第5章 チェリビダッケ、ヴァント

この章では、カラヤンと同時代人で、晩年その動向が注目され、いまも根強い人気を誇る二人にスポットを当てたいと思います。

◆チェリビダッケ(Sergiu Celibidache, 1912~96年)

チェリビダッケの名前は、1960年代からクラシック音楽の一ファンになった小生のような者にとっては、戦後のベルリンでフルトヴェングラーやカラヤンと活動の時代が重なり、その後、杳(よう)として表舞台から消えた幻の名指揮者として鮮烈に記憶に刻まれました。第1章でふれた映画『フルトヴェングラーと巨匠たち』では、若きチェリビダッケはエグモント序曲を振りましたが、正面を見据えた厳しい表情で、これは恐そうな人だな、というのが映像からの第一印象でした。

 時をおいて、NHK-FM放送で彼の名前が登場しました。1969年ヘルシンキ芸術週間でのベートーヴェン:第5番ピアノ協奏曲は、ミケランジェリのピアノ、チェリビダッケ/スウェーデン放送響の演奏。ミケランジェリもレコードが極端に少なく、当時、これはライヴによる両完璧主義者の「皇帝」として大きな話題になりました。

 内攻する演奏 ―内に向かって集中力が凝縮していくような演奏― という点で、チェリビダッケはその師、フルトヴェングラーと共通するところがあると思います。また、非常なテンポの遅さや濃厚なハーモニーなど他ではけっして聴くことができない彼独自の演奏スタイルをもっており、かつどのオーケストラとの共演においてもそれを堅持するという点でも異彩を放っています。

 ブルックナーの交響曲は、フルトヴェングラー、チェリビダッケともに自家薬籠中の演目です。チェリビダッケは、ベルリン・フィルの戦後復興期の立役者であり、フルトヴェングラー復帰までの間、首席指揮者の地位にありながら1954年に突然身を引くことになります。その後、フルトヴェングラーが復権し歴史的な名演を次々に残し、没後はカラヤンがその跡目を継いで世界最高の機能主義的な管弦楽団へとベルリン・フィルを導きます。その機能主義は、極論すれば、どんな指揮者が振っても、ボトムラインを意識させず高水準を維持するドイツブランドの精密機械とでもいうべきイメージをベルリン・フィルに付与しました。

 一方で、チェリビダッケの流儀はこれと対極ともいえます。ベルリンを去ってのちチェリビダッケはさまざまなオケと共演しながら、徹底した練習によって、楽団の演奏スタイルを強烈に自分流に変えていくといわれました。また、どの作曲家を取り上げても「チェリビダッケの・・・」と冠したいような独創性がその身上です。

 ブルックナーの交響曲は、指揮者によって解釈の余地の大きい、演奏の自由度の高い作品であり、チェリビダッケにとって自分の個性をぶつけやすい演目といえるのかも知れません。1990年10月10日渋谷のオーチャードホールで第8番(ノヴァーク版1890年)を聴きましたが、テンポは厳格にコントロールしながら音のダイナミズムを変幻自在に操り、先に記したとおり「内攻し続ける」演奏でした。確信に満ちた演奏であり、天上天下唯我独尊といった言葉を思わず連想しました。

 その2年後、チェリビダッケは、ヴァイツゼッカー大統領の要請をうけ、ベルリン・フィルとの決裂後、最初で最後の演奏会を38年ぶりに果たします。その演目はブルックナーの第7番でした。彼がいかにブルックナーに自信をもっていたかの証左ではないでしょうか。

≪正統と異端≫

さて、正統と異端といった対立項で、カラヤンとチェリビダッケの関係をあえて考えてみたいと思います。

チェリビダッケが第二次大戦直後のベルリン・フィル復興へいかに貢献したかは有名ですし、フルトヴェングラーはチェリビダッケには「恩ある身」で大変親しく、一方カラヤンは大嫌いでしたから、後任にチェリビダッケを推挙したかったかも知れません。しかし、チェリビダッケは自らベルリン・フィルと対立しここを去りカラヤンが後任の座を射止めます。その後、カラヤンは「帝王」の名をほしいままにし、チェリビダッケは欧州を転戦する道を選ぶことになります。 商業的にもカラヤンは世界を制覇し<正統>性を誇示しますが、チェリビダッケは反対に、ますます録音芸術の世界では、幻の指揮者としての<異端>性が際だつことになります。

さて、両巨頭とも鬼籍にはいって時が流れました。今日のリスナーにとってはそうした過去のドラマとは別に純粋に両者の演奏に親しむことができます。カラヤンがベルリンで背負ってきた歴史的、政治的重みは大きかったと思いますし、チェリビダッケはこの間、カラヤンの名声とともにあるさまざまな桎梏からは自由に、自分の音楽に没入できたといえるかも知れません。こと音楽の世界では、<正統と異端>といった書き割り的な単純化では表わしがたいことでしょう。

≪ 禅 ≫

チェリビダッケはベルリンでの若き日から中国人導師のもと禅に傾倒していました。映画『チェリビダッケの庭』について安芸光男氏は次のように指摘しています。

― 『チェリビダッケの庭』は、音楽と世界についての含蓄の深いアフォリズムに満ちている。そこから彼の思想を要約することばを一つだけ取り出すなら、「始まりのなかに終わりがある」つまり「始まりと終わりの同時性」ということである。これは音楽の開始について、指揮科の学生に語ることばなのだが、それは彼の宇宙観を集約することばでもあるのだ。―

(引用:http://homepage3.nifty.com/musicircus/aki/archive2/55.htm )

 ブルックナー指揮者としてのチェリビダッケが、どれほどその音楽と禅との関係を明確に自覚していたかはわかりませんが、上記の言葉はブルックナーの音楽の魅力を見事に表現していると思います。

「宇宙的」とか「大自然」とかの比喩もブルックナーの音楽ではよく用いられますが、日本人(あるいは日本通)ならではかも知れませんが、チェリビダッケ盤のジャケットの枯山水、石庭のイメージも良く似合う気がします。

 同じ宗教的な感興に根差すとして、ブルックナーが信仰していたカトリックとチェリビダッケが好んだ禅宗を無理して結びつけるような愚は避けたいと思います。そうしたセンティメントは実はあるのかも知れませんが、どちらにも半可通以下の自分が、聴いていて唯一直観する言葉は「無窮性」です。

「無窮性」と「非標題性」については従来から考えていることですが、最近、これは同じことを違う言葉でいっているだけかも知れない、とも思います。

すなわち、標題性とは「具象的」ですが、非標題性とはその反語という意味で「抽象的」といえると思います。ブルックナーの激烈な大音響やとても優しく美しい旋律(といった「具象」さ)に親しみつつ、なんどもなんども同じ曲を聴いているのは、その背後にある解析不能の何か(言葉で表現できない「抽象的」な何か)に惹かれているからではないかと感じます。チェリビダッケの言葉は、そのことをうまく言い得てくれているような気がします。

さて、枯山水や石庭のまえでは、ぼんやりと無念の気持ちで時のたつのを忘れます。ブルックナーまた然りです。

【第3番】

ブルックナー:交響曲第3番 第3番 ミュンヘン・フィル(MFO)1987年3月19、20日 ガスタイク・フィルハーモニー、ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50092

晦渋なる精神を感じさせる第3番(ノヴァーク版1888/89 年)ですが、チェリビダッケの演奏は第1、第2楽章は非常に遅く、第3楽章のトリオでやっと普通の速度になります。終楽章のアレグロ終結部は驚きです。普通はピッチをあげて高揚感を盛り上げるところ、なんとここでチェリビダッケは減速します。最後まで、彼の流儀を貫いた演奏であり、その濃厚な音の束ね方からみても異色の演奏です。

チェリビダッケにとって、各曲に要する時間(全体で64:35)は表現のために必須であり、「始まりのなかに終わりがある」という彼の言葉を連想させます。これは、先に指摘した「無窮性」に呼応し1曲の交響曲においても、ブルックナーの全交響曲にもあてはまるものかも知れません。そうしたことを強く意識させるライヴ盤です。

[2016年1月17日]

【第4番】

ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」 第4番 MFO 1988年10月16日 ガスタイク・フィルハーモニー ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN WPCS-50093

明るい色調の第4番(ハース版)です。ブルックナーの演奏では集中力を維持するために、テンポを揺らす方法もよくとられますが、チェリビダッケはこれを禁則化しており、一定の遅い運行のなかで、ボキャブラリーの豊饒さこそが最大の特色です。管楽器の活躍するパートの多い本曲では、ここまで遅くすると、息継ぎまでの奏者の技量が極限まで試されているようにも感じます(ふらついた音などチェリビダッケはけっして許してはくれないでしょうから尚更です)。

それは演奏者に極端な緊張をしいます。ベームも同様ながらテンポの厳格な維持では弦楽器群も同様です。ミュンヘン・フィルはよく鍛えられていて、それが聴衆にひしひしと伝わってきます。チェリビダッケ流のオーケストラ操舵法であり、リスナーへのおもねりなき統制です。

第2楽章の主旋律とピチカートの掛け合いも整然そのもの、感情は抑え気味で音をひそめた規則正しい行軍のような趣きです。第3楽章では、やや加速ぎみに処理しますが、フォークロア的メロディ部分では速度を保ち、こよなく美しく奏されます。終楽章は冒頭から量感が漲り、堂々とした構えです。終結部直前で大胆に減速しエネルギーを溜めて一気にフィナーレへ登りつめる緊迫感は強く、第4番屈指の迫力あるライヴ演奏といっていいかも知れません。

[2016年1月17日]

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 MFO 1991年2月14、16日 ガスタイク・フィルハーモニー ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50698

CD1枚には収まらず2枚組の第5番(ハース版)です。前半2楽章(46:57)はいかにもチェリビダッケらしい長大感です。第2楽章、ボヘミアン的な雰囲気のある有名なパッセージでは、ヨッフムなどに比べてこのテンポ設定はいささか緩慢すぎる気もします。一方、後半(40:42)は(通常レヴェルはやや越えるにせよ)極端な速度の遅さは感じられません。チェリビダッケの多くのライヴ盤に馴染んでいるリスナーであれば、逆説的ですがむしろ「快速」と感じるかも知れません。

終楽章に身を委ねていると、前述の「内攻する演奏」を強く感じます。チェリビダッケのライヴでは、そのクライマックスの壮大さに誰しもが驚きますが、それは、安手の設えで派手な音を鳴らすことではなく、あたかも滝壺に轟轟たる流水が落ちていくといった感じです。彼独自の演奏スタイルによって、文字通り滝に打たれる如くの音楽体験です。第5番は第8番とともに、終楽章のコーダの構えが大きく、その分、落差の大きな巨滝を眼前にしているようなイメージです。何にでも煩型のチェリビダッケは聴衆の拍手もあまり好まなかったようですが、終演後の猛然たる拍手は、当日の感動のバロメーターでしょう。

[2016年1月17日]

【第7番】

第7番 BFO 1992年3月31日、4月1日 シャウシュピールハウス ベルリン  [DVD] EuroArts 2011404

1954年に袂を分かってのち38年ぶりにベルリン・フィルの指揮台に立った歴史的公演です。晩年、宿敵だったカラヤンはウィーン・フィルと本曲を取り上げました。一方で、カラヤン亡きあと、チェリビダッケはベルリン・フィルに“帰還”したわけで、ジャーナリスティックにもそれは大きなニュースでした。

両演奏の共通点は、遅いこと、メロディがこよなく美しいことです。しかし、両巨頭ともに往時の“覇気”では、それまでの録音とどちらが魅力的かは微妙です。この演奏も立派ですが、チェリビダッケ特有の大きな構造設計が見えにくい気がします。ヴァントの晩年のベルリン・フィルとの共演でも同様な感想をもったのですが、この抜群の起用さを誇る楽団は、指揮者との折り合いのつけ方でも「優秀」で、冷静に難なくこなします。しかし、それが、ときに透けて見えるような記録でもあります。歴史的邂逅なれど、チェリビダッケにとってもベルリン・フィルにとっても、これはベスト盤ではないと思います。

【第8番】

 

第8番 MFO 1993年9月12、13日 ガスタイク・フィルハーモニー ミュンヘン WARNER MUSIC JAPAN  WPCS-50701

一音、一音が、フレーズが、パッセージが固有の意味をもっているのだ、と繰り返し練り込むような演奏(ノヴァーク版1890年)です。ミュンヘン・フィルの弦楽器群は、文字通り一糸乱れぬ臨場(ライヴ盤とはとても思えません)、対して管楽器群の威力は凄く、これが合わさったときの濃度の高さを形容する言葉がなかなか見つかりません。適切な比喩ではありませんが、水の流れではなく“液状化”といった感じでしょうか。

第1楽章が遅く重いので、つづくスケルツォは通常より遅いにもかかわらず、もたれ感がなくハープの響きが清涼剤のように感じます。第3楽章では低弦のあえて混濁した響きではじまり、それが曲の進行とともに音が徐々に純化、浄化されていくような展開をとります。各楽器パートの意味ありげな表情の豊かさは、ブルックナー自身の想定をはるかに超えているかも知れません。しかし、不思議なことにその背後には、なにか霊的で静謐なものがあるように感じさせます。この一種の「濾過過程」の表現が有効に機能しているからでしょう。演奏に一瞬の弛緩がなく、ゆえにこの楽章だけで35分の遅さがさほど苦になりません。終楽章もテンポは動かさず遅さも不変です。緊張感の持続の一方、強奏部の迫力がここでの魅力です。全体のバランスはけっして崩しませんが、ここぞというところでは、思い切り弾き、鳴らしています。ケンペ時代の録音も同様ですが、こうした場面でのミュンヘン・フィルの質量には圧倒されます。

[2020年8月25日]

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◆ヴァント(Günter Wand, 1912年~2002年)

ヴァントはチェリビダッケと同年の生まれです。1938年ケルン近くのデトモルト州立歌劇場で、その後ケルン歌劇場を足場に一歩一歩実力を蓄え、ケルンを本拠地に1946年同市の音楽総監督に就任します。手兵ケルン放送交響楽団とのブルックナー交響曲全集はその代表作です。

 ヴァントのブルックナーの特色は、テキストを徹底的に研究し忠実な演奏を目指すことや各楽章間の最適な力配分を常に意識した演奏といった点ではヨッフムに似ています。その一方で、テンポ・コントロールは常に安定しつつも決して過度に遅くならず、むしろ時に軽快なさばきを見せる(それゆえ、全体に「重すぎる」感じを与えない)技巧ではシューリヒトと共通するところもあります。  

さらに、音の凝縮感をだすためにおそらくは相当な練習で音を練りあげる名トレーナーとしての顔ではベームと二重写しともいえます。しかし、そうした印象を持ちながら聴いたとしても、全体の印象からはやはりヴァントはヴァントであり、右顧左眄しない解釈にこそ彼の独自性があると思います。

ヴァントの晩年の録音はいまも人気がありますが、小生は1970年代の演奏をより好ましく感じます。そのいくつかを見てみましょう。

 

全集(第1番~第9番) ケルン放送響  1974~1981年 WDRグローサー・ゼンデザール RCA Red Seal 88697776582

ヴァントのセッション録音の全集です。全曲、均一な優れたものですが、特に番数の若いものおよび第6番に、ヴァントらしい丁寧な音づくりの至芸がみえるように思います。小生は晩年のベルリン・フィルやミュンヘン・フィルの演奏よりも永年苦楽をともにしてきたケルン放送響との演奏こそ、ヴァントらしさが横溢しており座右においています。

【第1番】

 ケルン放送響は1947年に創設され、ケルンと縁の深いヴァントは当初からこのオーケストラと演奏をともにしてきました。第1番は、ブルックナーがリンツで初演し、その稿である<リンツ版>とその後、ほぼ四半世紀をへて作曲者自身が大きな校正をくわえた<ウィーン版:作曲者晩年の1890/1891年改訂>があります。小生は、リンツ版ではノイマン、サヴァリッシュが、ウィーン版ではシャイーの少しく濃厚な演奏が好きですが、ヴァントの本盤はそれに比べて恬淡とはしていますが同じくウィーン版の代表的な1枚で、実に清々しい名演です。

【第2番】

 第2番では、ジュリーニ、ヨッフムをよく聴きますが、改めてヴァント/ケルン放送響に耳を澄ましてみて、これは実に良い演奏だと思います。シューリヒト的な小鳥の囀りに似た柔らかな木管の響きに癒され、第4楽章ではミサ曲第3番<キリエ>からの楽句には深い感動を覚えます。第2番では凡庸な演奏には時に感じる全体構成上の<ダレ>も全くありません。練り上げられた技量とブルックナー第一人者としての自信と自負に裏打ちされた名演です。

[2008年6月1日]

【第3番】

第3番も見事な演奏です。細部まで練りに練った演奏で、自由な音楽の飛翔とは無縁な、理詰な解釈と一部も隙のないような凝縮感が特色です。それでいて重苦しさがないのは、時に軽妙なテンポでいなすコントロールゆえでしょうか。ブルックナーを聴きこんだリスナーにこそ高く評価される練達の演奏です。

[2006年6月9日]

【第4番】

1976年12月、ヴァント64才の録音です。すでにケルン放送響とは30年近い実績を有しており、その意味では相性の良いコンビによる得意の演目でしょう。この当時、ヴァントは日本で紹介される機会に乏しく、また、ブルックナーそのものの注目度もけっして高くはありませんでした。ヴァントは1968年に来日し、読売日本交響楽団を指揮していますから、76年の時点で日本でも、けっして無名ということではなかったろうと思いますが、よもや晩年、そのブルックナー演奏がかくも熱狂的に迎えられることになると予測した向きは多くはなかったはずです。

 感情を抑制しつつもその実、熱っぽく、一方でしっかりとツボを押さえた抑揚のきいた演奏です。「練られた演奏」とでもいうべきでしょうか。ヴァントは、晩年のシューリヒトがそうであったように年とともに知名度をあげ、ブルックナーの大家と目されるようになります。ベルリン・フィルやミュンへン・フィルなどとも同番の名演を残しており、それとの比較では本演奏はいわゆる「旧盤」ですが、その解釈は一定でどのオケを振ってもブレは感じません。じっくりと作品に沈潜して、内在する音楽を見事に引き出すことに関しては、プロとしての安定性ある抜群の技能者でした。これは第4番に限りませんが、ブルックナーの荘厳な世界を見事に表現していく技量は確かで、リスナーに敬慕する気持ちを自然に抱かせます。

 

【第6番】

1976年8月の録音です。秘めた意志力が、すべて真率な「音」に転化されていくような演奏です。そうした「音」束が生き生きと、再現・創造の場でたしかな「運動」をしていると感じます。

 第6番についての先入主 ― 第5番と第7番の谷間のブルックナーにしては比較的小振りの曲で仄かな明るさが身上(これはベートーヴェンの第4番や第8番からのアナロジーかも知れませんが)-といった見方はヴァントの演奏では無縁です。

 色彩的には全般に暗く、むしろ、第5、6、7番には底流で作曲上の「連続した一貫性」があること、そこをあえて忠実に再現しようとする解釈を感じます。その姿勢は、奇をてらわず、いつもながら淡々として臨んでいるともいえるでしょうし、一方、上記のような通説、定番の見方などは、自分には一切関係なし、己は己の道をいくといった強き意志があるのではないかと思わせます。

 ヴァントらしい細部の丁寧な処理も他番の演奏と変わりません。しかし、第6番では、なかなかしっくりとする演奏に出会わないなかにあって、本盤はあくまでも「ヴァント流」を貫くことで他が追随できない高みに上った名演といってよいと思います。

【第5番】

ブルックナー:交響曲第5番 第5番 ベルリン・ドイツ響 1991年10月6日(ライヴ) コンツェルトハウス ベルリン       Profil PH09042

ヴァントのブルックナーの第5番には数々の音源があります。早くはケルン放送響の1974年のセッション録音、日本でのN響ライヴ(1979年11月14日、東京、NHKホール)、北ドイツ放送響ライヴ1(1989年10月8日〜10日、ハンブルク、ムジークハレ)、BBC交響楽団ライヴ(1990年9月9日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール)、ミュンヘン・フィルライヴ(1995年11月29日&12月1日、ミュンヘン、ガスタイク)、ベルリン・フィルライヴ(1996年1月12~14日、ベルリン、フィルハーモニー)、北ドイツ放送響ライヴ2(1998年7月11日、リューベック、コングレスハレ)などです。これは、根強い人気の裏返しであり本番を“十八番”にしていた証左でしょう。

  小生はこのうちケルン放送響盤をよく聴きますが、本盤は1991年のライヴ音源です。

  熱演です。他の演奏にくらべてオケの相対的な弱さを指摘する向きもありますが、冒頭からの顕著なライヴの高揚感と集中度に注目すれば魅力的な演奏です。なにより、ヴァント79才の漲る気力に驚きます。朝比奈隆の晩年の耀きを思い出します。両人ともブルックナー指揮者として堂々たる自負心があればこその臨場です。多少の技術的な瑕疵などは問題にはなりません。ヴァントの演奏が好きで、また第5番の複雑なる心象に惹かれるリスナーであれば一度は聴いて損のない記録です。

 

【第9番】

Wand-Edition: Symphony 9 第9番  シュトゥットガルト放送響 1979年6月24日(ライヴ) オットーボイレン ベネディクト修道院バジリカ聖堂 SEVEN SEAS KICC-967

 ヴァントの第9番にも数々の音源があります。ケルン放送響の1979年6月(シュトルベルガー・シュトラーセ・シュトゥディオ、ケルン)でのセッション録音が先行。その後、晩年のライヴ録音も多く、ベルリン・ドイツ響(1993年3月20日、ベルリン、コンツェルトハウス)、ミュンヘン・フィル(1998年4月21日、ミュンヘン、ガスタイク、フィルハーモニー)、ベルリン・フィル(1998年9月18、20日、ベルリン、フィルハーモニー)、北ドイツ放送響1(2000年11月13日、東京オペラシティ・コンサートホール)、北ドイツ放送響2(2001年7月8日、リューベック、コングレスハレ)などが知られています。

  本盤は、ケルン放送響と同時期の1979年、シュトゥットガルト放送響とのライヴ録音です。シュトゥットガルト放送響の演奏は大層充実しています。それもそのはず、この時期(1971~79年)、同団ではかのチェリビダッケが君臨し、ブルックナーを集中的に取り上げており徹底的に鍛えられていた時代だからです。本演奏は、比喩的にいえば、高度地域で猛練習してきたマラソン選手が、この日ばかりは低地で伸び伸びと走りこんでいるような雰囲気かも知れません。

 ヴァントは好んでシューベルトの『未完成』とこの第9番を組み合わせて演奏会を行っていますが、両曲ともに胸を張る自信の演目だったのでしょう。ヴァント66才の本演奏でもその息吹を強く感じます。さらに、残響のながい教会での収録であることも本盤の特色で、第9番の詠嘆的な終曲(第3楽章)は力感にあふれ、かつ心地よき響きです。

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ブルックナー・コラム Ⅴ

フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph)皇帝   フランツ・ヨーゼフは、実質栄光のハプスブルク帝国最後の皇帝です。しかし、この皇帝は大きく歴史が転回していく時代にあって、勤勉に職務を全うした君主であったようです。  朝は4時に起床し、夜9時就寝、公務は10時間という規則正しい生活をおくり、また請願者には厭うことなく会い、時には1日100名に及んだともいわれます。1848年3月革命を契機として18歳で即位しその後帝位68年という長期政権でしたが、国際的な、内政的な状況は厳しくとも、帝都ウィーンはこの皇帝の努力によって支えられ、世紀末文化の大輪を咲かせます。ブルックナーはフランツ・ヨーゼフの6才年上の同時代人です。以下でこの皇帝との個人的な関係もみていきますが、まずフランツ・ヨーゼフ個人および家族についての即位以降の簡単な年譜を記します。   1848年 即位 1853年 マジャール愛国者に襲われて負傷 1857年 2歳の長女を喪う 1867年 メキシコ皇帝の弟マクシミリアンが現地で処刑(皇位継承権は事前放棄) 1889年 皇太子ルドルフがマリー・ヴェツェラと情死(皇位継承者の死) 1898年 皇后エリーザベトがジュネーブで暗殺さる 1914年 甥フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺さる(皇位継承者の死) 1916年 逝去(2年後に帝国終焉)   その人生は、「夭折、処刑、情死、暗殺と、まるで不幸の見本市のごとく・・・」ということになりますが、よくこれだけの試練に耐えて国政に専心できたものです。執務は軍服でおこない「カール6世がウィーンにもちこんだスペイン風の慣習を好み、電話、自動車、タイプライターは避け、電気を用いず、最後までランプのもとで仕事をし、バス・ルームは作らせず、旧式のバス・タブをそのつど運ばせていた、という」古風な生活スタイルをあくまでも堅持した皇帝でした(池内紀監修(1995)『オーストリア』新潮社,p.36.)。   ≪政治・外交―激動の時代≫    ブルックナーが生きた時代は、彼個人の生活史とは別に激動の時代でした。オーストリアをめぐる外交事項を以下、ピック・アップしてみます(『オーストリア ミシュラン・グリーンガイド』(1999)実業之日本社,p.27.)。   【1848~1916年 フランツ・ヨーゼフの治世】   1848~1849年 ウィーン暴動(3月革命)。メッテルニヒ失脚。オーストリアはロシアの助けを得て、ハンガリー民族運動を鎮圧 1852~1870年 ナポレオン三世の干渉。オーストリアはマジェンタとソルフェリーノで敗北、その結果、ロンバルディアを失う 1853~1856年 クリミア戦争。オーストリアが介入し、ロシアはバルカン侵略から撤退をしいられる (1861~1865年 アメリカ・南北戦争) 1866年    プロイセン=オーストリア戦争。オーストリアはケーニヒグレーツの戦いに敗北。ドイツ政策から撤退 1867年    オーストリア=ハンガリー二重帝国成立 1878年    オーストリア、ボスニア・ヘルチェゴヴィナを占領 1914年    第一次世界大戦開戦   【1916~1918年 カール一世(Karl Ⅰ)の治世】   オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体。ハプスブルク帝国の終焉    ≪ブルックナーとの関係≫   ブルックナーは当時、オーストリアを代表する当代随一のオルガン奏者でした。この事実なくして、彼とハプスブルク家との関係はありえなかったでしょう。  ブルックナーは、1886年9月23日にフランツ・ヨーゼフ皇帝に謁見を許されています。彼にとって生涯最高の栄誉の場であったかも知れません。しかし、ここにいたるには、それなりの「前史」がありました。    ブルックナーは1868年から78年まで宮廷礼拝堂のオルガニスト候補者であり、1878年から92年まで宮廷礼拝堂楽団の正式メンバーでした。すなわち、彼はフランツ・ヨーゼフ皇帝に仕える立場に44才から24年間の長きにわたってあったことになります。  その初期の頃、ブルックナーはオルガン奏者として「海外遠征」で大変な成功を収めています。1869年4月から5月にかけてナンシーの聖エプヴル教会とパリのノートル・ダムでの、そして、1871年7月から8月にかけてロンドンのアルバート・ホールと水晶宮でのオルガンの即興演奏によって、ブルックナーの抜群の技量はあまねく帝都ウィーンで知られるところとなりました。    もともとナンシー行きも気の進まなかったブルックナーですが、当時はいまだ関係の良かったハンスリックのすすめもあり挙行しました。海外からはたった一人の参加でしたが、ここで大成功を収め、さらに関係者からパリ行きを懇願されます。そして、パリではセザール・フランク、サン=サーンス、オーベール、グノーらの音楽家もブルックナーの演奏に接しました。2年後のロンドンでの成功はそれ以上であり、ブルックナーこそオーストリアが誇る最高のオルガニストという評価をえることになります。  それ以前にも、ミサ曲ニ短調の初演(1864年)にオーストリア大公が臨席していることからも、宗教音楽の作曲家としてのブルックナーの名前は知られていましたが、なんといってもこの「海外遠征」の嚇々たる成果は他に代えがたいものでしょう。    時をへますが、1886年、ヘルマン・レーヴィやオーストリア皇帝の縁者である公女アマーリエ・フォン・バイエルンらの尽力により、7月9日にブルックナーはフランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与され、金銭面での援助にくわえて第3番(第3稿)および第8番のシンフォニーの印刷費も皇帝がだしてくれることになります。こうした経緯から1890年3月、ブルックナーは完成した第8シンフォニーをフランツ・ヨーゼフ皇帝に献呈します。    同年7月大公女マリー・ヴァレーリエ(先のアマーリエ・フォン・バイエルン改名)の結婚式でブルックナーは新婦の希望により「皇帝讃歌」の主題を含むオルガンの即興演奏を行い、これには臨席した皇帝も心を動かされたと伝えられています。前年の1889年皇位継承者たる皇太子ルドルフは若き愛人マリー・ヴェツェラと情死しています。傷心の皇帝はブルックナーのオルガンをどのような気持ちで聴いていたことでしょう。    一方、ブルックナーの蔵書には1867年に処刑されたメキシコ皇帝マクシミリアン(フランツ・ヨーゼフの弟、メキシコ行きはナポレオン三世にそそのかされてのことといわれ、出国に際して皇位継承権を放棄した)に関するものがあったとのことですが、皇帝に仕えるオルガニストとしては当然の関心事項だったかも知れません。    晩年の1895年に、ブルックナーはベルヴェデーレ宮の管理人住居にうつり、ここで死を迎えますが、この住居の提供も皇帝の好意によるものでした。そしてこの住居の所有者は、当時皇帝の甥で1914年サラエボで暗殺される皇位継承者フランツ・フェルディナントでした。落日のハプスブルク帝国とブルックナーの後半生は、このように浅からぬ関係にあったことがわかります   <参考文献> ・江村 洋(1994)『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍. ・塚本哲也(1992)『エリザベート ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋. ・土田英三郎(1988)『ブルックナー』音楽之友社. ・デルンベルク(1967) 『ブルックナー』和田旦訳,白水社.
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