪大学出版部 参照)。

【第2番】 

 1974年札幌市民会館で、P.シュヴァルツ/札幌交響楽団によって初演されました。ペーター・シュヴァルツは、生粋のウィーン子で幼年期はウィーン少年合唱団にも所属し、同地で指揮科の教授として活躍した人物とのことです。ウィーンなじみの作曲家ブルックナー、マーラー、プフィツナーなどの作品も積極的に札響で演奏し、その影響でヨーロッパからの指揮者バーツラフ・ノイマン、アルヴィド・ヤンソンス、ラファエル・フリュウベック・デ・ブルゴスなどの指揮者も札幌に赴いたといわれます。地方への伝搬という意味でも輝ける成果です。

【第3番】

  1962年5月23日京都会館にて、H.カウフマン/京都市交響楽団によって初演されました。ハンス・ヨアヒム・カウフマンについては、帰国後ブレーメンの音楽大学の楽長になったとのことですが、面白いエピソードがあるので、以下一部引用します。

 「Hans Joahim Kauffmann(ハンス・ヨアヒム・カウフマン)先生は京響の第2代の音楽監督・常任指揮者で、日本では当時珍しかったBruckner(ブルックナー)などの作品を盛んに取り上げていた。ただ、大変厳格で有名だった初代のカール・チュリウスに比べて、人柄が余りに寛大だったので、2年程で帰国してしまった。彼は指揮者と言うよりは学者肌の人で、頭の回転と記憶力の良さには舌を巻いた。彼は片言の日本語を喋ったが、日本人の我々にちゃんと通じた。日本語を忘れてはいなかったようだった。学長室には日本の掛け軸が掛かっていて・・・(中略)聞くところに依ると彼の自宅には広重の『東海道五十三次』の本物が3枚ほど有ると言う」

http://homepage1.nifty.com/sikitsuji/deusch-nikki.html

【第4番】

 1931年4月24日宝塚大歌劇場でJ.ラスカ/宝塚交響楽団によって初演されました。これが日本における初のブルックナー演奏といわれます。さらに、『テ・デウム』についても1935年1月26日大阪朝日会館にて、J.ラスカ/宝塚交響楽協会、朝日コーラスによる初演が行われたというのですから、ラスカのブルックナーに寄せる並々ならぬ熱意を感じることができます。

 ラスカについて次の指摘も紹介しておきたいと思います。

「ラスカは、プラハの国立ドイツ劇場などで指揮者として活躍。第一次大戦中にロシア軍の捕虜となり、シベリアの収容所を転々とする。1923年に東京の楽団の招きで来日するが、直前に関東大震災が発生し、急きょ宝塚音楽歌劇学校の教授に就任した。歌劇の伴奏者が結成した宝塚交響楽団を指揮し、精力的に演奏会を開催。ブルックナー作品などを日本で初演し、反響を呼んだ。『日本組曲』『万葉集歌曲』など日本をモチーフにした曲を手掛ける一方、芦屋ゆかりの早世のバイオリニスト、貴志康一ら後進の指導にも力を注いだ」

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/030607ke111790.html

【第5番】

 1962年4月18日大阪フェスティバルホールにて、ヨッフム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管にて初演されました。ヨッフムの第5番については、戦前の音源1938年6月(ハンブルク州立フィル)のほか、第1回全集所収の1958年2月盤(バイエルン放送響)そして、コンセルトヘボウ管を振っての大変有名な1964年3月のオットーボイレン、ベネディクト修道院ライヴ盤などをいまも聴くことができますが、日本での初演は1958年と1964年のちょうど合間に行ったことになります。

さて、ここまで見てきて、日本における「ブルックナー受容」に、いかに関西が大きな役割を果たしてきたかには驚くばかりです。大阪、宝塚、京都の各地で、時代こそ異なれ、連綿とブルックナーを取り上げてきた関西の底力は凄いと思います。ヨッフムが最も得意とする第5番の初演を大阪で行ったことも、関西の輝かしいブルックナー受容の一コマとなりました。

【第6番】

 1955年3月15日日比谷公会堂で、N.エッシュバッハー/NHK交響楽団によって初演されました。ニクラウス・エッシュバッハーは当時のN響の常任指揮者です。なお、N響初代指揮者近衛秀麿は、日本人としてのブルックナー指揮者の草分け的な存在で、第4番(1931年5月29日)、第7番(1948年10月18日)の取り上げ時期の先駆性は強調しておくべきでしょう。  

【第7番】

 1933年10月21日奏楽堂で、K.プリングスハイム/東京音楽学校にて初演されました。第9番の初演指揮者でもあるので、後述します。

【第8番】 

 1959年10月28日日比谷公会堂で、カラヤン/ウィーン・フィルにて初演されました。最近、カラヤンの古きライヴ盤が多く登場していますが、第8番についてウィーン・フィルとの録音では、「1957年ザルツブルク音楽祭オーケストラ・コンサート」として、1957年7月28日祝祭劇場ライヴを、また、日本における記録では、日本初演の7年後、1966年5月2日東京文化会館でのベルリン・フィルライヴを聴くことができます。日本において、当時からカラヤンの人気は極めて高く、そのカラヤンが天下のウィーン・フィルを引き連れて、第8番の初演を行ったことは、ヨッフムとともにブルックナー受容での貴重な記録に違いありません。

【第9番】

クラウス・プリングスハイム(1883~1972年)は日本に帰化したので多くの記録が残っています。

日本との縁は、第1期として、1931~1937年の間来日し、東京音楽学校(現東京藝術大学)の作曲教師に就任しました。上記の第7番に引き続き、離任間際の1936年2月15日奏楽堂で、第9番を初演しました。第2期として、1939年春に再来日し終戦後の1946年まで滞在、その後、1951年以降日本に永住した音楽家です。

『K.プリングスハイムと日本的和声の理論   

Klaus Pringsheim and Theory of Japanese Harmony』といった研究論文http://ci.nii.ac.jp/naid/110000282176/

なども検索可能で、日本の洋楽発展に大きな影響力のある人だったのでしょう。

(以上、初演の出典は『ブルックナー 作曲家別名曲解説ライブラリー⑤』(1993) 音楽之友社.,pp.205-206.によります)。

さて、以上でもわかるとおり、日本のブルックナー演奏は大阪はじめ関西が時代をリードしました。その揺籃期から身を投じ、その後、楽壇をリードした第0番の日本の初演指揮者、朝比奈隆について次に取り上げたいと思います。

◆朝比奈隆(あさひな たかし, 1908~ 2001年)

日本におけるブルックナー受容の立役者はなんといっても朝比奈隆です。 生まれはカラヤンと同年であり、法学部卒業といった点ではベームらと共通します。終戦間近の音楽活動は中国においてでした。中国大陸の浩然の気を吸い込んだという点では小澤征爾とも共通します。指揮者デビューは1937年ですが、その後、大阪フィルを実質、立ち上げ常任指揮者から音楽監督をへて半世紀以上にわたりこれを育てあげます。

1954年以降、ブルックナーをしばしばコンサートで演奏し、1973年には大阪フィルの東京公演では第5シンフォニーを取り上げ大成功を収めました。その後、ブルックナー全集を録音し日本におけるブルックナー演奏の第一人者の地位を確立します。ブルックナーに限らず、ベートーヴェンやブラームスの交響曲の連続演奏会や全集の制作、そしてワーグナー『ニーベルンゲンの指輪』全曲の録音も行いました。

晩年の輝きもブルックナー指揮者らしく、1996年にはシカゴ交響楽団に客演し、この時の記録もCD化されています。

【第1番】

朝比奈隆 生誕100周年 ブルックナー交響曲全集 交響曲第1番 ハ短調(ハース版) 第1番 大阪フィル 1994年5月15~17日 大阪フィルハーモニックホール Canyon Classics PCCL-00469

ハース版の演奏です。全体に生硬な印象をうけますが、弦楽器の響きはよく磨かれて実に美しいものです。朝比奈自身、ヴィオラとヴァイオリンを弾いていた影響もあるのでしょうか、ここでは弦楽器と木管楽器があくまでも主役です。その一方、管楽器はやや後景にひいているように感じます。第1楽章は快速なテンポではじまり、ブルックナー特有の躍動感があります。中間2楽章も大いなる緊張感と細心の注意のもと演奏が展開されていると感じます。終楽章では管楽器がときに前面にでますが、その存在は抑制的かつ限定的です。管楽器ではリズムを強調し残響が短く感じるのは録音ゆえでしょうか。エンディングも派手さはありませんが爽やかな充実感があります。

【第2番】

朝比奈隆 生誕100周年 ブルックナー交響曲全集 交響曲第2番 ハ短調(ハース版) 第2番 大阪フィル 1994年1月24~27日 大阪フィルハーモニックホール Canyon Classics PCCL-00470

大阪フィルの設立に朝比奈隆は奔走しました。出来上がったオーケストラに、安定したポストとして常任指揮者、音楽監督に就任したといったケースとは全く異なり、彼自身が苦労を重ねたビルダーであり、その最大の成果の一角はブルックナーの交響曲全集を世に問うことでした。

第2番(ハース版)を聴いていると、指揮者の指示が末端まで完全に行き届いていることが実感できます。よく、大阪フィルには音の厚みが足りない(特に管楽器が弱い)といった見方がありますが、それがブルックナー演奏の制約にはならないことを本盤は実証しています。もっとも重要なことは、ブルックナーの音楽に内在している波動を的確に捉えているかどうかにあります。第2番の難しさは、この波動に乗りにくいことにあると思いますが、朝比奈隆/大阪フィルの演奏では第1楽章から一貫して、隠された波動をしかと捕捉していると感じます。第2楽章、ゆったりとしたテンポのなか弦楽器の美しさもひとしおです。第3楽章も基本的にはこのテンポが維持されますが、終楽章冒頭は一転加速され軽快さが増します。しかし、ふたたびテンポは弛められ表現の濃度が高くなります。

【第3番】

第3番 大阪フィル 1993年10月3~6日 大阪フィルハーモニックホール Canyon Classics  PCCL-00471

オーソドックスな演奏スタイルです。はじめから作為なく、安定したテンポのなか自然体で楽曲を忠実に再現していくという姿勢が貫かれています。しかし、これだけであれば、凡庸な演奏に陥りがちですが、第3番では、弦楽器の表情づけを少し濃厚にし、管楽器が程よいアクセントをつけています。

なお、指揮者自身が、第1~3番の初期3曲中、本曲の演奏のやりにくさを語っており(「ブルックナーの音楽」pp.249-316,『朝比奈隆 交響楽の世界』1991早稲田出版 所収)、プリングスハイムから稿の取り上げでアドヴァイスを受けたことも率直に紹介されていますが、ここでは第3稿改訂版(シャルク改訂版)を使用しています。

【第9番】

ブルックナー: テ・デウム / 交響曲 第9番(原典版) 第9番、テ・デウム 東京交響楽団 1991年3月16日 東京渋谷オーチャードホール Canyon Classics PCCL-00520

 オーケストラの演奏の質なら、これよりも良いものはいくらもあるでしょう。また、朝比奈隆の演奏に限定しても、大阪フィルの方が、粒が揃っていて良いとの意見もあると思います。しかし、このライヴ盤を聴いていると、指揮者がブルックナーという作曲家の素晴らしさをとことん見切っていたのではないかという確信をもちます。

 美しく、そして力強いブルックナーです。プレイヤーの腕、個々の演奏の巧拙など、この真剣な作曲家との対峙のまえでは、「どうでもいい」とも思えてきます。朝比奈がもっと早く世界に知られていたら、世界中にもっと広範なファンができたでしょう。いまでも世界中のブルックナー好きのリスナーに一度は、日本人のこの演奏家に耳を傾けてほしいとも思います。

 ブルックナーの遺言どおりに、テ・デウムも同日の演奏です。しかし9番の余韻に浸りたいなら3楽章で止めてもよいでしょう。人それぞれの聴き方、楽しみ方ができる点でも好ましいセットです。

[2007年6月23日]

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◆若杉弘(わかすぎ ひろし、1935~ 2009年)

朝比奈隆が、大阪フィルを主体に日本でのブルックナー交響曲の普及につとめた一方、朝比奈隆とはちょうど親子ほどの年の差ながら、東京で、そして海外でのブルックナー演奏で存在感をしめしたのが若杉弘でした。

若杉弘は、小澤征爾と同年代、若くして国内の主要オーケストラと共演し、30代で読響常任指揮者(1972~75年)を務めたのち、42歳でケルン放送響(現WDR響)首席指揮者(1977~83年)に就任し、ベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送響、ボストン響、モントリオール響など欧米の主要なオーケストラにも客演。コンサートでは積極的に現代音楽を取り上げる一方、マーラー、ブルックナーなどの交響曲全曲演奏をチクルスとして敢行しました。 

また、オペラ指揮者としても著名で、ダルムシュタット歌劇場、ドルトムント歌劇場をへてバイエルン国立歌劇場指揮者、その後、ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督GMD(デュッセルドルフ/デュイスブルク:1981~86年)、ドレスデン国立歌劇場およびドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者(1982~92年)を務めるなど、欧州の主要歌劇場で活躍しました。

活動の拠点はドイツにとどまらずチューリヒ・トーンハレ協会芸術監督・同管弦楽団首席指揮者(1987~91年)も兼任するなど、欧州での輝かしい成果が注目されました。

ブルックナーについてのメモリアルでは、欧州の活動をおえて帰国後、1995年から逝去までNHK交響楽団正指揮者の地位にありましたが、N響との「ブルックナー・チクルス 1996-98」(ブルックナー没後100周年/サントリーホール開館10周年、N響創立70周年記念、3期9公演、メシアンとともに演奏)と題された3年にわたるブルックナー交響曲の全曲演奏が有名です。

第7番(ノヴァーク第2版/1996年1月29日)、第3番(第3稿ノヴァーク版/1996年2月26日)、交響曲第8番(第2稿ノヴァーク版/1996年3月31日)、第2番(第2稿ノヴァーク版/1997年1月13日)、第4番(1878・80年稿ノヴァーク版/1997年2月24日)、第6番(ノヴァーク版/1997年3月18日)、第5番(原典版・ノヴァーク版/1998年1月27日)、第1番(第1稿リンツ稿・ノヴァーク版/1998年2月28日)、第9番(ノヴァーク版/1998年3月13日)の記録は2020年に全曲CDとして販売されました。

さて、若杉弘さんには2つの思い出があります。クラシック音楽を聴きはじめた1960年代の終わり、小生が中学生の頃ですが、NHKシンフォニーホールといった番組があり、これは入場無料の公開録画でした。場所はまだNHKが内幸町にあり、小振りながら音響効果が良いといわれたNHKホールもここにありました。往復葉書で申し込み、当たればN響などの演奏が聴けるのみならず、指揮台のまわりに配置された花まで希望者は収録後にお土産で持って帰れます。しかも、一流の演奏家が登壇しました。海外の著名演奏家の時もありましたし、当時は新進気鋭の岩城宏之や若杉弘の演奏は何度も聴くことができました。

  若杉弘さんはこの時期、N響の指揮研究員という立場で、カイルベルト、ロイブナー、マタチッチ、サヴァリッシュ、アンセルメ、マルティノン、エレーデなどの薫陶を受けたといわれますが、スマートで実に格好が良かったです。たしかブラームスの交響曲だったと思いますが、演奏中、譜面台に指揮棒が当たり炸裂し四散しましたが、若杉さんは全く意に介さず激しい振幅運動を続けられました。小生は比較的前列に座っていたので、その光景がよく見え感激が倍加しました。1935年生まれの若杉さんは当時30歳代前半です。力一杯タクトを振っていました。

 次の思い出は、N響との全曲演奏チクルスがはじまる2年前ですが、1994年10月29日東京芸術劇場で都響との共演でブルックナーの第8番を聴きました。この時は東京都の職員にして知人のY君の特別のはからいで幸いゲネプロにも同席することができました。貴重な経験でしたが、練習時にはあまり細かな指示は出されずにほぼ通しで流していたように記憶しています。本番も良い演奏でした。

ブルックナーは得意の演目だったと思います。朝比奈隆氏についで若杉弘さんは日本人のなかで世界に通用するブルックナー指揮者でした。

第2番、第9番 ザールブリュッケン放送響 ザールブリュッケン・コングレスハレ ドイツ 1992年4月23~27日(第2番)、1994年12月19~21日(第9番) BMG BVCC-40068

【第2番】

1877年ノヴァーク版による演奏です。アプローチは正攻法の一言です。音に融合感があります。ややくすんだ重い響きですが、それが落ち着いた雰囲気のなか、よく調和しています。神経質でない、それでいて一定の張りつめた緊張感があります。第2楽章の弦楽器のアンサンブルが絶妙で、ここは流麗感があり表情はほの明るく、上品で清潔な響きです。後半2楽章も巡航速度を保ち、じっくりと仕上げていきます。フィナーレまで丹念に描き切った端正な演奏です。

なお、ザールブリュッケン放送響は、スクロヴァチェフスキとの交響曲全集がありますが、第7番(1885年ノヴァーク版、1991年9月27、29日)、第8番 (ハース版、1993年10月8、9日)をこの時期に収録しています。

【第9番】

原典版による演奏です。全体に、構えを大きくとり、思い切りオーケストラを鳴らしています。その一方、第2番同様、弱音部の弦楽器のアンサンブルはとても美しく響きます。円熟のブルックナーであり、この作曲家への若杉弘&ザールブリュッケン放送響の思い入れが伝わってくるようです。複雑な心理描写はあまり意識されず、音は重いのですが、けっして基調は暗くありません。そこはおそらくは、好み、評価の分かれ目ですが、小生はそれがいかにも若杉のスタイルらしく好感がもてる。再リリースして、多くのブルックナー・ファンが手にとってほしい成果です。

[2019年2月5日]

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§ ケント・ナガノ(Kent George Nagano, 1951年~)

ケント・ナガノは、日系アメリカ人3世ですが、ドイツでの活躍が注目されました。奥様はピアニストの児玉麻里、愛娘はピアニストのカリン・ケイ・ナガノ (Karin Kei Nagano)です。

彼はドイツの主要オケと積極的にブルックナーを取り上げています。2003年3月、第3番(1873年第1稿)、2005年6月、第6番をベルリン・ドイツ響と収録。その後、引き続いて、バイエルン国立管とともに本集の第4番(2007年)、第7番(2010年ベルギー、ゲント・カテドラル)、第8番(2009年ミュンヘン、ファラオ・スタジオ[第4番も同じ])を世に送りました。以下は各番について若干の感想を記します。

第3番 ベルリン・ドイツ響 2003年3月 N.L.G.スタジオ ベルリン Harmonia Mundi  KKCC-511

【第3番】

1873年第1稿による演奏です。第1稿は現代の指揮者にとっても、取り上げには勇気がいるでしょう。なによりも後の改訂稿にくらべて演奏時間が長い。しかもソナタ形式を遵守せんとするがゆえに繰り返しが煩瑣で緊張感が持続しにくい。かつ、ワーグナーのメロディの混入によって、曲想のイメージに不自然なところがあるなどの課題があるからです。

ケント・ナガノの第1稿演奏は挑戦的です。彼は、“欠点”を“欠点”とは捉えず、原曲の特色をむしろ堂々と打ち出します。特に長い第1楽章では、あえて遅めのテンポを取り、繰り返しも淡々とこなし、あたかもこの曲がいま誕生したかのような初々しさで丹念に奏します。そう!自信に満ちた初演指揮者のような演奏です。

第2楽章のワーグナー音楽の影響も、意識して聴くと面白さがあります。『タンホイザー』からの引用ほかが溶け込んでいるので、はっきりとは認識しにくいところもありますが、いわば“ワーグナーの陰がさすパート”を発見するのも一興ですが、彼は、名案内人のように、そこはゆっくりと奏でて、リスナーをわかりやすく誘導してくれます。

一方、第3楽章は、後の改訂稿との差があまりありませんが、ここは快速に飛ばして緊張感を持続させます。第4楽章は、ブルックナーの荒ぶる魂を思い切りぶつけるような演奏です。終楽章に関して、第1稿では整序前の濃厚さと雑味がありますが、あえて呑兵衛的に言えば“原酒の良さ”に似たりでしょうか。同じ銘柄ながら吟醸酒ではなく、搾りたて原酒を出されたような感じです。ガツンとくる強さと豊かな芳香の味わいもけっして悪くはありません。約70分のトリッキー体験です。

[2019年4月29日]

第4番、第7番、第8番 バイエルン国立管 第4番(2007年7月 ミュンヘン、ファラオ・スタジオ[セッション]) 第7番(2010年9月 ベルギー、ゲント・カテドラル[ライヴ]) 第8番(2009年7月 ミュンヘン、ファラオ・スタジオ[セッション]) Farao Classics  A108076

【第4番】

1975年にノヴァーク版第1稿として出版された1874年稿(第1稿)による演奏です。作曲家自身がその後、多く改訂をくわえているので、完成度と洗練度では第2稿以降のほうが高く、一般にはそちらを選択すべきでしょう。一方、“創作の秘密”に迫るという視点からは、第8番にも共通しますが、野趣あふれるリズム感、より素朴なメロディの出現など、第1稿ならではの特色もあります。

第2稿で第3楽章は差し替えられたので、“はじめ”の第3楽章を聴きたければ第1稿を手にとることが必要です(但し、そこまでして、本楽章を聴くべきかどうかは別の判断ですが)。

ケント・ナガノは、ディテールを正確に表現することに加えて、ブルックナー特有の内在する波動をしかと捉えて、ドライブ感のある演奏です。あえて第1稿でなくとも、通常の版でも並みいる名盤に十分に拮抗できるだけの水準にあると感じました。

【第7番】

この演奏は、聖バーフ大聖堂(Ghent, Saint Bavo Cathedral)で行われました。残響がながくブルックナー・サウンドが拡散して心地よく満ちわたるのが本盤の一つの特色です。

ケント・ナガノは第4番では、1874年稿(第1稿)という“レア対応”をとりましたが、第7番は異稿問題が基本的にはないので、実にオーソドックスな演奏です。ゆえに個性的なコントラストを収録ホールの音響でつけているのかなとも感じました。

先行収録した第4番同様、ブルックナー特有の内在する波動をしかと捉えており、それを見事に再現しています。ブルックナーはよく知られるとおり、数字についての拘りが強く、一種の強迫神経症だったといわれますが、リスナーには(繰り返しが多いなという以上には)一般には意識されませんが、厳密な規則性への拘りは、内在する波動に転化されます。

それを読み取って躍動感をもって表現できるかどうかが演奏の成否を決めるといってもいいのですが、ケント・ナガノのナチュラルで良く伸びるサウンドの背後には、安定し途切れぬ緊張感をもった波動があります。

【第8番】

第8番1887年初稿による演奏です。第4番につづき、初稿で勝負といったケント・ナガノの意気込みが伝わってきます。全体に、構えを大きくとり、音の奥行が深く、かつテンポは遅い(約100分)。それはチェリビダッケのアプローチに似ていますが、第3楽章などギリギリの失速懸念のなか、緊張感が途切れないのは、先に指摘したブルックナー“波動”をしっかりと見切っているからでしょう。

第1楽章、曲想の基本はその後の版とかわりませんが、第2稿とくらべて再現部以降のバランス、歯切れがいかにもわるく、かつワーグナー的メロディがやや不自然に挿入されています。第2楽章は、楽器が次々に新手のように繰り出されてくるカラクリは、面白く聴くことができます。また、テクスチャーの豊かさ(未整理ともいえますが)は“原石の輝き”でしょうか。第3楽章は約37分となんとも長大ですが、ここではバイエルンの魅力的なアンサンブルの音質が“暗さ”を抑制しています。終楽章も濃密ですが、それにしても、これだけの長丁場、緊張感を持続させるタフな演奏はいかにもドイツ的といえるかもしれません。

[2019年2月17日]

ブルックナー・コラム Ⅷ

ドイツ・ロマン主義   ドイツ人の徹底性は世界に冠たるものでしょう。哲学におけるカント、ヘーゲルそしてマルクスらの諸著作、文学におけるゲーテやトーマス・マンの小説などをみても明らかなとおり、みずからの考え方を根源から措定し、徹底して考究し、それをあくなき努力で理論化し、あるいは芸術的に昇華して世に問うていこうとする圧倒的なエネルギーには驚かされます。 音楽においても、たとえばワーグナーの全作品リストを見ていると、量だけでなく、後生に残ったという結果からみてもその高質さに異論をさしはさむ余地はないでしょう。しかも、彼らには自己の芸術を、あますところなく表現するうえで執拗な「主題の追求」があります。芸術の分野においては、当時、ドイツ・ロマン主義といわれる嵐が吹いていました。   音楽史の本を繙くと、「1770年頃イギリスとドイツの文芸に始まったロマン主義の運動は、19世紀のはじめに音楽にその発現を見出した。そして、ほとんど百年の間、音楽を支配する力として存続した」(ハード,M.(1974)『西洋音楽史』福田昌作訳,音楽之友社,p.157)とあります。   一般にここで、ロマン派としてあげられるのは、たとえば、「ウェーバーとシューベルト、シューマンとワーグナー、メンデルスゾーンとベルリオーズ、ブラームス、リスト、そしてブルックナー」(アインシュタイン,A.(1956)『音楽史』大宮真琴・寺西春雄・平島正郎・皆川達夫訳,ダヴィッド社,p.162)といった人々が並びますが、そのうちブルックナーについては、特異の位置づけで、「彼のミサ曲において、古代オーストリアの器楽的な教会音楽作曲家の直系」(同p.193)でありながら、ロマン派の最後の交響曲作曲家でした。   交響曲第4番を「ロマンティック」と自ら名付けたブルックナーですが、同書によれば、ブラームスの交響曲は室内楽に根ざしているとしながら、対してブルックナーは「シューベルト的なものがもっとも豊富に彼の交響曲のなかを流れている」(p.208)とし、そのあくなき「主題の追求」を高く評価しています。   このように、ブルックナーは、オルガニスト兼教会音楽作曲家としてスタートし、遅れてきた交響曲作曲家であったわけですが、従来の「形式」にかたくなに拘りつつ、しかし、その音楽の独自性においては、前人未踏な領域に挑戦しつづけたのも事実です。 リストやワーグナーによって拡張された楽器用法に準拠し、徹底した和声法の研究のうえ、長大な交響曲を数多く作曲したブルックナーですが、なぜ、ここまで巨大で長い交響曲でなければならないのか。しかも、それは作曲初期から晩年まで一貫して変わることがありません。否、むしろその志向は年とともにより強くなっているようにも見受けられます。その際、聴衆はもちろん意識していますが、それ以上に己の強い意志のもと、自己実現の手段として、交響曲の作曲はブルックナーにとってはけっして妥協できない営為でした。 自らの作品の受容のために節は曲げられない。この点で、湧き上がる創作意欲と作品の普及のディレンマに直面し、自分ではいかんともしがたい悩みをかかえていました。ゆえに、本人は改訂をし続ける一方、弟子たちは成功裏に演奏を可能とするために、見るに見かねで、長大曲の改訂、短縮化に積極的な労をとりました。後世から「改竄版」のそしりを受けるのは、当時の状況において彼らにとってはなんとも不本意でしょう。 余談ながら、朝比奈隆は、そうした点で、シャルクやレーヴェの改訂版になんら偏見をもっていませんでした。フルトヴェングラーから原典版での演奏の重要性を直接聞き、ロベルト・ハースとも交誼のあった彼ですが、第3番の録音に際して堂々とこの「改竄版」を用い、当時の音楽評論家の度肝をぬきました。   カーダス,N.(1969)『近代の音楽家』篠田一士訳,白水社,pp.129-131)では、ブルックナーがシューベルトの系譜をひくという同様な見解をとりながら、ドイツとオーストリアの音楽の違いにふれたあと、次のように述べています。   「シューベルトとともにオーストリアの交響曲が生まれた。それは英雄的でも倫理的でもなく、ロマン的な意味合いにみちた自然崇拝によって霊感を与えられたものである。」    19世紀初頭、ヴィルヘルム・シュレーゲルという人が、ドイツ文学には、「修道士的なもの、騎士的なもの、市民(ブルジョワ)的なもの、そして衒学的なもの」があり、「ロマン主義はこれら4つの特性を表現するものでなければならない」としていますが興味深い指摘です。しかも今日から振り返ってみてのことですが、ドイツ・ロマン主義には緊張過多としての高揚(das Ueberspannte)があるとされる一方、その後の時代のような退嬰的な要素はいまだ含んでいない点を強調しています(アンジェロス, J.F.(1978) 『ドイツ・ロマン主義』野中成夫・池部雅英訳, 白水社, pp.7-22.)    ワーグナーはちょうどこのロマン主義の終焉期に生き、哲学ではニーチェやキルケゴールの懊悩を強く刺激し、またその音楽ではマーラーやヴォルフへ大きな影響をあたえました。彼らは、前述のカーダスの言葉を一部借りるならば、英雄的、(反)倫理的な強い個性をもっていたと思います。    さて、ブルックナーですが、すでに時代はロマン主義に懐疑し、次の思潮を求めていたときに、彼自身には退嬰的な要素など微塵もないばかりでなく、いまだ古きロマン主義の孤塁を守っていたようにも思われます。「ロマン的な意味合いにみちた自然崇拝によって霊感を与えられた」ブルックナーと同時代に生き、ゲーテに心酔していたオーストリアの詩人アーダルベルト・シュティフター(1805~86年)の長編小説『晩夏』の次の1節は ブルックナーのシンフォニーを彷彿とさせないでしょうか。    「高い山々に登ってそこから周囲の風景をみおろすのが大好きだ。次第に眼が慣れてくると、大地の絵のようなかたちが細密な特徴を伴って浮かび上がり、やがて眼はそれらを綜合的に把握するようになる。人間の心情が打ちひらかれるのもこれらの姿に対してであり、こうした大地のひだや高まりや流れや方向の転換などが、主点にむかうそれぞれの努力や面にむかう拡散としてあらわれてくる」(坂崎乙郎(1976)『ロマン派芸術の世界』講談社現代新書,p.176)。   <参考文献> ・クルタ―マン,U.(1993)『芸術論の歴史』神林恒道・太田喬夫訳,勁草書房. ・シュタイガー(1967)『音楽と文学』芦津丈夫訳,白水社. ・野村良雄(1956)『精神史としての音楽史』音楽之友社. ・門馬直美(1976)『西洋音楽史概説』春秋社.

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